目を開けると、そこには白い天井と、心配そうにしている妹の顔があった。

まだ視界はぼんやりとしていて、霞むその顔はそれでもわかるほど涙に濡れていた。

「朝香…?」

「お姉ちゃん!?」

目を閉じて泣いていたのか、妹はぱっと大きな瞳を開けた。腫れた目元を歪め、嗚咽を堪えながら抱きついてくる。

戸惑いながらも受け止めると、妹は気がついたようにナースコールを押した。

「朝香…私、実家で倒れて、……どうしたんだっけ」

「覚えてないの?この病院にまた運ばれて、手術したんだよ」

「え…そうなの?」
目を見開いた未来留は、とりあえず生きていることにほっとしてしまった。

(あれ、そういえば今宮君と久しぶりだな…)

もしまた会ったら、1番に謝ろうと決めていた。

いつものように隣を見る。

「…………え………?」

掠れた声が喉から出た。

それが自分の声だということに、しばらく気づかなかった。

「今宮君…?退院、したのかな」

空っぽのベッドとその周りの空間がやけに空虚に見えて驚く。がっかりしたように俯いた未来留は、妹が強ばった顔をしているのに気づいた。

「朝香…?なにか、あったの?」

「…隣の人…今宮透さんって、言うんだよね」

「え?う、うん。あれ?なんで知ってるの?」

そう言うと、朝香は辛そうに呟いた。

「その人が、臓器を提供してくれたんだ」

「……えっ?」

吸い込んだ空気ごと凍ったように感じた。

冷たくて、痛い。なかなか喉まで落ちていかない。

氷の塊のようなその言霊の破片が、割れてこぼれて突き刺さる。

「臓器…今宮君が…私、に…なんで」

切れ切れにやっと言葉を発した私を、朝香は直視出来ずに後ろめたいという表情で、

「お姉ちゃん…そうしないと助からなくて…ドナーがなかなか出てこなくて…その、人が、病気で、っ……だから提供してくれて」

「え?提供って…生体移植?でもそれは肉親しか出来ないって説明」

「ごめん、これ以上…言わせないで」

痛ましいと形容するにふさわしい、伏せた瞳を穴が開くほど見つめ、未来留は小さく、
「…冗談でしょ」
と呟いた。

「今宮君…そんな、そんな病気だったの?だからってなんで、だってあたし、…あたし他人なのに!あの人の何でもなかったのに!なんで!?」

それこそ朝香にぶつけても仕方のない感情を吐き出すと、その直後看護師さんが慌てたように病室に入ってきた。

「目が覚めたの?!大変、今お医者さん呼んできますから」

「はい…」

答えたが、内心自分なんてどうでもよかった。

目を覚ますことができて、生きることができて嬉しいと、そう思っていたはずなのに。

今宮君がいなきゃ、意味なんてなかったんだ。

再び目を覚ますことが出来て嬉しいと泣く朝香には申し訳ないが、どうしても自分の回復を喜ぶことが出来なかった。

その夜、未来留は一人でベッドの中で佇んでいた。

隣のベッドをぼんやりと見つめていて、はっと気づく。

その枕の下に、見覚えのある黄色い表紙の小さめなノートが隠してあったのだ。

「これ…」

見てもいいのだろうか。だが、見たい。

そろそろと腕を伸ばしてノートを引っ張り出す。

はじめにめくったページには、9/2と書いてあった。

心臓が、どくんと跳ねた音がした。

(私の…倒れた日……)

心拍数がどんどん加速していくのが分かる。
怖い、でも。

(知りたいよ…)

あなたのこと。

だから聞かせて。聞けなかった、あなたの本音。




9/2
その日は、スーパームーンの日だった。
僕は、もうすぐ死ぬと言われていた。
ならと、自分の臓器を彼女に提供してくれと書き残し、薬を飲むのをやめた。
表向きには、薬の副作用を感じて苦しむより、安らかに逝きたいと告げた。
多分こんな馬鹿な思いつき、現実ではどんな映画監督でも映画にはしないだろう。
それでも構わなかったんだ。
馬鹿だな。
さよなら。

…ごめんな。




「………!」

私は思わず両手で口をおおった。

あとからあとから涙がこぼれて視界が滲んで、本当に邪魔だと思う。

ごめんなって、なんで、私が悪かっただけなのに。

前へとページをゆっくりめくるも、そこには私のことが沢山書いてあって。

「なんであたしのこと、ばっかりっ……」

嗚咽で声がつまる。喉の奥が痛くて、胸が痛くて、いっぱいいっぱいになったような心地がした。

どうしてそんなに、最期まで優しいの。

誰かのために、尽くせるの。

私となんて全然、違う。

ページをめくる手が不意に止まった。




すきだ。




何度も何度も書いて消したような跡、黒くなった紙。少しちぎれた紙の端は、消しすぎて破れたのか、苛立って破いたのか。

その濃い見慣れた筆跡は、その下のページにも、そのまた下のページにも写っていた。

「かくすの…下手だよ…」
病名を告げられた日のページも、残りの寿命を告げられた日のページも落ち着いた筆跡なのに、1番後ろのページには、書き殴られたように、
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

どうして。
どうして、なんで。
どうして俺だけ。
どうして。
どうして。

悪い奴らが死ねばいい、犯罪者が死ねばいい。俺は何もしていない、どうして死ななきゃいけない。

真っ黒くなったページに、ぽたぽたと水滴の落ちたような跡もあって。

その跡は。

「……っ!」

目の奥がどうしようもなく熱くなって、堪らずに未来留は目を閉じた。

すきだと、彼の声でその三文字が反響した。

言われたかった。

彼に、言われたかったんだ。

言いたかった。

誰より好きだって。離れたくないって。

だからあの日怒った。1番喧嘩したくなかった日に喧嘩した。だって私は彼と離れたくなくて、彼を残していきたくなくて悩んでいたのに、彼が平然とした笑顔で花束なんて持ってきたから。

でも。

「残していきたくなくて…なんて…」

なんて傲慢だったのだろう。

なんて馬鹿だったのだろう。

なんて愚かだったのだろう。

私はどうして、彼の本音に気づいてあげられなかった?

彼はきっと全部分かってた、なのに私は。
くだらないことで勝手に怒って彼を責めて、自分の気持ちを抑えて、遠くない未来で死ぬ自分の気持ちなど迷惑なだけだと押し殺して。

頑張って、耐えて、変わらない笑顔で笑ってくれていたのに。

あの笑顔はいつもの笑顔なんかじゃなかった、当たり前なんかじゃなかった。

失ってから気づいても、遅い。
全部、遅かった。

明るかったって、話しかけることができたって、なにも役に立たなかった。

堪えきれずに泣き声が漏れた。

大好きなのに、大好きだったのに。

大きな月の夜、私は自分と引き換えに、彼の命を失った。私が夢の中でまどろむ間に、彼はすでに悲しい決意をしていたんだ。

言えなかった。

言えたらよかった。

言えばよかった。

言いたかった。

「どう…してっ…」

言わなかったのだろう。

届いたかも、しれないのに。

肩を震わせて静かに泣くその華奢な影を、その夜ずっと月は優しく見下ろしていた。