「…つまり父上は、佐野本家には望まれて生まれてきたけれど、桐谷からはじゃまだと思われていたということか」
そうなりますな。
「しかし…それはおかしくないか?
それでは、桐谷が佐野を憎く思う道理はあれど、佐野の者どもが桐谷を悪く言う道理はないと思うのだが」
そうなのです。
いちばんの問題は、そこからでして。
佐野にしてみれば、無事、若子が生まれたのはよいものの、桐谷をどうしようか、という新たな悩みの種が生まれてしまったわけです。
そこで先代様や家老衆は、こう決断しました。
桐谷など、所詮はちっぽけな遠戚に過ぎぬ。
適当に言いくるめて、元の土地に返してしまおう。
…と。
「所詮」は遠戚。
それが桐谷の逆鱗に触れたのでしょうな。
それまで大人しくしていた桐谷は、あっという間に周りの地侍たちを取り込んで、一大勢力と化したのです。
さらに佐野の家来衆のいくつかも味方につけ、佐野本家に匹敵するほどに成長してしまいました。
その勢いたるや、破竹の如しだったと。
桐谷殿が切れ者なのは、お父上譲りなのでしょうかね。
そして、某日。
ついに桐谷は、調略した者たちを連れ、たった一日で、この佐野館を取り囲んでしまったのだとか。
焦ったのは佐野の方々です。
まさか、ちっぽけな仔犬が、たったの数日で成犬になるとは思わぬでしょう?
しかしまあ、そこはやはり本家と言いますか。
だてに安房一国を治めているわけではない。
佐野本家と直属の家臣たちは、その桐谷勢を正面から迎撃し、わずか四刻(約8時間)のうちに返り討ちにしたのです。
その時、最も大きな武功を立てたのが、坂井様だとか。
「坂井…あ、順昭か。きりのお父上の…」
ええ、その坂井順昭様です。
当時坂井様は、まだ二十歳にも満たぬ若者だったようですが、それは立派に先陣を務め上げ、果敢に敵に挑んだそうですよ。
「へえーー…ぜんっぜん想像出来ぬ…」
ま、坂井様は普段は温厚な方ですからね。
想像出来ないのも、無理はありませぬ。
それで桐谷は、跡取りになるどころか、一族の汚点、裏切り者、という扱いになってしまったのです。
本来ならば、桐谷の一族はみな処刑、良くても国外追放となるところを、先代様のお情けで、佐野との一族の縁を切られるだけで済んだのです。
「……そんなことが……」
ええ。
しかし、これで終わりではないのですよ。
今、桐谷が付いているのは、家老職。
かつて謀反を起こした家の者にしては、厚遇過ぎるとは思いませぬか。
「あ、たしかに…
何も家老などにしなくとも、一介の家臣に留めておけばよいものを…なぜ?」
それは、桐谷親子の能力が、人並み外れておるからです。
ああ、親子というても、正嗣殿と来香丸殿のことではありませんよ。
佳正殿、正嗣殿のことです。
正嗣殿が優秀なのは、姫もご存じかと。
「うむ…なんというか、宗次郎は、まるで切れ味のよい刀のようでな……何を頼んでも完璧じゃと、父上がよう言うておる」
刀のようーー
いや、まさにその通りですな。
共に仕事をしていてもそう感じまする。
あ、いや、まあ、一緒に仕事をしたことなどないのですが。
正確には、命令を受ける時ーーですね。
「ん?そうなのか?」
そりゃあそうですよ。
小生のような忍び風情と、筆頭家老では、格も立場も、全く違いますから。
小生はただ、命令を受けるだけです。
「ふうーーん…そうなのか」
そうですよ。
佐野の皆さまが異例なだけです。
本来なら、草の者(忍者のこと)と、あなた様のような姫君が話をすることは許されないのですから。
…それはともかく。
桐谷の処遇が破格なのは、姫もよく知っているはず。
しかしそれは、常人ならばまず出世は望めぬ立場からの、異例な大出世なのです。
普段なら、「裏切り者の家の出が」と言わせぬ仕事っぷり。
これが、桐谷の最も恐ろしいところというわけです。

