好きな人が現れても……

「…それからこの部屋も引き払う」


その言葉を聞いて、えっ…と声が飛び出した。
課長は空になったビールの缶をテーブルの上に置き、自分の実家へ引っ越すと言い出した。


「だけど、ここには奥さんとの思い出が…」


あるのに…と言おうとする私の耳に、初めて聞く言葉が入ってきた。


「何もないよ。妻はこの部屋では暮らしたことが一日もない」


遠い眼差しをして振り返る過去は切なかった。
出産後の体調が回復せず、奥さんだけは入院生活を余儀なくされたのだ。


「たまに外出許可が下りても過ごしたのは彼女の実家でだ。何かが起こってもいつでも真央を預けられるように思って。

だから、この部屋で千恵は住んでない。この間君が立ったキッチンにも一度も立ったことがないんだよ」


あの時は少し複雑だったけど、女性がキッチンに立つのはいいものだな…と思ったそうだ。

その話を聞きながら、奥さんが本来立つべき場所に自分が立てたことを素直に喜ぶ気にはならなかった。



「……そうだったんですか」


俯いて少し反省をした。そんな場所に笑って立ってた自分は不謹慎だったかもしれない。