「おーい!」
それから私は毎日彼に会いに山へ登った。
「今日も来たのか」
姿を見つけると笑って寄ってくる私を彼は不可解そうに見ていた。
でもどこか嬉しそうに見えたのは気のせいじゃないと思う。
彼はいつも、出会ったときと同じ岩に座っていた。
木が守っているのか彼の肌は白く、どんなに暑くても、寒くても、彼の服装は半袖のTシャツにジーパンのような長ズボンだった。
「あなた、名前は何て言うの?」
「え…なんで…?」
名を訊くと彼は心底驚いたようだった。
「だって、ねぇ、とかあなた、とか呼びづらいじゃない。熟年夫婦じゃあるまいし」
「そうか…僕は…シン、だ」
「シン、へぇ…」
漢字はどう書くのだろう。
少し気になったが、今は名前だけで良いと思った。
苗字すらいらない。たとえこれが偽名であったとしても私は驚かないと思う。きっと本当の名前も訊かないだろう。
彼が教えてくれた、彼のための言葉というだけで私にはそれが素晴らしいものに思えた。
「あんたの名前は?」
シンがだんだん私に興味を持っていくのは目に見えて分かった。私が自意識過剰なのではない。
彼が露骨に分かりやすいのだ。
小学生みたいに純粋なのに、見た目は高校生で、そのギャップに何度吹き出してしまったか分からない。
「わたし?」
「うん」
「なんで?」
「っ…もういい。」
それでも、彼の考えは理解出来なかった。
時々私は彼を拗ねさせてしまう。
彼はうるさく怒ることはなかったがその代わり一度不機嫌になると、とことん私を無視したり黙りこくってしまった。
この日もそんな感じで、もういい。のあとはずっと不機嫌顔で川を睨み付けていた。
悪い所があったなら指摘してほしい。そう思うのに、シンが指摘してくれることは滅多になかった。自分で考えろ、ということだろうか。
考えて考えて分かったのは、どうやら私はシンに嫌われることを極端に恐れているらしい、ということだけだった。
空がオレンジ色に変化しつつあるのに気づいて、私は立ち上がった。
帰らなければ。
それは義務だった。
やらなければ怒られる。
最悪、ご飯抜きもあるだろう。成長期の私にその仕打ちはキツい。だって、ここらのスーパーは午後6時には閉まってしまうし、一番近くのコンビニまでは自転車で20分以上かかる。
その状態でどうバレずに食事をとれるというのか。
じゃあまた明日、と言った。
彼はやっぱり不機嫌顔で川を睨み付けていた。
「わたし、」
そんなのは気にせず私は彼に向かって言った。
「私は井崎 とおる、って言うの」
バイバイ、再びまた明日の挨拶をすると同時に私は駆け出した。
はっとして、シンが私の方を向くのがわかった。
それから、シンの視線は見えなくなるまでずっと、私の背中を向いていた。

