「――生田」

主役なんだから二次会に来いと言う煩い声から逃げ、地下鉄の駅に向かっていると、突然声を掛けられた。

足を止めてその声の方を向く。
そこには、ズボンのポケットに両腕を突っ込みビルの壁にもたれて立っている田崎の姿があった。

俺を、待っていたのか――?

「二次会には行かなかったんですか?」

どうしても発する声が低くなる。

「それを言うならおまえじゃないのか? 今日の主役だろ」

そう言いながら俺に近付いて来た。

「赴任前でいろいろ忙しくて」

「あっそ」

一体なんだ。

「俺に、何か用ですか? できるなら、このまま行かせてほしいのですが」

抑揚のない声で言うと、田崎がふっと息を吐くように笑った。

「相変わらずだな、おまえは。最後なんだ、少しくらいいいだろ? 付き合えよ」

「は? なんで――」

俺の返事も聞かずに、ずかずかと勝手に進んでいく。仕方なくそれに従った。

路地裏の雑居ビルにある、目立たない入り口から狭い階段を下りて行く。
古ぼけた一枚木の扉を押すと、薄暗い部屋が広がっていた。
それは、昔からあるバーのようだった。
店内は薄暗く狭い。
カウンター席でその面積のほとんどを占めていた。

「田崎さんがこういうところに来るなんて、意外ですね」

「おまえの口調、敬語に戻ってるな」

俺の言葉をまるっきり無視した言葉が返って来る。

「それを言うなら田崎さんだって、『生田係長』っていう嫌味な言い方と敬語がなくなっていますよ」

「もう、おまえは僕にとって係長でもなんでもないしな。少なくとも二、三年はおまえに会うこともない」

促されるようにカウンター席に座る。そうして、ウイスキーも勝手に注文されていた。

「……で、話は何ですか?」

俺にしてみれば、こんなところで田崎と酒を酌み交わす趣味はない。

どうせ、沙都のことなんだろう。

さっさと言ってほしい。

「別にないけど」

「は?」

この人は、最後の最後まで俺を振り回そうっていうのだろうか。
沙都を抱き寄せていた光景が目に浮かび、胸がしびれる。
もう、何もかもを振り切りたくて、差し出された琥珀色の液体を身体に流し込んだ。

「ただ、やっぱり僕はおまえが嫌いなんだって実感してる」

「嫌いな奴を酒に誘うなんて、相変わらず悪趣味ですね」

「自分では、趣味はいい方だと思ってるけど。特に、女性の趣味は。おまえもだろ?」

嫌味なほどの爽やかな微笑を向けてくる田崎を、睨みつける。

「――何が、言いたいんですか? そういう遠回しな言葉を言い合うような関係でもないでしょ」

これまで、散々言われ放題言われて来た。

「まあ、そうだな。じゃあ、一つだけ」

田崎が身体ごと俺の方に向く。

「僕は、心底おまえみたいな人間が嫌いだ。それと、内野さんのことは諦めないよ」

「それ、一つじゃないですけど……」

それに、嫌いだと言う言葉はもう何度も聞いている。

深く息を吐いた。

「そういうところが嫌いなんだ。でも、まあいいか。おまえの取り乱す姿を何度も見られたから」

「……そうですね」

この人の前で、俺はどれだけ自分を見失ったか分からない。
他人の前でこんなにも表情を変化させたのは、沙都の他には、この人くらいのものだった。

「彼女のことは、全力で手に入れに行く。ちょうどおまえもいなくなるし、おまえの力では彼女を繋ぎ止めることはできなかったみたいだし――」

その言葉に目を固く閉じる。

「おまえと違って、僕にはたっぷりの時間があるからな」

そして、ゆっくりと瞼を開けた。
グラスの中で揺れる氷が琥珀色を薄めていく。
その様子を見つめながら、薄くなんてならないでほしいと願った。

「あれだけ虚勢を張って、大丈夫だって強がってたのに。終わりは、結構あっさりしてたな」

俺と沙都が別れたのもお見通しってわけだ。
本当にこの人は他人《ひと》のことがよくわかるようで。

「おまえに対しては申し訳ないなんて少しも思わないよ。同情する気もない」

何も言葉を返せない俺は、結局、この男には敵わなかった。