それでも岸島はそろばんを教え続けていたが、ある頃から、通ってくる子供が減ってきた。

理由を知ったのはしばらくしてからである。

「あの先生は新撰組あがりだから近づくな」

という噂が流れていたからである。

やがて。

噂を流したのが、例の加納鷲雄であることも分かった。

「伊東を斬られた恨みが、まだあるのかも知れぬな」

岸島はそういう加納を、あわれにも感じるようになっていたようである。

「確かにあのとき伊東どのは斬られたが、なれどあれは新撰組のためであり、会津のためであり、京の民のためであり、ひいては帝のためでもあった」

と他日、岸島は小野権之丞に語ってもいるが、加納はそれを粘着質の怨念で晴らそうとしている…と岸島の目には見えたのであろう。