私たちは見えない敵と戦っている

「お前がこの前、俺を切ったのを覚えている。俺の感情を一時的に切って浄化しようとしたのかもしれないが、それこそおせっかいだ。比奈の薄い決意は、俺の決意を壊せはしない」
 薄い決意。人に秘め百合を振りかざすことが、鵺にとっては薄い決意だというのか。
「ふざけるな。鵺こそ、何も知らない癖に」
「知らないが、言わせてもらう。俺の前で自分を正義だと振りかざすな。比奈こそ、自分の為にしか動いていないだろ!」
 鵺は、急に上着を脱ぐと、中から防弾チョッキが現れた。その腕の部分に銃のケースが付いている。
「俺がこれで自分を安心させているように、比奈もその後ろの剣で自分を安心しきり、神の使いだとでも奢っているんだろ」
「――は? ちょ、え」
 一瞬で私は酷く動揺してしまった。もしかしなくても、鵺みたいな忌みを放出しているやつに秘め百合が見えるだなんて。
「普通の日常に憧れていると言いながら俺にその剣を振りかざした。笑止。その剣で自分の身を守っているくせに、なにが日常だ。諦めて俺と一緒に――」
「うるさい! うるさいうるさーい!」
 防弾チョッキを着た鵺と、嘘を身に纏った私と、段ボールを持って玄関で呆然としている鳩。誰も日常を上手く生きている人なんていないのは分かっているけど。
「私は、鵺みたいに何か起こしたわけでも、何か目的があるわけでもない。生まれつきの、諦めるしかない異常の中で、ただ日常に憧れてるだけだんだから」
「お嬢」
 ヒステリックに叫んだ私は、そのまま鵺の部屋に入ると改造銃を両手に持って出てきた。
「ぶっ飛ばしてやるわよ」
「お嬢ってば、自分の手が爆発しちゃいますって!」
 最後の段ボールを私に押し付けると、鳩が玄関まで私を押しだした。
「二人ともが、全く論点がずれた世界で言い争い、何も意見が交差していないのに興奮しているのが見てとれましたよ。一端、落ちついてください。後は、俺が鵺君と話をしますから」
「鳩……」
「大丈夫っすよ。ね、お嬢は俺にはちゃんと普通の女の子です」
 玄関のドアを閉める前に、鳩は私を安心させようと微笑んでからドアを閉めた。
 そうだ。私は鵺を非難しようとして、ただ今の自分の怒れた状況を正当化しようとしていた。私こそ、鵺を傷つけて自分を守ろうと、自分の考えを押しつけようとした。傷だらけの鵺を、秘め百合を抜いて傷つけたのは私だ――。
六、嘘ではないから苦しいのだと、雷神が言う。
 段ボールを持ったまま、自分の家の手前で足が止まった。鳩は、あんな風にいつも気取らずに優しいけど、きっといっぱい、色んな感情を経験して、今の自分の輪郭を作りだしているのだと思う。
 私はいつも、のらりくらりと現実と忌みが見える世界を見ないふりして生きてきた。そんな私と、周りから異常だと言われても考えを通す鵺は、どちらが上だと決めないといけなかっただろうか。
「比奈ちゃん」
 呆然と立ち尽くしていた私に、花屋のシャッターが上まで全部空いた。
「羊羹貰ったから、おいで」
「重じいちゃん」
「その段ボール、うちにおいてなさい」
 痴呆が進む前の、いつもの豪快なお爺ちゃんがふっと蘇ったようだ。変な謎かけもせずに私を招いてくれた。
「ほら、おたべ」
「わ……」
 大雑把で豪快な重爺ちゃんらしい。羊羹の先のビニールを取っただけで、丸々一個、切らずにくれた。お爺ちゃんもそのままかじりついている。一本丸々食べたら、絶対に夕食が食べられなくなると分かっていたけれど、私は躊躇いも無くそれにかじりついた。丸椅子に座り、ぶらぶらと足を揺らしながら、薄暗くなった空を見上げる。羊羹の最初の一口は、砂糖の固まった部分がしゃりっと口の中に広がった。
「赤司の羊羹、大好き」
「儂も」
 ただ、まるまる一本食べるなら、せめて渋いお茶でも用意した方が良いかもしれない。そんな気力はまだ沸いてこないけど。
「重爺ちゃんは、どうせまた明日には、自分の記憶のすみっこに逃げちゃうんだよね」
「そうかのう」
「今から言うことも、きっと忘れてくれるよね?」
 その発言に、お爺ちゃんは羊羹をまるでパンのように齧りながら頷いた。「明日には忘れるよ」
安心させようとしてくれるお爺ちゃんが、私は大好きだ。
「私ね、忌みって言って、人の悪い気とか長年積み重なって黒くなっちゃった自然の汚れみたなモノが小さいころから見えてね。吸いこんじゃうとすぐに具合が悪くなっちゃうんだよね」
「遠足で、竜体山に登るときも大きなキツネの形をした忌みが意地悪して登れなかった時があって、皆には見えないんだけど私には見えてて、――どうしたら見えなくなるのか、普通になるのか、悲しかった。遠足の写真で皆が楽しんでいるのを見て、すっごい悔しかった」
「うん。覚えているよ。比奈ちゃんは、豆田町から一歩飛び出すと不安そうな顔をしていたからね」