俺は、あくびをしながら目を覚ました。
何だか体が軽い。
具合がいいぞ。

体が揺られる感じは、どうやら電車に乗っているかららしい。

俺は病院にいたはずだが…

『次は、静前、静前です。お降りのお客様はお忘れものなさいませんよう…』

アナウンスが、流れる。

待てよ。
この電車、東南海線じゃないか。
この路線は、俺が高校の時に廃線になったはずなのに…


「おお…そうかあ…」

俺は思わず呟いた。

見覚えのあるホームに降り立つと、辺りをぐるりと見渡した。

懐かしい静前駅のホームには、キオスクと、立ち食いそばの店がある。自販機も、昔のままだ。

ホームを出て改札をくぐると、そこは懐かしい駅ビルの前。
孫を連れて食事に来たレストランはまだないけれど、子供たちと買い物に来たショッピングセンターが向こうに見える。
姉ちゃん達と遊んだくるるんも、ちゃんとそこにある。

八番乗り場の大山線。
ちょうど来ていたバスに乗り込む。

浅羽神社の前を通って、ハンバーグ屋の前を過ぎる。
レンタルビデオ屋の前を過ぎて、角を曲がる。

橋を渡って、コンビニを過ぎて、川野辺新田のバス停でバスを降りる。

田んぼの畦道、足取りも軽く、もう、杖も必要ない。
目線はどんどん低くなり、いつの間にか駆け出している。

「あっ!ジロ‼」

友達の秋人が、俺を見つけて手をふった。

「久しぶりじゃん!今、帰り?」

「おう。今、来たとこ」

「そっか。じゃ、今日はまっすぐ帰った方がいいよな」

秋人は、自転車のペダルに足をかけると、もう一度小さく手をあげた。

「じゃ、また遊ぼうな!」

「おう!またな!」

かかとをふんずけて履いている運動靴を履き直し、ドラゴンヒーローのイラストがプリントされたお気に入りのTシャツの裾を直して、俺は思いきり走った。風を切って、ひゅんひゅん走った。鬼ごっこでどんなに逃げ回っても、いくらでも走れたあの頃に戻って。

南田商店の前で、良太と冬馬がお菓子を買ってる。

「ジロ‼」

「ジロ!やっと来たか‼」

「おう!お待たせ!」

三人で肩を組むと、黒いランドセルを背負って学校に行っていたあの頃に、いつでも戻ることができる。

「なぁ、今日俺っちでサッカーしようぜ」

良太が俺の顔を覗きこむ。俺が返事をする前に、冬馬が良太の肩を叩いた。

「今日は、ちゃんと帰んないと、な、ジロ」

「…そっか。そうだよな。みんな、待ってるもんな」

二人は手を放して、自分たちの自転車に跨がった。

「じゃーな!ジロ!今度は遊ぼうな!」

「また電話するからな!」

友達と別れて、南田商店の横を通りすぎ、通りを抜ければ、懐かしい赤い屋根が見える。

車庫には、父ちゃんのワゴンが止まってる。
中庭では、ユキちゃんが、相変わらず竹刀で素振りをしてる。

「あっ!ジロちゃん!」

声につられるように、中庭の奥、父ちゃんが吊るしたハンモックの方から、バタバタ足音がして、姉ちゃん達が走り出てくる。

「ジロだ!」

「ジロちゃんだ!」

「わははは‼ドラゴンヒーロー、参上!」

ふざけてポーズをつけると、姉ちゃん達がドッと笑う。

懐かしいブロック塀、石の橋。開け放した玄関ドア。
上の段の靴を取るのが難しい、背の高い下駄箱。

靴を脱ぐのもそこそこに、居間に続く扉を開けた。

「おっ!ジロ‼」

テレビを見ていた父ちゃんが、顔をくしゃくしゃにして笑う。
厳しかったけど、俺を心から愛してくれた、優しい父ちゃん。

俺は父ちゃんに抱きつき、ハイタッチした。
父ちゃんは、笑いながら俺をもみくちゃにすると、ゆっくり俺を放して、そっと台所を指差した。

俺は頷いた。

音をたてないように、そっと歩いて、台所の扉に手をかけると、向こう側から油の跳ねる音がする。
ドアノブをゆっくり回すと、甘いにおいが鼻をくすぐる。

しゃーっと、揚げ油の音がする。
台の上に、ボールが乗ってる。
古い流し台。
家族の胃袋を満たす、大きな冷蔵庫。
使い込んだ炊飯器。
あの夏のままの、俺の育った台所。

俺は扉の影から飛び出して、ばっと指を指す。


「母ちゃん!みーつけた!」


コンロの前で、菜箸を持ったまま、母ちゃんが振り向いた。
びっくりしたような顔は、すぐに満面の笑顔に変わる。
俺は、迷わず、母ちゃんの胸に飛び込んだ。


暑い夏の日だった。
うるさいくらいのセミの声
小さな風鈴の音
扇風機の生ぬるい風
虫かごと昆虫ゼリー
やりかけの花火
シャボン玉

やっと戻れた、あの夏の日




「ただいま!母ちゃん」

母ちゃんは今度こそ、心からの笑顔で、俺の頬を包み込んだ。

「お帰り。ジロ」