ある日、気がついたら、俺は電車に乗っていたんだ。

困ったことに、どうしてその電車に乗っているのかわからない。
その電車が、どこへ行くのかもわからない。

何人か同じ電車に乗っている人もいるんだが、大体がじいちゃんかばあちゃんだ。
小学生だった俺は、恥ずかしがりやで、なかなか人に尋ねものをできなくてな…

何となく見たことのある風景を見ながら、どうしたもんだろうと考えて、電車に揺られていったんだ。

不思議と怖さはない。
妙な安心感すらあったよ。


どうしようかと思っているうちに、アナウンスが入った。
「次は○○駅」
って、普段乗ってる電車のアナウンスだな。
だけども、○○駅の部分がよく聞こえない。
耳をすませてみるが、どうしてもわからない。
そうこうしているうちに、電車は駅に止まった。

見覚えのある駅だ。
そう、ユウもよく知ってる、静前駅だ。
旅行に行くとき、帰るとき、俺たちが利用する、一番見知った駅だよ。
俺はキョロキョロあたりを見渡した。
見れば見るほど静前駅だ。
キオスクの新聞売り場も、立ち食いそばの店も、公衆電話の位置も、全部間違いない。
俺はゆっくりホームに降りた。

そのとたん、電車の発車ベルが、けたたましい音をたてて鳴り響いた。
とっさに、俺は車内に戻ろうとしたよ。

その時だ

「ジロ‼」

ホームの方から、俺を呼ぶ声が聞こえた。
よく知ってる声だ。

慌てて振り返ると、キオスクの向こうから、母ちゃんが走ってくる。
母ちゃんてのは、俺の母ちゃんで、お前の大ばあちゃんのことだ。

「ジロ‼こっち‼」

俺は、戻りかけた電車から離れて母ちゃんに手を振った。

「おーい。母ちゃん」

背中でドアが閉まり、電車はゆっくりホームを離れていった。
だけど、母ちゃんがここにいるんだから、電車に戻る必要はない。俺は電車に乗ってきたことなんか、もうどうでもよくなってた。

母ちゃんは俺のそばまで来ると、そっと俺の手をとった。
あったかくて、少しひび割れてざらざらの、母ちゃんの手が気持ちよくて、俺はなんだかほっとした。

だけど母ちゃんは、困ってるような、複雑な顔をして、しばらく俺の顔を見つめてからそっと口を開いた。

「ジロ、うちに、行こう」

そうして、母ちゃんは俺の手を引いて、ゆっくり歩き始めた。

ホームから続く階段を降りて、駅の改札に出る。
駅ビルの中にあるデパートには、本屋があったり、レストランや食品街があって、俺はそこのオムライスの店が好きでなあ。遊びにいくとよく連れていってもらったよ。

改札を通って、駅の北口まで歩いた。
ざわざわした駅の構内を抜けると、バスターミナルがあって、俺たちがいつも乗ってる静前バスが、いつものように目まぐるしくロータリーを出入りしてた。

母ちゃんも俺も、迷うことなく八番乗り場に向かった。
わかるだろ?
家に帰るバスは「大山線」。北口を出てすぐの八番乗り場だ。

母ちゃんに手を引かれたまま、到着したバスに乗り込んだ。
俺たちが座るのは、いつも一番後ろの席。

駅の近くの科学館くるるんに遊びに来たときや、オムライス食べたとき、ドーナツ買って帰るときと同じように、俺たちは座席に座った。

バスが通る道も、いつもの道だ。
商店街を抜け、浅羽神社の横を通って、誕生日に食事に行ったハンバーグレストランの横を通る。

「母ちゃん、ずいずいずっころばしやろうよ」

バスの中で暇をもて余すと、俺はいつも手遊びをしてた。ずいずいずっころばしや、アルプス一万尺。他にも、友達同士で考えたじゃんけん遊びなんかを、母ちゃんと一緒にやりながら、目的地まで過ごしてたんだ。

レンタルビデオ屋の角を曲がって、橋を渡り、コンビニを過ぎた辺りで、母ちゃんはいつものように小銭を用意する。
「次は川野辺新田」
そうアナウンスがあったら、俺たちの降りるバス停だ。
知ってるよな?
じいちゃんちの、一番近くのバス停だ。
じいちゃんちは建て替えしてるけど、じいちゃんのひいじいさんの頃からここに住んでるんだぞ。
長いよなあ…。


話が逸れたな。


バスを降りると、すぐに銀行がある。
俺が小さかった頃、母ちゃんに連れられて行くと、よく銀行のお姉さんが風船をくれてなあ。
それが楽しみで、母ちゃんに「銀行行こう」って言って、「なんで銀行に行きたいの」って、首をかしげられたっけ。


母ちゃんは、俺と手をつなぐと、ゆっくり家に向かって歩いた。

銀行の反対側に歩くと、すぐに耳鼻科がある。鼻炎やら中耳炎やらで世話になった病院だ。

その先はずっと田んぼと民家が続いて、農家が多かったから、野菜の無人販売の小屋がたくさんあった。
田んぼの道は、でっかいタニシがピンクの卵を産んでたり、蛙が草むらから跳ね上がったり、トンボを蜂と見間違えたりしてなあ…台風のあとには、トンボがたくさん飛んでくるんだ。

角を曲がって畑の道に入ると、駄菓子屋が見えてくる。
南田商店だ。
近所の子供らは、学校が終わると、みんなお菓子を買いに南田商店に集まった。
くじ引きで当たったクラッカーを、仕事から帰ってきた母ちゃんに向けて鳴らして、怒られたこともあったっけ。
そんな話をしたら、母ちゃんは笑って、
「そうだったね。あの時は驚いたよ」
って、俺の頭を軽く小突いた。
なんだかわからないけど、それがすごく嬉しくて、俺ははしゃいで、繋いだ母ちゃんの手を、ぶんぶん振ってスキップしながら歩いた。
母ちゃんは、やっぱり笑ってそれを見ていたよ。

南田商店を過ぎたら、もう家はすぐそこだ。

手先が器用で、自転車が壊れると修理してくれる、山田のおじさんちの角を曲がると、その先に家が見える。

ブロック塀と、中庭の青い門。小さな畑とブドウの木に、父ちゃんが作ってくれたハンモック。

見慣れた古い木のドアを母ちゃんが開けると、いつもの玄関に靴を脱ぎ、居間のドアを開ける。

「手を洗ってきなさいよ」

母ちゃんが、入り口のベンチにバッグを置いて、台所に入っていった。

俺は洗面所で手を洗うと、いつものようにそのままテレビの前に座ってスイッチを入れた。

俺の好きな、衛星放送のアニメがやってる。
子供の頃、俺は楽しみな番組は間近で見たくてな。
座った位置からどんどんテレビに近づいていった。

「ジロ、近いよ。もっと離れなさい」

台所から顔を出した母ちゃんに言われて、俺はしぶしぶはじめの位置に戻った。

当たり前のことなのに、変に懐かしい気持ちになって母ちゃんの顔を見ると、母ちゃんはにんまりわらって、俺のほっぺたを両手で挟んでぐりぐりこねくりまわした。

「やめろよー」

って、いやがるそぶりをしたけど、全くそんなことはなくて。
しばらく母ちゃんと二人で笑いあってた。

外ではセミがうるさくないてて、ああ、夏なんだなあって、妙にしみじみ思ったんだ。