空はまだまだ夏の濃い色をしているけれど、ふっと吹く風にはもう秋の匂いが混じっていて、ああ、もう夏も終わるのだなぁ――と感じる。
 今日は学校へ行く用事もないのに、制服を着て、「たまや」のベンチに座って武内さんを待っている。
 お盆を挟んで前期後期と続いていた課外が先週で終わって、これから新学期が始まるまでの一週間ほどが、俺たちにとっての本当の夏休み。
 その夏休みを有意義に過ごそうと武内さんと色々話して、今日は電車に乗って市街地まで出かけることになった。
 市街地に行くのにどうして制服なのかと言うと、今日は武内さんが写真部のミーティングで学校に行っていて、それが終わって着替えてから待ち合わせると時間がもったいなくて嫌だと彼女が言ったからだ。
 武内さんは、「制服デートって、してみたかったんだよね」なんて言っていたけれど、俺としては見慣れていない私服をもっと見てみたい。けれど俺たちはまだ始まったばかりで、これから先にたくさんの楽しいことが待っているのだから、私服姿というのもそれらのうちに入るのかなと思っている。

「デートの待ち合わせって、やっぱり緊張する?」

 ひょいと店の奥から現れたタマさんが、ニヤニヤしながら俺に尋ねた。この人は、こと武内さんのことになるとこうやってからかってくるから困る。

「別に緊張はしませんよ」
「初々しくないなー。ドキドキってのを大事にしないとダメなんだよ、坊や。それにしてもヘタレな司くんがちゃんと告白できるなんてねー」

 ふふふと口に手を当てながら、それはそれは楽しそうにタマさんは笑う。自分が焚きつけておいて何を言うかと思ったけれど、ヘタレなのは自覚しているので黙っておいた。タマさんには感謝感謝である。

「司くん、変わったよね」
「そうですか?」
「うん。いい顔になったよ」

 眩しそうに俺を見るタマさんの眼差しが何だかとても優しくて、照れてしまって何も言い返せない。そんな俺に構うことなく、タマさんは隣に腰かけた。
 変わったといえば、吉川先輩はあれから長かった髪をばっさり切った。無事に別れることができたと聞いたあと、妖怪・小宮の話をすると、「何それ、嫌だ」と心底気味悪がった顔をして、その足で美容院へ行ってしまった。
 長い髪も似合っていたけれど、毛先に丸みを持たせたショートボブもなかなかに可愛らしくて、吉川先輩親衛隊を名乗る田中は歓喜の声をあげていた。
 自他ともに認める美少女好きの田中は、武内さんを通じて知り合った吉川先輩に絶賛片思い中である。熱烈アピールの度が過ぎて、本当に好きであるにもかかわらず、傍目から見るとアイドルとファンのようになってしまっているのが非常に残念だ。
 けれど、女性に対する気遣いはかなりうまい奴だから、それが傷心の吉川先輩を程よく支えているようで、意外にいい組み合わせになりつつある。
 そうやって、「たまや」を通じてできた縁が、俺や俺の周りで繋がって、広がって、新しい世界を作っていっている。

「この夏は、色々あったね」

 誰に言うでもなく、タマさんはそう呟いた。その声に、俺も黙って頷いた。
 「たまや」を通じてできた縁が、俺の夏を濃く鮮やかにしてくれた。
 ハッちゃんをはじめとする猫娘たちも、ヤエさんも、幸太と藤雄さんも、俺が「たまや」に通っていなければ出会わなかった人たちで、出会えてよかったと心から思う。もっと言えば武内さんとだって、「たまや」がなければこんなに親しくなっていなかっただろう。
 それも含めて、この町にかつていたという魔法使いが、俺にくれた魔法なのだろうなぁと思う。

「そういえば、タマさんはヤエさんたちが来ているときは店先に出てきませんけど、どうしてなんですか?」

 ずっと気になっていたことを思いきって尋ねてみた。タマさんと二人きりという絶好のタイミングだったというのもあったけれど、何となく、聞くなら今しかないと思ったのだ。

「ああ、だって、あの人たちにとっての『たまや』の姿にあたしはいないんだもん。先代のことを知ってくれている貴重な人たちだからさ、あの人たちの思い出は大切にしたいのよ」

 もっと言い渋られたり、はぐらかされたりするかと思っていたのに、タマさんはあっさり答えてくれた。しかも、その答えによって俺なりに色々考えた説も、あっけなく否定された。

「あ、なんだ……そういう普通の理由だったんですね」
「え? なになに? もしかして何か難しいこと考えてた?」

 落胆する俺を見て、タマさんは面白がっている。よく考えれば馬鹿げていることだっただけに、何だかものすごく恥ずかしくなった。

「俺、てっきりタマさんは随分前から年を取ってなくて、姿が変わっていないのを隠すために昔からのお客さんの前には出てこないんだろうって考えてたんです。何でこんなこと考えたかっていうと、俺、ちょっと前に小さい頃の夢を見て、その夢の中で知らない女の人に手を引かれてこの坂を上ってたんですよ。それで、よくよく思い出したら、実際にそういうことあったなーって。で、その女の人がタマさんに似てたから、もしかしてって思ったんですけど……くだらなかったですね」

 あははと笑って誤魔化そうとしたのに、タマさんはすごく真面目な顔をして俺の話を聞いていた。真面目な顔というより、マジな顔だ。
 何かまずいことを言ったのかと不安になっていると、やがてタマさんは嬉しそうに顔をほころばせた。

「司くん、覚えてたんだね」

 そう言って、花が開いたように笑った。

「そうだよ。司くんがまだ小さかったとき、飼っていた猫が死んでしまったって泣いていたのを見つけてね、ここに連れてきたことがあったんだよ。……もう、忘れちゃったかと思ってた」

 喜びを噛みしめるように、しみじみとした調子でタマさんは言った。
 俺にとっては本当に些細なことで、もしかしたらという、ほんのちょっと記憶に引っかかっている程度のことだったのに、タマさんにとってはそれがとても大切なことみたいだった。

「猫が死んでしまって、司くんがこの世の終わりみたいに泣いてるのを見てね、あたしはその子が羨ましくなったんだよ」

 何が何だかわからずにいた俺に説明するように、タマさんは語りはじめた。

「その猫は、優しい司くんに可愛がられて命を全うして、死んだあともそうして泣いてもらって、愛されてるんだなぁって思ったら、羨ましくなったのよ。……自分で選んだことだけど、あたしは、誰にもそうやって送られることはないから」

 そう言ったタマさんは、どこか少し淋しそうだった。
 何の話をしているのだろう? なぜ、淋しそうなのだろう? ――俺の理解は追いついていないのに、タマさんの話は続いていく。