土日は、男とのデートで家に帰らない。だから鳴海を土日は決して外に出さないように、毎日毎日、ゆっくり洗脳していった。
「確かその頃からかしら……夜中、あのアパートから子どもの泣く声がよくしていて、近所から苦情が来ていたようね。幽霊だと恐がる人がいたけれど、真相は、お姉ちゃんの偽物の墓の前で泣く鳴海さんだったのですけどね」

 そして、悲劇が起こる。麗子の夫が亡くなったのと、それを聞いて、病院に向かう先で事故にあった彼女が亡くなる日が、被ってしまったのだ。
「……ね 他言するには重すぎる話でしょう」


 麗子は、ハンカチをキツくキツく握りしめながら、そう言った。みかどは余りに重い店長の過去に、言葉を失ってしまった。

「鳴海さんは3週間、202号室で帰らない母親を待っていましたわ。……お母様は人身事故で顔も分からない酷い有り様で、身元を判明するのに、3週間かかってしまったの……」

 そう言った後、突然、すぅーっと麗子の瞳から涙が流れ落ちた。
「鳴海さん、3週間ずっと202号室で、何も食べずに過ごしたの。久しぶりに私が偶然立ち寄った時に、余りに猫が鳴くので二階に上がりましたの。――定宗さんが鳴いてなかったら、私は鳴海さんを殺してしまっていたでしょうね」

 ポロポロ泣く、麗子は静かに言った。
「開けた202号室には、鳴海さんが畳の上に倒れていました。手でかきむしった畳を口の中に頬張って……」

 鳴き止まない定宗さんの声、広告や畳を食べて飢えを凌ごうとした、店長。想像なんてしたくないのに、鮮明に脳裏に映像が映し出される。

「入院して目覚めた時、鳴海さんは全ての記憶を無くしていたわ。姉が居た事も、どうして入院したのかも。でも、思い出したら吐いたり倒れたりしてしまうから、無理に思い出す事は禁じましたの」
 そうして、今の何も知らない優しくてふわふわした店長が出来たのだ。

「やっと落ち着いた……大丈夫だと思っていた矢先、大学でお姉さんと再会して、フラッシュバック……。真絢さんと、自分を置いていった母親が重なったのかもしれませんわね」


 男とデートする為に、鳴海さんを置いていった母親と、八股した私の父と結婚している義母の真絢。重なったのかもしれない。


「私は、鳴海さんが全て思い出して壊れてしまうのが怖いわ。あの優しい笑顔が壊れてしまうのも、全てが怖いわ。だから、母親が亡くなって、姉が消えた土日を、未だ母親の言葉を守り、部屋から出れなくても」


 土日に部屋を出たら、駄目よ。そう言った、母親が土日に消えて帰って来なかったのだから。ゆっくりゆっくり、店長を洗脳していった日々は、記憶が無くなっても消えない。記憶に依存し縛られ、抜けださないのだ。そして、店長が信頼する麗子も、土日に出歩かない事を言及しなかったから、余計にそれは正しいと思わせた。
 本当の母親からの虐待と、麗子からの優しい虐待。それがゆっくり長い年月をかけて、店長をコントロールしているのだとしたら。


「で、は……、こ、このままで良いって思い、ま…すか」
 麗子は優しく首を振った。

「でしたら貴女に言いませんでしたわ。私、矛盾してますの。自由になって欲しい。変わらないで居て欲しい。この長い月日、毎日考えておりました。貴女はこれを聞いて、どう思いました鳴海さんにどうなって欲しいと願いました」


 麗子の目は真剣で、透き通る様に美しくて、全てを見透かすように真っ直ぐに、優しく射抜いていく。深呼吸をして、みかどは逃げないように両手を握り締める。全身の震えは止まらない。まだ、答えも分からない。ただ、願うのは、二人とも同じ。
「だ、誰にも、お兄さんの土日を奪わせたく……ありません」
 それが、過去のトラウマだとしても。
「では、戦いますのね……」


 そう聞かれて、みかどは俯いた。全身の震えは止まらなくて泣くのは、店長に失礼だったから、ぐっと唇を噛んだ。


「わ、私、ちっぽけで、……お、お兄さん…に何かできる程、で…できた人間で、も無くて、ずっと、ずっと言い、な…りの、自分を持たない人形で……」


 弟に守られて、千景に憧れて、岳理に助けてもらうだけの情けない自分。
「ま、まずは自分の問題とた、戦います!そして、逃げないで、父と向き合って、自分と戦ってから、お兄さんと向き合いたい……です」


 俯いたまま、情けない格好だったけれど、顔を上げたら、麗子は笑っていました。優しく穏やかに、やはり慈愛に満ちた美しい笑顔で……。でも、分かってる。この人がいくら店長を大切にしてても、敵でも味方でもないんだ。

「あの、弟がアルジャーノンに、私の本当の兄が居るっていってました! ご存じないですか」
みかどが核心に迫った時だった。向かい合って見つめあっていたら、後ろから声がした。


「お邪魔しまーす」
「あ、え…… トールさんとリヒトさんに、葉瀬川さん」
 そこには、スーツ姿の三人が立っていた。

「まぁ、三人ともどうしましたの」

 麗子が立ち上がると、リヒトとトールも麗子を抱き締めた。

「あんなに素敵なお土産貰って、お礼を言えないなんてないよ」
「運転手さんに頼んで、ここを教えて貰ったから。空港まで見送るよ」
「まあまあ」

 麗子は乙女の様に笑うと、ゆっくりみかどを見つめた。

「そうね。きっと居るわ。私は――誰だが知っている。けれど先にお父様と戦うの、頑張って下さいね。もし、分かり合えなかった場合は、私に学費を援助させて下さいな」


 この人は、どこまでみかどの事を調べたのだろうか。全て分かった上で、みかどをアルジャーノンに受け入れてくれたのだ。そして、今も受け入れてくれている。

「みかどちゃん、空港まで一緒に行く」

「ううん。用事ができたので」
 麗子はウインクをして、3人にエスコートされて部屋を出た。


 みかどもふらふらながらも立ち上がり、目指す場所へと向かった。
 居場所なんてない、実家へと向かう。閑静な住宅街にそびえ立つ、2階建ての家。父の趣味で、統計学的に地震に強い形で、統計学的に落ち着く色で、統計学的な家族の間取り。つまり、どこにでもある平均的な家。

「姉ちゃん」
鍵を差し込み回してすぐに、皇汰の声がした。お風呂上がりのジャージ姿の皇汰が、タオルで髪を拭きながら玄関にやって来た。

「お義母さんは」

「朝方帰って今も眠ってるよ」

 いざ行かん!とばかりに靴を脱いだ瞬間、二階の部屋のドアが開く音がした。
「皇ちゃん、お薬頂けるかしら 二日酔いで頭が痛くて……」
 紫色のランジェリー姿の義母が、欠伸をしながら二階から降りてくる。

「うっわ! 気持ち悪い姿!」
 皇汰は、吐きそうな顔を隠さずに暴言を吐いた。義母はやっとみかどに気づく。


「……何であんたが此処に居るのよ」
 すっぴんでも、色気のあるぶ厚い唇で、毒を纏う蝶のような義母を、――みかどは冷静に睨みつけた。
「せ、宣戦布告に来ました!。私、貴女に利用されるつもりはありません!」
 義母は、キョトンとしていたが直ぐに見下した様に笑った。
「何を」
「アルジャーノンのお兄さんに、近づかせないって言うんです!」
 すかさず鼻息を荒くしながら言えば、義母はつまらなそうに言う。


「あら、あんた知ってしまったの 鳴海は元気にしてる」
そう聞かれるが、答えてやるもんかと舌を出す。
「お兄さんに近づく目的も、父と同じでお金ですか!」
「……酷いわ。お金なんて」
 そう言いながらも、顔は笑っていた。


「岸六田不動産の女社長が亡くなれば、鳴海にもいくらか入って来るんでしょう 鳴海に管理なんて無理だろうって、心から心配しているわ……」


 みかどが相手だと舐めてかかってペラペラ本音を喋るが、逆に隠さない方が敵だと判断でき助かる。一瞬、義母の後ろに店長の母親の影を見た。多分、そっくりこのままの人、だったのだろう。
「絶対に近づかせません! お兄さんは利用させませんから! この年増!」
「若作り!」
「財産目当ての、下品な胸!」
「よっ、垂れ乳!!」

 皇汰が合いの手のごとく、みかどより酷い暴言を吐くが、義母はみかどを睨みつけている。
「じゃ、皇汰、またね」
「調子にのってんじゃないわよっ」
「うん。なんかよく分かんねーけど、落ち着いたらメールしてな」


「無視するんじゃないわよ!」
 鬼の形相で睨む、義母を横目に家を出た。追い出されるまでは、義母からの劣等生だの、楠木家の恥だの言われた暴言や、皇汰だけにむける笑顔や優しさに胸を痛めていたけれど、もう痛める事はない。みかどは、負けない。自分を分かってくれない人に、何を悪く言えるのか。店長がどんな気持ちで生きてきたかも知らずに、お金目的で監視していた人に、情なんてわかない。
 閑静な住宅街に突如響く携帯のバイブ音。

震える携帯を開けば、相手は『孔礼寺岳理』。みかどはその名前を見た瞬間、そっと携帯の電源を落とし走り出していた。