【桜井実華】
望は将来ヴァイオリニストになるらしく、そのために今から再挑戦を始めるとのこと。

私も頑張らなきゃいけないんだ。


少し風が冷たくなってきた十二月中旬。
なんと今日から冬休みなのだ!

受験生の私はただ勉強に励まなくてはいけない時期。親の理想の娘にならなきゃいけない。立派な医者になろう。私はそう決めている。

──コンコン

このノックの仕方はお母さんだろう。
お母さんのノックは優しく二回。
お父さんはノックじゃなくて「実華ー」とドアの前で叫ぶ。
望のノックら速く二回。

私が部屋に籠るから覚えてしまった。

「実華、ちょっと息抜きしてきたら?」

お母さんは私を心配してくれていた。確かに勉強しすぎているということは自覚していた。

座りすぎてお尻は痛いし、首と肩がこってるし、手は勉強だこだらけ。

確かにそろそろ息抜きしてもいいかな。

さっそくコートを羽織ってバッグにお財布やケータイを入れる。最近誕生日プレゼントで貰ったばっかりのポシェット。実は今日初めて使うんだ。

外はきっと寒いだろうからマフラーと手袋はもう身につけとく。

「行ってらっしゃい」

お母さんはいつもの微笑みを浮かべて小さく手を振った。

「行ってきます」

小さく手を振り返してドアを開けた。

とにかく寒い!

春の暖かい風とは全く反対の冬の冷えきった風は、あまり得意ではない。

昔から冬は雪が降らない限り嫌いだった。

駅まで行く途中に大きな坂がある。こっちから見たら下りだけど、帰って来る時は上りだ。そこから見える都会の景色は、ここが田舎だと改めて感じさせる。本当にここは田舎なんだけど。

コンビニだって二つしかないし、学校も全部廃校になっちゃったし、病院も一つしかない。しかも歯医者さん。

ご飯の材料は遠くまで買いに行かなきゃならないし、学校もみんな遠くまで通ってるし、病気になんてなってしまえば大変だ。

でも私達は引っ越そうとか、そんな考えはこれっぽっちもない。

お父さんはこの町の自然のおかげで、気持ちよく仕事に行ける。
お母さんは周りの農家の人達と仲がいい。
私は自然の音が聞こえて素敵だと思う。
望はヴァイオリンを好きなだけ弾ける。

とにかくみんなこの町が大好きなんだ。

駅だって田舎を感じさせる。
切符を買ってそれを駅員さんに見せるっていうやつ。

駅と言えるような造りでもない。木造の古い小屋みたいなところ。その角に燕の巣がある。

ベンチも時刻表もサビだらけ。
ここにいるのは私だけ。

一時間に一本しか来ない電車は、逃してしまうと大変な遅刻になってしまう。だからこの町から通勤、通学するのはかなり緊張する。

ぼーっと線路を眺めているとやっと電車が着いた。車内には二人の老人がいる。たぶん夫婦だろう。

電車の扉が閉まると景色が横へと流れていく。

「お嬢ちゃん、座らんの?」
「私、立って景色を見るのが好きなんです」

席は思いっきりガラ空きだ。その中で立って乗る人なんてなかなかいないだろう。だからいつもこうやって声をかけられるんだ。
だけど私の理由はただ一つ。

この景色が好きだから。

私がそう言って微笑むと「そうかそうか」と優しく笑ってくれた。

さっきまで田舎で土の色や木の色しか見えなかったのに、だんだんと景色が変わっていく。

たくさんのビルやマンション。学校や病院。

私の町じゃ見られない貴重な景色なのだ。

それにしてもなぜこの人達はこっち方面に乗っているのか。そんなのは腕に抱えているものですぐにわかった。

『出産おめでとう』

そう書かれた手紙は、大きなプレゼントにつけられていた。

きっと孫か誰かの出産祝いをしに行くのだろう。なんだかホッコリするな。

気づけば目の前の扉が開いて電車がプシューと音をたてる。

慌てて電車から降りて切符を機械に通す。
この瞬間、日本からブラジルまで来たような気になる。さっきまでとは全く違う世界。

コンクリートで造られていて、コンビニやお店がズラリと並んでいる。

切符の人なんて数人で、ほとんどの人がICカードを使用している。

そしてなんと言っても人が多い。

「やばくない!?」と笑い合う女子校生達、大人しく手を繋いでいるカップル、オネダリしてる子供を抱える母親、スマホに没頭しているサラリーマン。

あの町では見られない貴重な光景だ。いや、これが普通の光景なのかもしれないけど。

私が向かうのはいつものカフェ。
あのカフェは学校のそばにあるからルートならすぐにわかる。

「ぜひいらしてください」

目の前に出されたのは美術館のチラシ。

受け取ったはいいけど家に帰れば捨ててしまうのかな。
そんなことを思いながらバッグにしまった。


歩きすぎて体が温まった頃に到着した。

少し大きな扉を開けると、いつもの香りが一瞬にして私を包んだ。

マフラーと手袋を外してオーダーしに行く。

もちろん今日もブラックだよ。

「ブラックです」
「かしこまりました」

店員さんは、ここの常連客になっている私のことは認知しているらしい。だからちょうどいいコーヒーを出してくれる。

「おまたせしました」

少し熱いくらいの温かさで、それも私好み。

どこに座ろうか悩んでいると、見覚えのある後ろ姿が見えた。