一分でも、一秒でももっと大事にできたはずだった。

思い出す。

あの。

「………い……」

蒸し暑い夏の夜の、とびきり大きな月が見えた日。

君の綺麗な横顔を、月を見つめる瞳を、いつまでも眺めていたいと思っていた。

結局最期まで、伝えは出来なかったけれど。




夢を見ていた。
長い、夢を。





6/15
梅雨。じめじめしている。
紫陽花が咲いていて綺麗だ。
医者から日記をつけて気持ちを吐き出してみろと言われたが、書くことがないので困る。何を書けばいいのだろうか。
ああ、そういえば、一昨日隣のベッドの子に話しかけられた。
名前は──────…………




「今宮君!何書いてるの?」
「…わっ」
慌ててノートを閉じると、彼女のさらさらの黒髪がぱさりと音を立てて慣れた仕草で耳の後ろにかけられた。

「…いきなり見ないでくれる?」
「あ、ごめんなさい…」

図々しい態度がかんに触り、つい剣呑な口調になってしまう。すぐに反省した僕は、ごめんと口を開こうとして、彼女の開き直りの早さに唖然とした。彼女はこっそりとノートに手を伸ばそうとしていたのである。

「ちょっと……!!相澤さん!」

「……!」
すると、彼女はなぜか目を輝かせた。

「今っ」

「え?」

何が起きたのか把握できずに狼狽えると、彼女は満面の笑みで振り返り、

「名前」
と言った。

「名前、呼んでくれましたよね。…我が儘言うと未来留がいいんですけど、そこまでは言いません!」

どうしてだかドヤ顔のような彼女に、僕はつい笑ってしまった。

出会った日もこんな明るい笑顔で、彼女は言ったのだ。

『こんにちは!私、相澤みくるって言います!未来に留めるの留で、未来留』

そう言って、身を乗り出すように隣のベッドから話しかけてきたのだ。

病人とは思えないほど明るい彼女だが、周りの様子から察するにわりと深刻な病らしい。

能天気なわけではなくて、敢えてそう振る舞う彼女のことは、16.17.18.19.20.21…と日記の日付が変わる度にだんだんとよく日記に何となく書くようになった。



7/1
彼女は定期検診の時間でまだいない。
…まだ来ないのだろうか。遅い。
別にはやく来てほしいとか、そういうことは微塵も思っていない。ただ、朝食が冷めてしまうと、そう思っただけだ。



そこまで書いたところで、ガラリとドアが開き、車椅子に乗った彼女がやってきた。

いつになく弱々しい笑顔が、気になった。

看護師の女性が病室を出ていくと、僕は何も気にしていない素振りをしながらも、ちらちらと彼女を見ずにはいられなかった。

「…なんか、あったか」

「ん、…なんもないよ?どしたのー?」

ふふっ、と笑ってこちらに寝返りを打った彼女はやはり、どこか無理しているようで。

「…そうか」

それでも踏み込むことは出来ずに、僕は意気地無しのまま目を閉じて寝ようと努めた。

どうして。

どうしてあの時、無理にでも聞き出さなかったのだろう。

さらさらと穏やかに、時がこぼれていく音が聞こえる。彼女のベッドの横には、花の挿されていない花瓶の横に、黄色の砂が入った砂時計があった。

黙って彼女はそれをひっくり返したが、その時計にはまだ、半分ほど下に落ちていない砂があった。