一つ目のお祝いを終えて、テーブルの上にパソコンを用意した。きっと二つ目もお祝いできるよね。

「あ、受験どうだった?」

受験の話は、ずっと聞いていなかった。いつか聞いておこうと思っていたんだ。

「難しかったよ。だけど悔いはないかな。なんか楽しかったし」

受験を楽しいとか言う人は、今初めて見た。きっとこれが翔の強さなのだろう。

「よかったよかった。結果も大事だけど、やっぱり気持ちも大事だからね。悔いなくやり遂げられたなら、全然大丈夫だ」

父さんは優しく笑ってみせた。やっぱりその笑顔は安心できるもので、心が温まる。

「じゃあ、明日にでも美術館行くか!」
「いいの!?」

翔は嬉しそうに声をあげた。そして枕元から、あのチラシを取り出した。

何よりも、まだ置いておいてくれていたことが嬉しかった。

「明日が楽しみ!」

ウキウキした顔でリュックを抱きしめていた。

翔と外出なんて、何年ぶりだろうか。全てが懐かしく思えて、なんだかホッコリする。

日常って素敵だなって、初めて思えた。

「うっ……」
「翔!」

突然何かが起きた。わかることはそれだけで。

目の前には、胸を抑えて苦しむ翔がいた。

「どういうこと……」

すると、荒々しくドアが開いて、二人の看護師が走ってきた。

「大丈夫ですか!」
「……苦しいです。胸が、心臓が、体中が」

慌てる看護師を目の前に、翔は呑気に笑っていた。

「痛いです。だけど辛くないんです」
「何を言っているんですか!」
「今すぐ先生に診てもらわないと危険です!」

危険……

さっきまで十二歳のお祝いをしていたところなのに。次のお祝いもするところだったのに。

あんなに元気だった翔が、どうして、ありえない!

「翔、大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。やだな、心配しないでよ」

翔は笑顔を作っていたけど、やっぱり何かを恐れているような顔で。

「どうしましたか、翔くん」

するとこの前の医者がやってきた。

「少し診させてね」

真剣な表情を浮かべた先生が、翔のそばについた。そして丁寧に診察をしていく。

一瞬ん?と首を傾げたけど、また真剣な表情に戻った。

「お気の毒でございます。心臓に何かウイルスが入り込んでいたみたいです」
「いたみたいって……どうして気づかなかったんですか!」

母さんが声を荒らげた。目にはすでに涙が浮かんでいて、今すぐにでもこぼれ落ちそうだった。

「このウイルスが入り込んだのは、今日ではないようです。反応を起こしたのが今日ということは、二、三日前くらいと思われます」

一瞬にして、みんなの顔色が変わった。すぐにわかってしまったんだ。

原因は受験だってこと……

何度も疑ったけれど、それ以上口を開けることはできなかった。

「……誕生日祝ってくれてありがとう」

翔の唇が微かに動いた。そしてまた動き始めた。

「母さん、俺を産んでくれてありがとう。父さん、人生について色んなこと教えてくれてありがとう。優馬……」

いつも呼ばれていた名前。聞き慣れているこの声。もう聞くことができなくなるかもしれない、この声。

絶対に聞き漏らしたくなんかなかった。

「優馬、こんな最低な弟を大切にしてくれてありがとう」

ふにゃっと笑った顔が、俺の方を向いた。

その笑顔に、胸がチクリと痛んだ。

苦しくい。胸が、心臓が、体中が。そしてとても辛い。

翔とはきっと痛み方が違う。だけど、とても苦しいのは事実で、何もかもが出てきてしまいそうだった。

時計は七時五十六分を指していた。

あと四分……お願いします……どうか翔が生きている間に発表を……

「……これ」

翔が差し出したのは、あのチラシだった。

「俺、行けないみたいだね。代わりに桜井さんと行ってきてよ」

いつもの嫌味ったらしい笑顔でそう言った。

いつもならイライラするはずの言葉も、全てが大切なもので、怒ったりなんかできなかった。

「翔もついてきてよ。約束したんだから」

きっとついてくるよね。大好きな絵を見に、絶対来てくれるよね。

信じてるね。

「ありがとう」

その声は、ハッキリとここまで届いた。

もう二度と聞けないこの声を、しっかりと胸に刻みこんだ。

「翔」

言葉を届けられるのも、今しかなくて。何度も何度も名前を呼ぶ。

「翔、翔」

翔は返事の代わりに、ニッコリ微笑んでいた。

リュックを抱きしめている腕も、だんだん弱ってきて、だんだん瞼が閉じていく。

「翔、翔、翔」

もう笑顔の返事も返ってこない。声だって聞こえない。

「翔!翔!!」

何度呼びかけても返事はなかった。

先生は「ご臨終です」だなんて言わなかった。ただ、悲しそうに姿を見つめていた。

本当に突然でまだ状況を掴めない。

「ごめんなさい……私が叩いたりなんかしなければ、楽しく生きていたに違いないのに」

母さんは肩を震わせて、涙をボロボロと流していた。

「自分を責めるんじゃない。しょうがないことなんだよ」

父さんは涙を流しながら、母さんの背中をさすっていた。

「ありえないよ……」

苦しみは消えなくて、ずっと涙が流れ続けた。

俺は何か残してあげることができたのかな。

正しいことを教えてあげられたのかな。

悔しくて悔しくて、涙が止まらなかった。

苦しくて苦しくて、吐き出したかった。

色んな感情が溢れ出してきて、それが全て涙へと変わった。

時計はすでに八時を指していた。

パソコンに映る字はただ一語。


『合格』

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