「なぁ、俺の日本語はちゃんと通じるよな?」
「うん」
「大丈夫だよ」
「じゃあ俺に、いや俺たちに“国語力”なんて求めないでくれよぉー……」

 坊主頭を抱えて、田中が机に突っ伏した。綺麗に剃り整えられた頭の横には、片づけられていないテキストと、コンビニで買ってきたまま手をつけていないとろろ蕎麦。
 今日は本当は、課外が終わったあとは武内さんとご飯を食べながら大学調べをするはずだった。
 俺が建築学科に興味を持ったと話したことで、武内さんが「じゃあ、あたしも」なんて言い出して、そもそも古民家再生に携わるのに建築学科以外のアプローチはないのかという話になり、それなら色々調べようという話になっていたのだ。
 そんな俺たちのところに、虚ろな目をして田中はやってきた。

「古典も現国もわからん。でも、このままだと部活に参加させてもらえない……」

 青い顔をして田中は言った。
 田中が所属する野球部は、文武両道をモットーとし、定期テストや模試のたびに部内目標が掲げられるため、ある程度の結果が求められる。だから赤点なんてもってのほかだ。
 もし赤点やそれに匹敵する悪い成績を取れば、部活に参加できる時間を制限されてしまうらしい。
 田中は特に勉強が不得意なわけではないのだけれど、なぜか国語全般が伸び悩みで、大会が終わってひと段落ついたということで、ついに国語の成績に対して顧問から警告が出されたそうだ。

「国語も数学と一緒で決まりを理解すればスラスラ解けるようになるから。良い参考書貸してあげるから、大丈夫
よ?」

 昼飯を買いに行く道中もずっと嘆きっぱなしの田中を、武内さんは優しく慰めた。けれど俺もそうだからよくわかるけれど、頭の良い武内さんの「大丈夫よ」は、そうじゃない人間の心にはあまり響かないのだ。

「とりあえず、ご飯食べちゃおう。そしたら今日の授業内容の復習も兼ねて解説できるところはするから」
「……よろしくお願いします。ああ、武内ちゃんは女神だ」

 いつものように軽口を叩くけれど、野球を奪われた田中に覇気はない。
 これは友達として何とかしてやらないとなぁと思いながら、俺はおにぎりを頬張った。

「それにしても、安達はようやく進路が定まってきてよかったな。建築関係なら俺と一緒の工学部じゃん」
「じゃあ俺、田中と同じ大学に行こう」
「やめろよ、キモい。そんな台詞は美少女以外許さない」
「何だと田中」

 俺と田中の慣れた掛け合いに、武内さんはクスクスと笑っていた。夏休みはずっと田中が部活で忙しかったから、こうしてふざけながら一緒に昼食をとるのは久しぶりだ。

「武内さんなら大歓迎」

 楽しそうに俺たちを見る武内さんに、田中がウインクしながらそんなことを言う。

「よし、じゃあみんな同じ大学目指そう。その代わり、あたしの偏差値に合わせてね」

 こういうことをさらりと返せるところが、武内さんの賢いところだなぁと思う。


「ちょっと国語と仲良くなれそうな気がする」
「それはよかった」
「……でも俺、体動かさないと死んじゃうから、ランニングだけでもさせてもらえないか頼んでくる」

 食後二時間ほど、みっちり武内さんから国語の指導を受けて、田中はヘロヘロになっていた。
 俺もそばでノートを見返しながら聞いていて、かなり理解度が上がった気がする。国語なんて解き慣れてなんぼと思っていたけれど、解き方を知っているかいないかが大きいことがわかった。
 不得意な田中に理解させるほど噛み砕いて説明することができる武内さんは、頭が良いだけではなくかなりの努力を積んでいるのだということを感じた。

「これからもこうして教えてもらえると助かる」
「お安い御用だよ」

 ペコっと頭を下げて、田中は教室を出て行った。去り際に俺にだけ聞こえるように「お前、めちゃくちゃ勉強するんだぞ」と言ってきて、すべて見抜かれていることがわかった。さすが田中である。

「じゃあ、あたしたちも行こうか」
「そうだな」

 どこに行くか言わなくてもわかるのが、何だか嬉しい。
 でも、これに甘えつづけてちゃダメだなと、ニヤけそうになる口をグッと引き結んだ。


「あれって……」
「吉川先輩だ」

 下駄箱で靴を履きかえていると、図書館のほうへ向かう渡り廊下を歩く吉川先輩の姿が目に入った。何となく生気が感じられず、前回会ったときのような溌剌とした印象はない。
 スラリとした体躯なだけに、頼りない足取りなのが余計に目立った。何かから逃げるような仕草も気になる。

「どうしたんだろうな。声かける?」

 心配そうに背中を見つめる武内さんにそう尋ねたけれど、しばらく考えて首を横に振られた。

「やめとく。ただの受験勉強疲れかもしれないし、もしそうじゃなかったらなおさら後輩に声かけられたくないだろうから」

 そうは言いつつも、武内さんの顔には濃くはっきりと心配の二文字が貼り付いているようだ。
 だからといって何かアクションを起こすよう促すのも違うと思い、何も考えていないふりをして先に歩き出した。


 ここに来ればさっきの少し暗くなった気分が癒されると思っていたのに、今日の「たまや」はまるでお通夜のようだった。

「はぁ……なんてこったい」

 ちょっとおかしなことを言ってさめざめと泣いているのはハッちゃん。その横で今日はなぜかハッちゃんとお揃いの制服姿になっているエミリーも、悲しそうな顔をしていた。

「二人とも、どうしたの?」

 素早く駆けよると、武内さんは二人の隣に腰かけた。そしてエミリーの肩を抱くかたちで手をのばし、ベンチの端に座るハッちゃんの頭を撫でた。

「あのね、ハッちゃんは失恋しちゃったの」
「失恋って、告白したの?」
「ううん。ハッちゃんの好きな人が彼女と歩いてるところを見ちゃったの」

 泣きつづけるハッちゃんに代わって、エミリーが事情を説明しはじめた。
 ハッちゃんの好きな人というのは中学生で、初美さんに拾われる前にハッちゃんを助けてくれたのだという。寒い冬の日、子猫だったハッちゃんが道端で震えていると、その男の子は自分のマフラーをくれたらしい。「おうちに連れて帰ってあげられなくてごめん」と言って。
 それからずっとその子のことを思いつづけたハッちゃんは、最近ついに居場所を特定し、猫ネットワークによる綿密な調査の結果、夏休みの部活や帰宅時間などのスケジュールを把握したということだった。

「それなのに、彼女と仲良く歩いてるのを見ちゃって、ハッちゃん、ショックだったみたい」

 そうしめくくって、エミリーは再び肩を落とした。
 こうやって友達の不幸事に共鳴するのは猫も人間の女の子も一緒なのかも、妙なことに感心してしまいそうになる。

「でもさ、好きでいるぶんにはいいんじゃない?」

 二人の肩をポンポンとしてやりながら、武内さんが言う。その言葉に、ハッちゃんは顔をあげた。

「……好きでいて、いいの? 彼女、いるのに?」

 涙で濡れた目をパチパチさせて、ハッちゃんは不思議そうに武内さんを見つめた。それに対して武内さんは、力強く頷いた。

「好きって気持ちは自由だと思う。気持ちを伝えてそれより先を望むのは、よくないって考え方もあるけど、想うくらいは許されるんじゃないかな」
「よかった。じゃあハッちゃん、ずっと好きでいる。……いつか、ありがとうも言う」

 安心したのか、ハッちゃんはまたポロポロと涙をこぼしはじめた。
 それを見て、エミリーはハッちゃんを抱きしめ、武内さんはその頬をハンカチで拭ってやった。



「あたし、キレイごと言ったかも……」

 泣きやんだハッちゃんたちを見送り、ラムネを飲んでいると、ポツリと武内さんが言った。

「本当は横恋慕も略奪愛も大嫌いなの。ドラマとかで見るのも嫌。……身近な人なんてもっと嫌」
「ああ……」

 何のことを言っているのかわかるだけに、返事がしにくかった。
「でも、ハッちゃんの話を聞いたら、ダメだなんて言えなくて……好きでいるのくらいいいよねって思っちゃって。何か、ブレてるし、こういうのってズルいよね」
「仕方ないよ。人は好きな相手には甘いんだ。悪事をそそのかすのでなければ、身内に甘いのは悪いことじゃない」
「……安達くんも、甘い人だね」

 こういう問題は、良いか悪いかではないのだと思う。許せるか許せないか、ただそれだけ。しかも、その基準も人によって違う。

「吉川先輩は、二人の関係に気づいたのかな。それとも、もう別れたのかな」
「さぁ……でも、まともな状態には見えなかったな」

 渡り廊下で見かけた吉川先輩の姿を思い出すと、よく知らない俺でも心配になった。よく知っている武内さんなら、一層気がかりだろう。
 誰かを好きでいるのは自由だ。でも、もしその想いを貫くことで自分の身近な人が苦しむことになっても、俺は笑えるのだろうか。笑っている人がいるとしたら、そういった人を俺は受け入れることができるだろうか。
 そんなことを考えていたら、口の中に間違って入った砂を噛んでしまったときのような、気持ち悪さが全身に広がった。
 大人のタマさんの意見を聞いてみたい気がしたけれど、こういう日に限って外出している。用がある人しか来られないし、辿り着けるような人は泥棒なんかしない――そんな前提があるから、タマさんは自由な店主でいられるのだ。

「安達くん、アイス食べよ」
「え? ああ、いいよ」
「何で笑うの!」

 拗ねたような物言いとその唐突さに、思わず笑ってしまった。そんな俺を見て、武内さんはさらに口を尖らせる。
 こうやって、明るい気持ちで誰かを思える俺は幸せだ。
 無理なことであったとしても、恋する誰もがそうであるようにと、願わずにはいられない。