【夏休み】

この言葉は私にとって特別だった。

だって、学校に行かなくたって怒られないから。

学校なんて、嫌なことばっかりだもん。


あの年、夏休みが来ると私は近くの山に一人で登っていった。
山といっても木々ばかりで、私は迷子にならないよう川沿いを歩いた。

川のピチャリという涼しげな音と虫の鳴き声がいっぺんに聴こえてきて、私は暑くて涼しいという妙な感覚に陥ったのだった。
それでも私は歩いた。

家には帰りたくなかった。家には見知ってから3日ほどの、母親が待っている。夜になれば父さんも帰ってくるのだろう。そして、ヤツは母親に言うのだ。
「お前以上の女はいない」、と。

全員他人だ。

父さんは血が繋がっている他人、それ以外は赤の他人。

あぁ、母さんが私を連れてってくれれば良かったのに。


嫌な気分になった。
気晴らしに来たのに余計憂鬱になってしまった。

ふと、自然に目を凝らすと木々の隙間から青空が見えた。時折、鳥が横切り青空を隠す。青空は私たちの景色なの、とらないで…なんて言っているのかもしれない。
なんだか、悪いことをしてるみたいだ。

存分に青空を目に焼き付けよう。

歩いて、どのくらい経ったのか。
川の音が激しくなってきた。川辺も大きな石が増えてきた。

「祇園精舎の鐘の声」

その頃、水音の隙間に声が聞こえた。

人の声だった。

「諸行無常の響きあり」

あれは、今から5、6年前ーつまりは小学校高学年のころであるーに暗記させられた『平家物語』だった気がする。

私は歩きづらいことも忘れ、声の主を探して小走りになった。

「沙羅双樹の花の色」

盛者、と続く前に私はその人に声をかけた。息は切れていたが、気にする気はなかった。

「ねぇ」

その人は不思議だった。
バカや可愛いが歩いているような人はそこそこいるけれど、その人は不思議が歩いているような人だった。私と同い年くらいの少年に見えた。彼は川の見える大きな岩に当然のように居座っていた。

「なに」

低くて、でも澄んだ声だった。

彼は一重まぶたの目をしていた。瞳にはなにも写っていなかった。木漏れ日を受けて川がきらきらと輝いているのに、それを見る彼の瞳は輝くための光さえ感じられなかった。でも、綺麗な藍色の目だった。

「なにしてるの?」

彼の髪は真っ黒で色素が薄い茶髪の私に喧嘩を売っているようだった。

「川を見てる」

「どうして?」

彼はとにかく不思議だった。
どうしてなのか、彼ほど川と森を背景にしてしっくり来る者はいないのだ。

「嫌いだから。川も、森も」

なのに彼はそれらを嫌いと言った。

「どうして?」

おかしな感じだった。
自然は彼を歓迎しているのに彼はそれを拒んでいた。

「呑気で、慈悲深いから」

生真面目な顔で彼はそう言った。
慈悲深いことの何がいけないのか。
私には彼の全てがよくわからなかった。

私は首を傾げて、それから彼の真似をして川を見た。
彼の考えを理解したくて、形から入ってみたのだ。

「変なの」

川を見たまま、私は呟いた。

「そう思えるヤツは幸せなんだ」

すると彼は自嘲するように目を細めた。
ばっちり見てしまったその横顔は私の脳裏に貼り付いて二度と離れなくなった。