それからしばらく、止まらない涙を拭きながら電車に乗った俺は、いくつかの駅を通りすぎ、見覚えのある、静前駅そっくりの駅にたどり着いた。

俺は思わず母ちゃんを探した。でも、見つけることはできなかった。
がっかりして、もう一度電車に乗り込もうとしたとき、

「ジロ‼」

名前を呼ばれて、俺は振り返った。

「ジロ‼こっちだ!帰ってこい!」

父ちゃんが、俺を呼んでた。

「ジロちゃん!こっちだよ」

「ジロ!早く!」

「ジロちゃん!」

姉ちゃん達が、必死にこっちに走ってくる。

「父ちゃん…ユキちゃん、まみちゃん、なおちゃん!」

俺の背中で電車の扉が閉まった。

俺の手に、父ちゃんの手が触れた。





「ジロ!ジロ!」

誰かが俺を呼んでた。
俺はうっすら目を開けた。

知らない部屋の天井がぼんやり見えた。
脚が、腕が痛い。

「ジロ!わかるか?父ちゃん、わかるか?」

俺は小さく頷いた。

父ちゃんは、泣きそうな顔で、何かのボタンを押していた。

「先生!ジロが、ジロが目を覚ました‼」

バタバタ人が入ってきて、俺の回りで何かをし始めた。
嬉しそうに声をかける人、良かった良かったと涙を流す人。
俺はそれを、まるで他人事のようにぼんやり見ながら、
(ああ、夢だったんだ)
って、冷静にそう思った。
それから
(そうだ。俺、事故にあったんだ)
他人事のように思い出したんだ。



母ちゃんがいなくなって一年。
小学校三年になった俺は、夏休みのプールから帰る途中、友達とケンカした。
夏休み、お母さんとデパートにいっておもちゃを買ってもらうんだと、友達の一人が話したのがすごく気にさわって、一人で怒って道路に飛び出した。
そこにトラックが突っ込んで、そこから先は覚えてないが、一時は命も危ない状態だったらしい。


俺は1か月、リハビリしながら入院した。驚異的な回復力で、先生達もびっくりしてた。

退院する少し前、俺を診てくれた先生に、俺は何気なく母ちゃんの話をした。無愛想な、冷たい感じの先生だったけど、もうすぐ退院だから、なんとなく話をしてみたかった。
夢で母ちゃんに会ったこと、カレーを作って食べたこと、たくさん遊んだこと。そして、生きろと言われたこと。
先生は黙って話を聞いたあと、ちょっと考えるような素振りをした。

「僕は、幽霊とか、あんまり信じないんだけど」

そう前置きして、先生はメガネを指先で軽く持ち上げた。

「意識がなかった間、君は当然口から栄養が取れなかったよね。もちろん点滴はしていたけど、点滴から栄養をとるより、自分の口から摂れたほうが、はるかに体力は回復するんだ。…君の体力の回復は、点滴だけでは得られないくらいに早かった。筋力の回復もそうだ。寝たきりから、あんなに早く体が自由に動くようになったのは、まるで、寝ている君に、誰かが食事をさせて、運動をさせてたみたいだったよ」

先生は、俺の肩をぽんとたたくと、無愛想な顔に小さく笑顔を浮かべた。

「お母さんは、見えなくても、声が聞こえなくても、君のそばにいるんだろうな。これからもずっと」

俺が退院する日、先生は相変わらず無愛想だった。
でも、先生は俺のそばにくると、ぱちんとハイタッチして、小さく笑ってくれたんだ。



退院して、学校に復帰すると、先生がにこにこしながら出迎えてくれた。
先生は途中まで笑っていたくせに、そのうち「良かった良かった」といいながら目を真っ赤にしてしまった。
クラスに行くと、友達が「お帰り!」って迎えてくれた。
事故の時一緒だった三人は、泣きそうな顔をしながら、
「お前、黙っていなくなるなよな!」って、抱きついてきた。



しばらくたって、普段通りの生活が戻ってきた。


俺は学校から帰って、鍵で家をあけた。

誰もいない家に向かって「ただいま」っていいながら。
カバンを放り投げても、手を洗わなくても、誰もなにも言わない。
テレビをつけて、テレビに近寄っても、何も言われない。

その時、台所でガタンと音がしたんだ。
俺は恐る恐る、台所の扉をあけた。

コンロの上には、母ちゃんがカレーの時使ってた圧力鍋が乗ってて、昨日の晩ごはんのカレーの香りがした。
俺は、調理台の上に何かが乗ってるのに気付いて、指でそれを持ち上げた。

それは花だった。
あの夢の世界で、俺が母ちゃんにあげた黄色い花。

「母ちゃんゴメン」

俺はあわてて台所を飛び出した。
カバンを片付けて、手を洗い、テレビを消して宿題を用意する。

「すぐに終わるからね。俺、漢字得意になったんだよ」

返事はなかったけど、きっと聞いてくれていたんだと、俺はそう信じているよ。