不思議カレーを作ってから何年かが過ぎて、ぼくはあまりじいちゃんちに行かなくなった。
地区のバレーボールクラブに入って、練習が忙しかったり、友達と遊ぶことが多くなり、一人の留守番も苦ではなくなったからだ。
時たま会うじいちゃんは、相変わらず庭や畑の世話をのんびりやっていて、「おう。元気か?」なんて言いながらお茶を入れてくれたけど、あの時みたいに不思議カレーを作ることはなかった。


そうして、ぼくが中学生になった頃、じいちゃんが病気になった。

元気そうにはしてるけど、正直あまりよい状態ではないみたいだ。


「おじいちゃんも長生きしてるから、仕方ないんだよ」

って、ばあちゃんも母さんもいっているけど、ほんとは寂しそうに見える。
ばあちゃんや母さん、おばさんたちは、交代で毎日病院に行っていたけど、ぼくは学校の用事や部活の行事なんかが重なって、やっと満足に見舞いに行けたのは、もう夏休みになってからだった。


三階の相部屋の奥、窓際のベッドがじいちゃんの病室で、相部屋だけど患者はじいちゃんのほかに一人いるだけで、とても静かだった。

「ユウ、元気か?」

じいちゃんは、少し顔色が悪かったけど、いつもと変わらず、老眼鏡をかけて新聞を読んでいた。

「部活、頑張ってるんだってな…バレー部に入ったって、お母さんから聞いたぞ」

勧められてパイプ椅子に座ると、じいちゃんは読んでいた新聞を畳んで、テーブルに乗せた。

「頑張ってるけど、この前、予選で負けちゃったよ」

「まあ、まだ来年がある…焦らず、全力でやったらいい」

老眼鏡を外したじいちゃんの目は、回りがシワだらけで、笑うと余計にシワがくしゃっとなる。
家にいた時は、もっと背筋が伸びていたように思ったけど、なんだか今のじいちゃんは、以前より一回り小さく見えた。

「体、大丈夫なの?」

弱くなったじいちゃんの姿に、ぼくはかける言葉を探した。
やっと思い付いた、ひねりも何もない問いかけに、じいちゃんは小さく腕を回して笑う。

「大丈夫だ、心配するな…と言いたいとこだがな」

点滴のうす黄色い液体が、ポタポタと規則正しく落ちていく。
続く言葉がなくたって、大丈夫でないことはぼくにでもわかった。

「寂しいこというなよ。…元気になってさ、また、カレー…不思議カレー、作ろうよ」

あの時のカレー、本当に美味しかったんだよ。じいちゃんと料理するの、すごく楽しかった。
いい香りの、とろけるようなあのカレーを食べたら、きっと病気なんかすぐに治る。すぐに元気になる。

思わず身を乗り出したことに気づいて、ばつが悪くなったぼくは、じいちゃんから目を逸らしながら椅子にゆっくりと腰を下ろした。

今まで一度だって、弱音を吐いたり諦めたようなことを言わないじいちゃんだったのに…悲しいのか悔しいのかわからないけど、涙が出そうになって、あわてて唇をかむと、目の奥がじんじんして、余計涙が瞳に浮かびあがってくる。

じいちゃんは、小さく笑ってぼくにティッシュの箱を差し出すと、「鼻水をふけ」と、頭をくしゃりと撫でてくれた。
じいちゃんが鼻水にしてくれた涙をごしごしこすると、じいちゃんはティッシュの箱を受け取り、ゆっくり窓の方を向いた。

真夏の昼下がり、窓の外には蝉がうるさく合唱している。家の間からもくもくと盛り上がった入道雲に、ギラギラ輝く太陽が照りつける。
毎年変わらない夏の窓を眺めたじいちゃんは、そっと呟いた。

「あの日も、こんな暑い夏の日だったなあ」

じいちゃんは、窓の外を眺めたまま、大きく息を吐いた。
それからぼくのほうを向いて、まるで秘密の話を打ち明けるみたいにいたずらっぽい顔で、じいちゃんは言った。

「じいちゃんが不思議カレーをはじめて作ったのは、もう、何十年も前…小学校の三年生の夏だった」