* * *
イライラとしていた。
何度も何度も片倉の泣き顔が脳裏にうかぶ。いくら忘れようとしてもくっきりと焼きついたようで、はなれてくれない。
なにがくやしい、だ。なにが知ってる、だ。あいつはまだ俺のことなんて、俺という人間なんて知ってるはずがないのだ。俺の知り合いに俺のことを聞いたって、俺のイメージを知るだけで、俺自身を知ることではない。
貯水タンクの上にごろりと寝転がって、空を見上げた。冬の澄んだ空気の中の、くっきりとした山の端が、目の端にうつる。そうか、もうこんな時期か。寒さに背を丸め、マフラーに首をうずめて帰宅する季節。俺はもう、寒さなんて感じない身体だけど。
そのまま目を閉じると、どこからかパラパラと紙のめくれる音が聞こえてきた。そういえば片倉からノートをとりあげて、そのままである。ひょいと下をのぞくと案の定そこにはいつか盗み見たあのノートが落ちていた。好奇心で作り上げられたノート。あいつが調べ上げたもの。たしかにはじめこれを見たとき、何かを感じた。もう忘れてしまったけど。
もしかしたら、あいつのことだ、またのこのことノートを探しに現れるかもしれない。そうしたら、俺の姿が見えなくてもあいつは話しかけてくるだろうか。また何か、おかしなことを言い出すのだろうか……それは、困る。
こんなに気持ちが揺さぶられるのは、幽霊になってからはじめてだった。死んでしまえば、感情ともさよならできると思っていたのだが。
うざってえ。
なんに対してなのか、よくわからない悪態をつきながら、貯水タンクを力いっぱい蹴る。そのまま落下していった体をわざと無様に着地してみせた。もろに肩から地面にぶつかったが、痛みはない。左手に視線を向けるとノートが風にふかれていた。その間に、桃色の紙が、はさまっていた。片倉のメモか? それにしてはずいぶんとかわいらしい趣味をしている、そう思うと自然にそれに手がのびていた。きれいに折りたたまれた跡を乱暴にのばすとそこには片倉のものではない細かい文字が並んでいた。
『温へ』
俺宛の、手紙? 生前、だれかが俺にあてたものだろうか……いや、この文字は。思わずはっとしてしまう。
見覚えのある文字だった。ざわざわと心が揺れ、見たくないと心の中で思っていたが、俺の目は気づけば差出人の名前をとらえており。
『迫田智奈』
もうないはずの心臓が、ドクンと大きく脈打った。智奈だ。
『久しぶりです、私のこと覚えていますか? 生前の記憶ははっきりとしているのですか?』
気づけば本文に目を通し始めていた。
『温が亡くなってからあなたの死に納得がいかず、今までずっと悩んできました。こういったら、またあなたは私のことを嫌がるのかもしれません。だけれど、これは変えようのない事実で、一時はあなたのことを忘れようと思ったこともありましたが、やはり無理でした。この手紙は今まで悩んでいた私の気持ちにけじめをつけるために書いています。きっと今あなたはこの手紙を片倉君の口から聞いていることでしょう。私が無理言って、彼にお願いしました。もしかしたら、手紙の形で渡されただけだったら、読んでもらえないかもしれないと思ったからです。それに片倉君を通したら、温に伝わりそうな気がしたから。片倉君は不思議な子だと、温も思いませんか? 全く関係のない第三者のはずなのに、何の違和感もなく懐に入り込んできて、それでいて止まっていた私達の時間を動かし始めた。あなたのことが気になっていて、でも手がかりがなくて、そしてやっと見つけたとっかかりが片倉君で、私は彼になんと礼をいったら良いかわからないぐらいです。彼のような子が、温に出会ってくれてよかった。と、こんなことを言わされている片倉君は今少し恥ずかしい思いをしているかな? 片倉君の困った顔が目にうかびます。ごめんね、でもこれが正直な私の気持ちだから。
話がそれました。
温が亡くなる少し前に、あなたは私のことを拒絶しましたね。正直、何でだろうと思いました。周囲の友人がどんどんあなたから離れていって孤立していくのを見ながら、最後まで私なら一緒にいてあげる、私なら絶対にうらぎらないと本気で思っていました。よく考えてみれば、あの時あなたはきっと誰も信用できない状態にいたのでしょう。あなたの気持ちも考えず、私だけは特別に信じてもらえるはずだ、と思っていた自分が恥ずかしい。あなたのことは誰より知っていると思っていたし、あなたも私のことを深く理解してくれていると思っていました。おしつけがましい、一方的な私の勘違いですね。あなたが不安定な時に、自分のことばかりを考えていたことを深く反省しています。今更もう遅いことはわかっています。けれど、ごめんなさい。これだけはあやまっておきたかった。
さて、話が片倉君に戻ります。
片倉君から温の話を聞いてからずっと、何故今更あなたがあらわれたのか考えていました。はっきり言って、あなたと片倉君には何の接点もなかった。片倉君も本人曰くいわゆる幽霊の類が見える人ではないそうなのです。それならば、ただの偶然としか言いようがない。何故私には見えなかったのだろう、そもそも温の幽霊なんて本当にいるのか、片倉君に一杯くわされているだけなのでは、いや、あの子にかぎってそんなことをするわけがない、とそんなことをぐるぐると考えていました。そして出た答えが『きっと片倉君でなければいけなかった』ということです。前述したように、片倉君はとても不思議な子です。私がそう感じているのなら、温もきっと彼から感じる所があったのではないでしょうか。片倉君とであって、なにか変わったことは? 拒絶しないで、ちゃんと考えてみてください。きっと何かがあったはずです。そして、それはこれからの温を変えていく原動力となるものだと思います。
もしかしたら、あなたはもうこの世の人ではないので、この手紙の言葉が届かないかもしれません。たとえそうだとしても、やっぱり温のことが忘れられないから。私は温のことを深く想っているから。いつまでも学校の屋上なんかに一人取り残されていてほしくないのです。私の知っている温はそんなところにいつまでもとどまっているような人じゃない。そこにいて、さみしくありませんか? 私は屋上に出て空を見上げるといつもさみしくなります。だって、一番空に近い場所にいるはずなのに、遠い、と他のどんな場所よりも強く感じるから。でも、温は違う。私のように自分の力だけではどうしようもない何かに縛られていません。温がとべないのは自分の中の何かに縛られているからでしょう?それならば、自分の意思で自由になれる。凄いことだな、と私は思います。
この手紙を読んで、温に何かがおこりますように。それだけを祈っています。最後まで読んでくれてありがとう。 迫田智奈』
最後の文字の後に、何か消された後があった。目を細めてみると「さようなら」とがたがたの文字。
智奈。
きっと書けなかったのだろう。「さようなら」という言葉が。
智奈……!
どっと何かが体中に流れ込んできた。温かい。そして、苦しい。胸が締め付けられるように痛む。ぼろぼろと、目からは大量の涙があふれた。
この涙は、知っている。何故涙がでるのか、わかる。
もう気持ち悪いなんて思わなかった。
そうだ。何故こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。気が付いてしまえば、理解するなんてそんなおおげさなことではなかった。
「ごめん……ごめん智奈……」
ずっと俺のほうが勘違いをしていたのだ。そして、拒絶していた。彼女のことを、みんなの事を、いつしか理解しようとしなくなっていたのだ。昔はあんなに頼りにしていたというのに。胸が、痛い。そうだ、この感覚を忘れていた。苦しいけれど、とても美しい感情。いつからだろうか、死んだ時から? いや、きっともっと前、そうだ、ケーゴが亡くなったとき以来だ。ずいぶん長い間、大事なものを忘れていた。
あやまりたい。
智奈に、そして片倉に。そうだ、智奈の言うとおりだ。俺があいつと会ったことは、きちんと意味があったのだ。知らない間に、心を揺さぶられていた。気づかなかっただけで、俺の中で何かが変わり始めていたのだ。
死んでから屋上の貯水タンクに寝転んで。短いような、長いような時の中で、日々雲の流れだけを目で追っていた。時折やってくる生徒はただ目障りな侵入者でしかなく。だけれどあの日、片倉と目があってから、彼のことが気になり始めた。自分から、屋上を出て会いに行った。俺は幽霊なのに、恐がらずに友達みたいに普通に話をしてくれたことがうれしくて、うれしくて。そうだ、あの時俺はうれしかったのだ。まったく気づいていなかった。それから久しぶりに誰かのことを考えるようになったのだ。時間の感覚もはっきりしてきて、片倉が来るのを心のどこかで待っていた。まるで深い深い眠りからさめた直後のような頭の働いていない寝ぼけた状態だったけれど。今、完全に目が覚めた。
会いに行こう、智奈のところへ。そして、両親のところにも。そうだ、部活の奴とか先生とかにも会いに行こう。今までお世話になった全ての人に、会おう。
そして。
体が軽い。胸の痛みがかろうじて感じられる最後の重みだ。
逝こう。
片倉は俺からでむかなくても、会いに来てくれる、そんな気がした。手紙を残していこう。そうしたら、俺が居なくてもきっと、また後で屋上にやってきてくれるはずだ。
イライラとしていた。
何度も何度も片倉の泣き顔が脳裏にうかぶ。いくら忘れようとしてもくっきりと焼きついたようで、はなれてくれない。
なにがくやしい、だ。なにが知ってる、だ。あいつはまだ俺のことなんて、俺という人間なんて知ってるはずがないのだ。俺の知り合いに俺のことを聞いたって、俺のイメージを知るだけで、俺自身を知ることではない。
貯水タンクの上にごろりと寝転がって、空を見上げた。冬の澄んだ空気の中の、くっきりとした山の端が、目の端にうつる。そうか、もうこんな時期か。寒さに背を丸め、マフラーに首をうずめて帰宅する季節。俺はもう、寒さなんて感じない身体だけど。
そのまま目を閉じると、どこからかパラパラと紙のめくれる音が聞こえてきた。そういえば片倉からノートをとりあげて、そのままである。ひょいと下をのぞくと案の定そこにはいつか盗み見たあのノートが落ちていた。好奇心で作り上げられたノート。あいつが調べ上げたもの。たしかにはじめこれを見たとき、何かを感じた。もう忘れてしまったけど。
もしかしたら、あいつのことだ、またのこのことノートを探しに現れるかもしれない。そうしたら、俺の姿が見えなくてもあいつは話しかけてくるだろうか。また何か、おかしなことを言い出すのだろうか……それは、困る。
こんなに気持ちが揺さぶられるのは、幽霊になってからはじめてだった。死んでしまえば、感情ともさよならできると思っていたのだが。
うざってえ。
なんに対してなのか、よくわからない悪態をつきながら、貯水タンクを力いっぱい蹴る。そのまま落下していった体をわざと無様に着地してみせた。もろに肩から地面にぶつかったが、痛みはない。左手に視線を向けるとノートが風にふかれていた。その間に、桃色の紙が、はさまっていた。片倉のメモか? それにしてはずいぶんとかわいらしい趣味をしている、そう思うと自然にそれに手がのびていた。きれいに折りたたまれた跡を乱暴にのばすとそこには片倉のものではない細かい文字が並んでいた。
『温へ』
俺宛の、手紙? 生前、だれかが俺にあてたものだろうか……いや、この文字は。思わずはっとしてしまう。
見覚えのある文字だった。ざわざわと心が揺れ、見たくないと心の中で思っていたが、俺の目は気づけば差出人の名前をとらえており。
『迫田智奈』
もうないはずの心臓が、ドクンと大きく脈打った。智奈だ。
『久しぶりです、私のこと覚えていますか? 生前の記憶ははっきりとしているのですか?』
気づけば本文に目を通し始めていた。
『温が亡くなってからあなたの死に納得がいかず、今までずっと悩んできました。こういったら、またあなたは私のことを嫌がるのかもしれません。だけれど、これは変えようのない事実で、一時はあなたのことを忘れようと思ったこともありましたが、やはり無理でした。この手紙は今まで悩んでいた私の気持ちにけじめをつけるために書いています。きっと今あなたはこの手紙を片倉君の口から聞いていることでしょう。私が無理言って、彼にお願いしました。もしかしたら、手紙の形で渡されただけだったら、読んでもらえないかもしれないと思ったからです。それに片倉君を通したら、温に伝わりそうな気がしたから。片倉君は不思議な子だと、温も思いませんか? 全く関係のない第三者のはずなのに、何の違和感もなく懐に入り込んできて、それでいて止まっていた私達の時間を動かし始めた。あなたのことが気になっていて、でも手がかりがなくて、そしてやっと見つけたとっかかりが片倉君で、私は彼になんと礼をいったら良いかわからないぐらいです。彼のような子が、温に出会ってくれてよかった。と、こんなことを言わされている片倉君は今少し恥ずかしい思いをしているかな? 片倉君の困った顔が目にうかびます。ごめんね、でもこれが正直な私の気持ちだから。
話がそれました。
温が亡くなる少し前に、あなたは私のことを拒絶しましたね。正直、何でだろうと思いました。周囲の友人がどんどんあなたから離れていって孤立していくのを見ながら、最後まで私なら一緒にいてあげる、私なら絶対にうらぎらないと本気で思っていました。よく考えてみれば、あの時あなたはきっと誰も信用できない状態にいたのでしょう。あなたの気持ちも考えず、私だけは特別に信じてもらえるはずだ、と思っていた自分が恥ずかしい。あなたのことは誰より知っていると思っていたし、あなたも私のことを深く理解してくれていると思っていました。おしつけがましい、一方的な私の勘違いですね。あなたが不安定な時に、自分のことばかりを考えていたことを深く反省しています。今更もう遅いことはわかっています。けれど、ごめんなさい。これだけはあやまっておきたかった。
さて、話が片倉君に戻ります。
片倉君から温の話を聞いてからずっと、何故今更あなたがあらわれたのか考えていました。はっきり言って、あなたと片倉君には何の接点もなかった。片倉君も本人曰くいわゆる幽霊の類が見える人ではないそうなのです。それならば、ただの偶然としか言いようがない。何故私には見えなかったのだろう、そもそも温の幽霊なんて本当にいるのか、片倉君に一杯くわされているだけなのでは、いや、あの子にかぎってそんなことをするわけがない、とそんなことをぐるぐると考えていました。そして出た答えが『きっと片倉君でなければいけなかった』ということです。前述したように、片倉君はとても不思議な子です。私がそう感じているのなら、温もきっと彼から感じる所があったのではないでしょうか。片倉君とであって、なにか変わったことは? 拒絶しないで、ちゃんと考えてみてください。きっと何かがあったはずです。そして、それはこれからの温を変えていく原動力となるものだと思います。
もしかしたら、あなたはもうこの世の人ではないので、この手紙の言葉が届かないかもしれません。たとえそうだとしても、やっぱり温のことが忘れられないから。私は温のことを深く想っているから。いつまでも学校の屋上なんかに一人取り残されていてほしくないのです。私の知っている温はそんなところにいつまでもとどまっているような人じゃない。そこにいて、さみしくありませんか? 私は屋上に出て空を見上げるといつもさみしくなります。だって、一番空に近い場所にいるはずなのに、遠い、と他のどんな場所よりも強く感じるから。でも、温は違う。私のように自分の力だけではどうしようもない何かに縛られていません。温がとべないのは自分の中の何かに縛られているからでしょう?それならば、自分の意思で自由になれる。凄いことだな、と私は思います。
この手紙を読んで、温に何かがおこりますように。それだけを祈っています。最後まで読んでくれてありがとう。 迫田智奈』
最後の文字の後に、何か消された後があった。目を細めてみると「さようなら」とがたがたの文字。
智奈。
きっと書けなかったのだろう。「さようなら」という言葉が。
智奈……!
どっと何かが体中に流れ込んできた。温かい。そして、苦しい。胸が締め付けられるように痛む。ぼろぼろと、目からは大量の涙があふれた。
この涙は、知っている。何故涙がでるのか、わかる。
もう気持ち悪いなんて思わなかった。
そうだ。何故こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。気が付いてしまえば、理解するなんてそんなおおげさなことではなかった。
「ごめん……ごめん智奈……」
ずっと俺のほうが勘違いをしていたのだ。そして、拒絶していた。彼女のことを、みんなの事を、いつしか理解しようとしなくなっていたのだ。昔はあんなに頼りにしていたというのに。胸が、痛い。そうだ、この感覚を忘れていた。苦しいけれど、とても美しい感情。いつからだろうか、死んだ時から? いや、きっともっと前、そうだ、ケーゴが亡くなったとき以来だ。ずいぶん長い間、大事なものを忘れていた。
あやまりたい。
智奈に、そして片倉に。そうだ、智奈の言うとおりだ。俺があいつと会ったことは、きちんと意味があったのだ。知らない間に、心を揺さぶられていた。気づかなかっただけで、俺の中で何かが変わり始めていたのだ。
死んでから屋上の貯水タンクに寝転んで。短いような、長いような時の中で、日々雲の流れだけを目で追っていた。時折やってくる生徒はただ目障りな侵入者でしかなく。だけれどあの日、片倉と目があってから、彼のことが気になり始めた。自分から、屋上を出て会いに行った。俺は幽霊なのに、恐がらずに友達みたいに普通に話をしてくれたことがうれしくて、うれしくて。そうだ、あの時俺はうれしかったのだ。まったく気づいていなかった。それから久しぶりに誰かのことを考えるようになったのだ。時間の感覚もはっきりしてきて、片倉が来るのを心のどこかで待っていた。まるで深い深い眠りからさめた直後のような頭の働いていない寝ぼけた状態だったけれど。今、完全に目が覚めた。
会いに行こう、智奈のところへ。そして、両親のところにも。そうだ、部活の奴とか先生とかにも会いに行こう。今までお世話になった全ての人に、会おう。
そして。
体が軽い。胸の痛みがかろうじて感じられる最後の重みだ。
逝こう。
片倉は俺からでむかなくても、会いに来てくれる、そんな気がした。手紙を残していこう。そうしたら、俺が居なくてもきっと、また後で屋上にやってきてくれるはずだ。
