屋上のあいつ

「ごめん、俊ちゃん! 俺今日親が迎えにくる!」
 俺めがけて、矢のようにまっすぐ飛んできた言葉に、長野と孝樹の間から、返事する。
「え? まじ? どうしたん?」
二人の体の間から、勇の姿が見えた。右手に先ほど貸した生物の教科書をにぎっている。最近勇は何かと忙しいらしく一緒に帰れない日がぼちぼちあった。彼の登場でなんとなく散らばっていった四人を後に、ふらふらと窓の方へ近寄っていき、教科書を受け取る。すると彼ははあ、と大きなため息をつき、
「俊ちゃん」
と、露骨に嫌そうな表情をした。
「俺、塾に入れられるかもしれん」
「まじで?」
「うん。親が今日何個か面接にいけって」
「うわ、最悪」
 ぐ、と眉間にしわをよせた俺自身も小学校の頃、地元の塾に通っていた。おもしろかった、という記憶はあまり無い。
「もし入ったら週二日は一緒に帰れんくなる!」
「何!? 勇、二日も?」
「そうっちゃ、したら、毎週五分の二は勉強せないけんのっちゃ!」
「そっか、五分の三しか一緒に帰れんっちことは、俺二日間さみしいやん!」
 廊下と教室の双方に、二人の叫び声が響いた。そんなこともお構いなしに、俺はふうとため息をつく。
「五日のうち二日かあ」
「俊ちゃん、彼女でも作ったら? したらその二日、寂しくないよ」
 眉をハの字にした勇の提案に、俺はちょっと目を細めた。
「彼女か。となると? 一ヶ月で二掛ける四の八日で、一年で八掛ける十二……えーと」
「九十六日!」
 俺よりはやく勇が答える。三百六十五日分の九十六日か。いや、休日はもともと一緒に帰らないからその分引いて二掛ける四掛ける十二の……三百六十五から九十六引いて……ああ、もういいや。
「おお、九十六日の別れ。彼女を作ってしまったらそれが三百六十五日となろうぞ」
「上様、ご冗談を! 我らは二人で幾多もの戦を切り抜けてきた身ではございませぬか!」
「勇、おぬしには世話になった。ぬしも女房を探して、幸せに暮らせ」
「上様ぁっ!! ……って!」
勇が叫ぶと同時、パコンと彼の頭に出席簿が振り下ろされた。彼の背後には、化学の先生。黒ぶち眼鏡の奥からするどい視線がきらりと勇をつきさした。
「来原、宿題どうした。ずいぶんとためてるようだが?」
「せっ、先生」
 勇の声がうわずる。勇は宿題忘れの常習犯だ。教科の好き嫌いを問わずにめったに宿題を提出しない。ある意味とても平等な奴だと思う。
「いや、べつにやってないとかいうわけじゃないんですよ?」
 ゆらゆらと視線を泳がせながら勇が弁解をはじめる。
「当然だ。で?」
 でも先生は容赦なく勇をせっついた。
「でって……」
 先生の言葉に固まる勇。「で」って、「で」は「で」だろう。まあ、助け舟でもだしてやるか。
「先生、勇最近いそがしくて」
「忙しいって、他のやつは忙しくても宿題はだすぞ?」
 するどい視線がすっとこちらを向く。おお、迫力がある。
「いやいや先生、本当、勇は特別なんです、なっ?」
 さ、何でもよいから嘘をつけ、勇。ちら、と視線を送ると彼はそれをうけとり、ぱっと先生を見上げた。
「あ、うんうん、そうなんです先生! 俺実は今母親が病床にふしていて」
「そうです、それでご飯とか自分で作らなくちゃいけないんです」
「俺今まで料理とか洗濯とかしたことなくて……もう全てが手探りで」
「俺も手伝いに行くんですけど、でも毎日は行けないし」
「しかも弟の世話もしなきゃいけなくて、はやく帰ってやんないと心細いだろうと思って」
「あー、お前んちの弟すぐに泣くもんな。小学校だっけ?」
「そう、今三年生。もうお兄ちゃんにべったりだよ」
「歳はなれてたら可愛いだろーなあ。いいなー、俺も弟欲しかった」
口からでまかせをどんどん喋る。勇の母親は病気ではないし、彼に小学校三年生の弟もいない。よって、毎日家事などもしなくてもよいし、弟の世話など頼まれてもごめんだろう。ついでに言うと、俺も歳のはなれた弟なんぞ微塵もほしくはない。
「ほお。来原は今まさに家を支えているんだな」
「そうです! だから勉強にまで手がまわらないんです!」
勇が、期待のこもったまなざしで先生を見る。
「そうかー。そんなにお母さんの病状は重いんだな。なんせ、一学期からずっとお前は宿題を提出していないからなあ」
 深々と先生が、わざとらしくため息をついた。げ、そう思ったときにはすでに遅く。
「学期末の保護者会、あれは無理を押してきてくださったんだな。あんなにお前の成績の心配をして、そしてお前の溜め込んだ重い荷物を暑い中教室から車まで運ぶ手伝いをしてくださっていたあのお母さんがなあ。その間お前はたしか片倉と遊んでいたよなあ。そうかあ、今学生の本分をなげだしてまで家を支えようとしているお前が、あそこで自分の荷物をお母さんに持たせて片倉とさわいでいたのは、一種の憂さ晴らしだったんだよな?」
 勇は、まるで蛇ににらまれた蛙のようにピクリとも動かなかった。いや、これはどちらかといえばスリッパをもった主婦に立ち向かっているゴキブリといったほうがあっているかもしれない。こうなれば強行突破、勇は逃げる隙をうかがっているだろう。
「あ、勇、もうこんな時間だよ! 小学校から帰ってきとーんやないん?」
 さあ勇、走れ!
「あ! 本当だ! ありがと俊ちゃん! ということで先生、ゴメンね!」
「え、あ、おい! 来原!」
 バイバーイ、と一回細い腕で大きく手を振り勇は廊下を一目散に駆けていった。さすが、逃げ足の速いこと速いこと、その姿はすぐに廊下にいた生徒達の影にまぎれ、見えなくなる。後には先生と俺二人が残された。今頃きっと、ほっと胸をなでおろしている所だろう。感謝しろよ、勇。
「片倉!」
「あ、先生、俺今から宿題するから。ばいばい」
 何か言いたげな顔を、ピシャリと窓でさえぎる。おお、危ない危ない。とばっちりをくらわないように、こっちも上手く逃げないと。