さくら、舞う。ふわり


 少しばかりの時を要し、ゆっくりと綾人の思考がクリアとなる。

「うそ、だろ……おい」

「ん……どうしたのお?……綾くん、誰としゃべって……」

 綾人のつぶやきに、となりで寝ていた同衾(どうきん)相手が目を覚ます。鼻にかかるような、男に媚を売るような女の声が、由衣を現実へとひき戻した。

「最低……」

 そうひと言だけ吐き捨てると、踵を返して部屋をあとにしようとした。けれども一瞬はやく、綾人が由衣の腕を掴む。

「待ってくれ。ごめん、俺――」

「やだ、離してよ!」

 その声で女の名を呼び、その手をつかい自分以外の者を抱いたのだ。由衣の背筋をおぞましいほどの悪寒が走り、触れられた先から嫌悪の焔(ほむら)が四肢に駆けめぐる。

 腕をふり綾人の手を払うと、部屋を飛び出し玄関へ急ぐ。一秒たりと、彼の空間になどいたくない。同じ空気を吸うだけで、吐き気すら催しそうになる。

 靴を履くとドアをあけ放ち、家を後にしようとして気づく。三和土のかたわらに、見知らぬヒールがそろえられていることに。

 来た当初は緊張していて、しかも部屋は薄暗くて、その存在に気がつかなかったのだ。これに気づいてさえいれば、あんな光景見なくて済んだのにと、ここにきて初めて涙が溢れてきた。