この町に魔法があるとはっきりと実感したあの日から、急速に俺の夏は色づきはじめた。というよりも、今まで眩しくてたまらないと目を背けていたのをやめるだけで、見えるものが違ってきたのだ。
 見たくないと背を向けていた場所には、ただそれぞれの夏があるだけだった。胸を焦がすような夏も、直向きに汗を流す夏も、俺から別に何かを奪っていくわけではなく、俺以外の誰かのものだというだけだった。
 そして俺も、魔法のある夏を手に入れた。
 すれ違う猫を見て、この子も人間に変身するのだろうかと考えたり、青々と繁る木々を見上げて、この木は癒しの風を知っているのかと考えたり、この町にかつていた魔法使いのことを思いながら歩くのはすごく楽しい。
 俺はすっかり、魔法が「ある」世界を生きている。
 そうは言っても、俺が魔法に関わったのはハッちゃんのときの一回きりで、あれ以来せっせと「たまや」に通ってはいるけれど、魔法を必要とする人はおろか、普通のお客さんにと遭遇していない。

「お」
「あら」

 坂を登りきったところで「たまや」の前のベンチにおばあさんが座っているのを見つけた。
 初めて見る自分以外のお客さんで、おそらく向こうにとっても珍しいものだったらしく、お互い同時に声をあげてしまった。

「暑いわねぇ。この歳になると暑いってだけで命が削られる思いだっていうのに、こんな坂を登っちゃってねぇ。若い頃はね、それこそ坊やくらいの歳の頃よ、そんなときはこのくらいの坂、なんてことなかったのよ。スイスイスイって登ってたんだけど、今はもうダメね。こうしてしばらく休んでないと動けそうにないわ。昔はね、夏といってもこんなに暑く……」

 ハワイのムームーのようなワンピースを着たおばあさんは、扇子でパタパタとあおぎながら勝手に話しはじめた。「しばらく休んでないと動けそうにないわ」と言っているわりに、元気に口は動いている。
 どうやら話しかけられているようだから相槌を打ちたいなとは思うのだけれど、俺の会話スキルでは到底無理そうだ。
 仕方なく、俺はアイスをケースから取り出しておばあさんの横に腰掛けた。

「あぁ、アイス! そうそう、私もここのアイスキャンディーが食べたくて来たんだったわ」

 さっきまでよく動くのは口だけで、体の動きはゆったりしていたのに、俺がアイスを食べはじめたのを見るやいなや、おばあさんは素早くアイスケースの前まで移動した。

「それ、すごく固いですけど」
「大丈夫! 私、インプラントしてるから」

 ここのアイスの顎を疲弊させる固さはお年寄りにはきついんじゃないかと心配したけれど、おばあさんはそんな俺にニヤッと笑い、人工的な歯を見せつけた。
 なるほど。パワフルなのはおしゃべりだけではないらしい。

「固いわねぇ。でも美味しい」

 人工の歯は冷たさを感じないのだろうか。おばあさんはショリショリとためらいなくアイスを食べ進めていた。若い俺よりも良い食べっぷりだ。

「懐かしい味なんですか?」

 目を細めて幸せそうに食べていたから、俺はおばあさんにそう尋ねた。おばあさんはしばらく考え込んだあと、ふるふると首を振った。

「私が子供の頃はこんな洒落たものはなかったわね。ただの水にサッカリンっていう人工甘味料を溶かして凍らせただけのものしかなかったの。当時はそれでも美味しく感じたけどねぇ。大きくなって柔らかなアイスクリームも食べたし、今じゃ冷たいデザートも色々あるけど、たまにね、子供の頃に食べたあの味と食感が恋しくなっちゃうのよ。みんなで小銭を握りしめて買いに走ったあの夏の日がね、たまにすっごく恋しくなるの」

 おばあさんは子供時代を夢見るように、うっとりとした表情で話し続けた。
 俺にも祖父母がいるが、彼らはいつも自分の話をするよりも孫である俺の話を聞きたがるから、こういった古い時代の話は貴重だ。
 俺が決してこの目で見ることはない遠い過去の夏の日を知っている人が、俺と同じ夏を今こうして生きているということ自体が、何だか魔法じみて感じられる。

「そういえば、また魔法を始めたのね、この店」
「またって?」
「昔、私がまだ娘だった頃にも『魔法あります』の貼り紙をして商売していたのよ。私もお世話になったことがあるわぁ。懐かしい」
「どんな魔法を教えてもらったんですか?」

 あまりにも楽しそうに言うので、俺はおばあさんが教えてもらったという魔法がどんなものか気になった。
 この町でこれから魔法とそれを必要とする人の橋渡しをする立場として、かつての魔法使いがどうやって人々を幸せにしていたのか知りたかった。

「あら、坊やは魔法を信じてるの? 現代っ子なのに?」

 けれどおざあさんは、茶目っ気たっぷりに俺の質問をはぐらかした。これはたぶん、俺が自分の思い出を語るに値する人間か値踏みしているのだろう。
 誰だって自分の宝物を共有できるかもわからない相手に差し出したくはないから、この反応は当然だ。
 俺だってまだ誰もここに連れてきていないのは、不用意に踏みにじられたくないからだ。

「信じてます。だって、魔法があったほうが素敵だから」
「そう。そうね」

 おばあさんは俺の返答に満足したのか、にっこり微笑んで頷いた。

「『左足からけんけんぱ、右足からけんけんぱ、三歩進んでくるりんぱ、後ろにいる人だぁれ?』っていうの。この坂を下っていったところに神社があるでしょ? そこでこの呪文を唱えると会いたい人に会えるの」
「会いたい人に会える魔法?」
「そう。私はこれで結婚相手を決めたのよ」

 おばあさんはまるで乙女のように、ふふふと笑った。
 結婚相手を魔法で決めたというのは、どういうことなのだろう。すごく意味深な発言なのに「ふふふ」と笑って済ますのは、どういうことなんだ。

「気になる?」

 頭に「?」がいっぱい浮かぶ俺のそういった反応を楽しんだのか、おばあさんは満足気だ。

「気になります」
「じゃあ、おばあちゃんの昔話に付き合ってもらおうかしら」

 そう言っておばあさんは、昔の話を語り始めた。
 その声は夏の高く暑い空に溶けるように優しく響き、どこかしこで鳴く蝉たちの声と混ざり合ってまるで映画のナレーションのように俺の耳に届いた。


「私にはね、二人の幼なじみの男の子がいたの。家が近かったっていうのもあるけど、とにかく気があって、いつも三人一緒にいたの。普通はね、大きくなると男の子と女の子っていうのはあんまり一緒に遊ばなくなるものなんだけど、私たちはいつまでも小さな子供みたいに一緒にいてね……だから私は信じていたの。いつまでも三人で一緒にいられるって。でもね、中学を卒業する頃、幼なじみの一人が東京に行くって言い出してね。ここら辺にだって仕事はあったのに……若者だから夢を見ていたんでしょうね。二人して止めたけど、最後は喧嘩みたいになっちゃってね。だからもうこのままなのかしらって思ってたんだけど、旅立ちの日にね、彼は言ったの。『立派になって帰ってくるから待ってて』って。もう一人の幼なじみには『抜け駆けしたら許さないからな』って。そのとき初めて、私は二人から想われていたことを知ったの。女のほうが男より先に大人になるなんて嘘よ。だって、三人の中で私が一番子供だったもの。そのあともね、特に進展があるわけじゃなく、東京に行った彼とは手紙のやりとりを続けたし、もう一人とは仕事がお休みの日にたまに会っておしゃべりしたりね……そうして何もないまま数年が経って、『そろそろ結婚を』なんて話が周りから出始めたとき、地元に残った幼なじみから結婚を申し込まれたの。そのときになっても私、どうしたらいいかわからなくって……それで、ここに来てさっきの魔法を教えてもらったのよ」

 そこでおばあさんは、ひとつ大きく息をした。長く話して疲れたのだろうか。その顔が語りはじめと違って陰のあるものだったから、俺は話の続きを促せずにいた。
 そんな俺に気づいたのか、おばあさんはニッコリ笑って、再び話し始めた。

「あの呪文を唱えたらね、本当に彼が目の前に現れたの。すごく遠くにいるはずだから、向こうもびっくりしてたけど、それより会えた嬉しさがまさってね……色々話したわ。でも、肝心なことがなかなか言えなくて。そうしたら彼、何かを感じとったんでしょうね。笑ってこう言ったの。『立派になって帰るから、あいつと二人で待ってて』って。その言葉で私は、もう一人の幼なじみとの結婚を決めたのよ」

 語り終えるとおばあさんはカラリと笑った。さっき見せた翳りは消え失せ、晴れやかな顔をしている。

「こんな話、今まで誰にもしたことなかったけど、話したらすっきりしたわ」
「……おばあさんは、その人のことが好きだったんですか?」
「それを聞くのは野暮ってもんでしょ。……実際ね、わかんないのよ。でも、ひとつ言えるのは、私は結婚して幸せってことね」

 ふふふと笑うと、おばあさんはアイスの代金をおいて立ち上がった。

「おばあちゃんの昔話に付き合ってくれてありがとう。また来るわ。そのときはまたお話してね」

 そう言って手を振りながら、おばあさんは元気に坂を下っていく。
 俺はその後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
 いつの間にか遠くにあったはずの入道雲が迫ってきていて、焼けつくアスファルトに不穏な影を落としている。

「タマさーん、お代、ここに置いておくね」

 座敷のほうへ声をかけたけれど返事がなかったから、古めかしいレジスターの横にお金を置いて店を出た。
 風に乗って鼻腔に届く空気が、少し埃っぽいにおいになっている。
 これは雨が近いな――そう思ったけれど、俺はいつもの道へ行かず神社のあるほうの道へ足を向けた。
 神社といっても、小さな祠と狐の石像があるだけのこじんまりとしたもので、この辺が住宅地になるとき取り残された、そんな雰囲気のものだった。
 そのせいか、さっきおばあさんにあの話を聞くまで存在を思い出しもしなかったくらいだ。
 だけど、こうして見ると周りの木々も伸び放題というわけではないし、祠も朽ちてなどいない。誰かが手入れしているのだろう。

「けんけんぱ、ねぇ……」

 さっき教えてもらった魔法を試してみようかと思ったけれど、俺には特に会いたい人などいないことに気づく。
 というよりも、今は会いたいと思えば会いに行ける距離に、俺の会いたい人たちはいるのだ。
 それはたぶん、すごく幸せなことだ。
 今の俺には、坂を駆け下りてこの神社の前までやってきて、けんけんぱをしたおばあさんの、焦がれるような気持ちは到底理解できない。
 そんなふうに駆り立てるような存在は、まだ俺の中にはない。
 そのことを思うと、ちょっとだけ淋しくなる。