序章



安房国ーー

今で言う、千葉県南部である。
房総半島の最南端に位置し、室町幕府設立から、300年近くに渡り佐野家が治めてきた。

元は村上源氏の一族である佐野家は、代々、左近衛少将(武士の役職の1つ)を勤めてきた。応仁の乱以降も守護大名として安房を治めていたが、まもなく北条氏の侵攻により、その軍門に降る(家来になる)こととなる。

さて、その佐野家であるが、1564年当時、初代から数えて7代目、頼成が当主を務めていた。その正室・栗山殿の腹の中には、新しい命が宿っており、今まさに、そこから外界へと生まれ出ようとしていた。

後の佐野義宗である。

この年、三河で一向一揆が起こるなど、各地で下克上の風潮が高まっていた。
が、子煩悩として名高い頼成のこと、おそらくはそのようなことよりも、腹の中の赤子のことの方が気になって仕方がなかっただろう。

「やや(赤ちゃん)の名前は何としよう」

などと、真剣に考えていたかもしれない。あるいは、

「いやいや、そもそもおなごなのか、おのこ
なのかも分からぬではないか」

と頭を抱えていたかもしれない。

「しかし、そうだなあ、おのこならば、勇ま
しい名にしてやろう。成の字は鷹成(義宗の
兄)にやってしもうたしのう…
せめて良き名を付けてやらねばな」

とか、

「おなごならば…美しい名が良いなあ。亜弥
の子じゃ、さぞ愛いであろうの」

という結論に落ち着き、家来の者に、

「御屋形様、気がはようございます」

などと呆れられていたかもしれない。
とまあ幾らでも想像は出来るのだが、それはそれとして。


時は経ち元亀九年、西暦1573年。
義宗、九つの年である。
この時はまだ、香(こう)という女名を名乗っていた。

舞台は安房国達海城、佐野頼成の居城。
主君北条氏政より、佐野家筆頭家老・桐谷宗次郎正嗣を通して、とある下知が飛んでくるところから、物語は始まる。

この一つの下知が、佐野家の行く末、ひいては、香の人生を大きく変えてしまうことになるとは、まだ誰も、知る由がないのである。