「お前、こんなところでうずくまってちゃダメだろ」
 白と黒が入りまじる模様のその猫は、ぐったりと項垂れて肩で息をしていた。
 もしかしたらパトロールか何かの途中に、この暑さでへばってしまったのかもしれない。
 この町は、猫町と呼ばれている。かつては実際にこの一帯は猫町という名前だったらしいけれど、俺が生まれるうんと前に町名変更が行われ、そのとき別の名前になった。それでも相変わらず地域の人たちには愛着を持って猫町と呼ばれつづけているのは、こんな感じで道を歩いていると猫と出会うことが多いからかもしれない。

「とりあえず、陰に行こうな。俺も今から涼みに行くんだ」

 脇からそっと手を入れて抱きあげても、猫は抵抗しなかった。
 俺が小学生の頃に老衰で死んでしまった飼い猫が、死の数日前から俺に抱かれることを拒絶しなくなったときのことが思い出されて、自然と早足になる。

「ここなら涼しいだろ」

 建物の陰になっている地面へ猫を降ろしたが、くったりとして動く気配がない。

「どうしたもんかな……」

 何か与えたほうがいいんだろうが、カバンの中のペットボトルは空だし、猫にやれそうな食べ物も持っていない。
 立ち寄った建物――用途不明の雑貨から、昭和を感じさせる懐かしのオモチャ、手作り感たっぷりの季節ごとのお菓子など様々のものを扱う不思議な店「たまや」――の中を覗いたが、さすがに猫缶は置いていないようだった。
「猫にラムネって……んー、害はないのかな」
 猫に人間が口にするものを与えるのがよくないことだというのはわかっている。
 だが与えられそうなものがそれしか見当たらなかったから、冷蔵ケースからラムネを取り出して、空になったペットボトルの蓋に注いでみた。

「飲めそうなら飲んでみな。喉が潤えばだいぶ楽になるから」

 猫の前に蓋を置いてやると、おそるおそる顔を近づけて、ぺろりとひと舐めした。そしてピクッと体を震わせ、ゆっくりと目を開くと、ものすごい勢いで残りもぴちゃぴちゃと舐めはじめた。
 どうやら美味かったらしい。

「もう少しいるか?」

 俺の問いには答えず、猫はゆるりと立ち上がると、俺の足にすり寄ってコロコロとしはじめた。

「じゃあ残りは飲んじゃうからなー」

 黙って飲んでしまったって猫が怒らないことはわかっていたが、何となく声をかけてしまう。
 猫は聞こえていないのか、俺の足下に座り込み、ゆったりと毛繕いをはじめた。
 ひと口含むとラムネはシュワシュワと弾けながら、喉を滑っていった。
 熱くなった体に、冷たさと適度な甘さが心地良い。
 ペットボトルで売られているような炭酸飲料とは、どこか違う。
 ラムネは夏の味がする。

「ここ、良いところだろ」

 すっかり打ち解けた気がして、足下の猫に話しかけてしまう。
 猫は聞いているのかいないのか、どこか一点を見つめたまま、尻尾をゆらりと左右に振った。
 寄り道したいけれど眩しい連中を見たくないときは、そういう奴らがわんさかいる学校近くのコンビニは避けて、この坂道を登る。
 坂を登りきったところにあるのが、この「たまや」だ。
 長くて急な坂の上にあるせいか、穴場らしく学生に出会ったことはない。学生どころか、他の客すら見たことがない。
 それでも、たまに来れば品揃えが若干変わっているし、季節ごとのお菓子も並んでいるから、客がいないわけじゃないらしい。
 今日は本当は、夏限定のアイスバーを食べるつもりでいた。
 あずき味、いちご味、抹茶味、ミルク味の四種類で、味の主役になるものと練乳を混ぜてただ固めただけのシンプルなものだ。故に固い。だが固いアイスをガリガリ齧っているうちに体が冷えて、暑さで疲れた体を癒してくれる。

「さてと。ラムネ飲んで元気になったし、帰るとするか。……あれ」

 足下の猫に声をかけながら、代金を払おうとズボンのポケットに手を入れると、そこにあるはずのものがなかった。

「えーと……今日はカバンにいれたんだっけ」

 自分の癖や習慣から考えてそうじゃないことはわかっていたが、念のためカバンも漁ってみる。案の定、そこには課外のテキストとペンケースしか入っていなかった。

「……財布がない」

 改めて声に出して言ってみると、陰で一休みしたことでひいたはずの汗が、再びじわっと溢れてくる。
 やばい。これは非常にやばい。
 財布がないと、このラムネの代金を払うことができない。
 代金を払えないということは、つまり、無銭飲食だ。

「おぉう……」

 灰色で無気力なだけで俺は、不真面目なわけではない。ましてや不良でもない。無銭飲食なんかしでかして、平気なわけがない。
 コンビニに寄っていたのなら、レジに並んだ時点で財布がないことに気づけたのに――そう思うと、俺の大して強くないメンタルはもうダメだ。

「胃が……胃がぁ……」

 鳩尾のあたりがキリキリと、無数の針で刺されるかのように痛む。
 今にもしゃがみ込みそうになる俺を不審がったのか心配したのか、猫が困ったように「ニャー」とひと鳴きした。

「あらあら、お客さん来てたんだ」

 猫の鳴き声に引き寄せられたように、店の奥から人が出てきた。
 この店の店主のタマさんだ。いつもいるのかいないのかわからない、あまり気配がない人で、最初の頃は突然現れるタマさんによく驚かされていた。

「ああ、坊やか。いらっしゃい。今日はお連れさんがいるんだね。珍しいこともあるもんだ」

 タマさんは猫が好きなのか、俺の足下のそいつに気づくと、ひょいと抱きあげた。「よく来たよく来た」なんて言いながら、上機嫌な様子であごの下を撫でてやっている。
 こうしてタマさんが店の奥から出てきたということは、あとはお決まりの流れだ。
 最初こそ来店時に出迎えてくれていたが、慣れてからは俺がそろそろ帰ろうかと思うときにタイミングよく店の奥から現れるようになった。
 そうして現れたタマさんとひと言ふた言会話して、お代を払って帰るのだ。
 そう、お代を払って……。

「はい。ラムネ一本百五十円ね」
「 ……」

 何も言わない俺を、不思議そうにタマさんが見ている。キラリと光る目が「どうしたの?」と尋ねているようだ。

「……すみません。今日、財布を忘れてしまって」

 黙っていたって事態はよくならないと腹を括り、思い切って白状してみる。
 俺の言葉を聞くと、タマさんは一瞬大きく目を見開いて、そして声を出して笑った。

「なんだ、なぁんだ。そんなこと……あたしはてっきり愛の告白でもされるんじゃないかと……」

 可笑しくてたまらないといった様子で、体をくの字によじってタマさんは笑っている。腕に抱かれた猫は、慌てたように前足をばたつかせた。

「いいよいいよ。ツケとくから次に来たとき払ってちょうだい」
「すみません。ありがとうございます!」

 目尻に涙まで滲ませて、ようやくタマさんの笑いは止った。それでもまだ、ふだん見慣れない笑顔を浮かべている。
 俺も無銭飲食と思われるんじゃないかという恐怖から解放されて、ようやく笑えるようになった。

「あの、俺、安達司っていいます」
「司くんね……じゃあツケとくよ。そういえばお名前まだ聞いてなかったんだねぇ」

 帳面に筆ペンでサラサラと文字を綴りながら、タマさんはゆったりとした口調で言う。
 黒髪ボブで、一年中着物をさらりと着こなすタマさんのことを、今まで少し取っ付きにくいと思っていた。
 ミステリアスな空気漂う妙齢の女性と接する機会なんてそうないから、何を話せばいいのかわからなかったからだ。
 でもさっきの大笑いする姿を見て、ちょっとだけタマさんへの苦手意識が薄らいだ気がする。だから、薄暗い店の奥からこちらを見るキラリと光る目が何だか化け猫じみているなんて思っていてごめんなさい、と心の中でこっそり謝った。

「じゃあ、明日必ずお金持ってきます」
「いいよいいよ。今度来たときで」
「それなら……」

 お言葉に甘えて――そう続けようとした俺の言葉に被せるように、タマさんが言葉を発した。

「でもその代わり、お願いしたいことがあるの」

 顔にはまだ笑みを浮かべているが、その声はきっぱりとしていて迫力があった。

「お願いって、なんでしょうか?」

 ツケてもらった手前、断る余地なんて感じられなくて、おそるおそる俺は尋ねる。
 でも、こういった場合に相手からされる「お願い」なんて、軽いものや簡単なものであるはずがないことは、これまで生きてきた経験の中で知っている。
 一体どんな面倒なことを「お願い」されるのかと冷や冷やする俺の心の内などお構いなく、タマさんは一層笑った。にっこりと、とても感じの良い顔で。でも普段うっすらとしか笑わない人間の満面の笑みなんて、こういう場面では不気味でしかない。

「簡単なことよ。これから夏休みの間だけでいいわ。お店をたまに手伝ってほしいのよ」

 タマさんの目が、キラリと光る。
 これは絶対ただ事ではないと第六感が囁くから、俺は続きの言葉を待った。