『そっか、ありがとう……温、どうなっちゃうのかな……って、片倉君に言ってもしょうがないよね。とりあえず、ありがとう!』
 帰宅してすぐ、智奈さんにメールして。返信があったのは次の日の朝だった。電話帳から「迫田智奈」という名前を探す時、はっと彼女の手紙の存在に気がついたが、もう遅い。昨日ノートと共に屋上に忘れていってしまった。智奈さんの手紙だけでも、先に伝えるべきだったのに。
 何やってんだ、と情けなさにため息しかでない。俺はやっぱり、一人じゃなんもできない、ちっぽけな存在なんだ。
 でも、俺が温に何をしてやれるか、まだわからない内は、手紙をとりに行くことは、屋上に行くことは、まだできない。
 屋上に行って、彼に会っても「何しに来た」の一言で俺はきっとすぐに何も言い返せなくなる。それじゃ、だめだ。なんとか、彼を動かす力に、なりたい。俺も友達を支えてみたい。でも、やり方が見つからないうちは、だめだ。
今までの俺のやり方じゃ、だめなんだ。なんか新しいことをしなければ。決心して登校したその日、どこか学校は今までとは違う場所に感じられた。誰にも会わず、長い長い廊下を自分の教室まで歩いて行く途中、妙に緊張し、のどがカラカラになった。昨日までやっていたように、教室にすっと入って、誰かに挨拶されれば返すしそうでなければそのまま着席すれば良いことだった。けれど。
 教室に入る数歩前で深呼吸をする。大丈夫、きっとうまくいくさ。
 よし、と小さくうなずいて、力強く右足を前に出した。その勢いで、一歩、二歩、三歩……。
「おはよー」
 がら、と戸をあけた瞬間に、大きく一言。誰にでもなく、教室全体にあいさつをした。緊張の一瞬。
「おう、おっはよー」
「おはよー」
 すると、ぱらぱらと朝独特の気だるそうな声色の挨拶が数人から、返ってきた。とたん全身からほっと力が抜ける。
 いつからだろう、俺はこんな挨拶でさえ、まともに出来なくなっていた。いつも誰かから声がかかるだろう、かからなければ別にいいや、とものすごく怠惰な考えをして。
 昨夜絶対、教室に入ったら挨拶しようと思ってから、かなり不安だった。もしかしたら、みんな挨拶を返してくれないんじゃないだろうか、無視されたらどうしよう、そんな考えばかりが頭をよぎって。今もものすごく緊張していた。
やっぱり、新しいことしてみるって、すごい勇気と体力がいる。それがどんなにちっぽけなことだったとしても。でも、こうやって変わっていかないと。
廊下も新鮮に感じられたが、教室内も相変わらず、いつもとは違った場所に思えた。クラスメイトの姿を見るたびに、あいつには何も言わなかっただろうか、あいつは嫌な思いをしてきたのだろうか、と考えてしまう。
特に俺の気を引いたのは、やはり孝樹だった。
どこで彼と離れてしまったのだろう。高校に入って、急に態度が変わったから、たぶん中学の終りに俺が何かやってしまったのだろうと思う。けれど、どうしても原因が思い当たらない。
俺があいつににらまれるようになった原因……。授業中、黒板に向かう孝樹の後ろ姿をぼんやり見つめながら、俺はこれまたぼんやり考えていた。もろに態度にだしてきたのは高校だが、あいつの冷たい視線だけは、その前から感じていた。確か受験が終わって、進学先も決めて、何もかもから解放された頃からだ。「なんでこいつこんな時期にイライラしてんだろ」って、思った覚えがある。けれど、自分の言った言葉なんて、いちいち覚えていないから、どうにもわからない。言われた言葉なら覚えているだろうけど……特に、嫌なこと。孝樹にとっては嫌なことをいったのだろうから、彼はしっかりと覚えているのだろう。
『お前は悪気があっていっとるわけやないんやろうけどもうちょっと言い方考えりいよ』
『お前に勇との仲をどうこう言われる筋合いっち、ないと思うんやけど』
『勇のことに限らずだって。お前中学の時も色々言って、周りひいてたぞ』
 何日も前の会話を思い出す。いきなり中学の頃の話題をひっぱり出してきた彼に驚いたけど、今思えば、きっと彼の中でその頃にひっかかりがあるから、出た言葉だったのだろう。
 しかし、わからん!
 頭を抱えているうちに、授業が終わり、俺は気分転換にトイレに行くことにした。座り込んで考え続けるのはきっとよくない。
 廊下は移動教室から帰ってきた隣のクラスの生徒でごった返していた。その流れを逆流し、トイレを目指している途中、ふと一人の生徒の姿が目に入った。郷田だ。
 中学二年の時、同じ集団で騒いでいたクラスメイトだ。けれど中三になってからはだんだん俺を避けるようになっていって、今じゃ全然しゃべらなくなった奴。そういえば、同じ高校に入ったんだっけ。
 当時そんな郷田を不審に思い、「あいつ最近俺たちのこと避けてない?」と勇に聞いたら、「俊ちゃんが何かいったんやなかったん? 俺あいつからそう聞いたけど」と逆に聞き返された。その後、勇が本人に聞いたらしいが、どうも俺が「国語とかできて当たり前やろ、日本人なんやけ」って、テストで四十六点だったあいつに、言ったらしかった。俺は国語は得意だったから、その時はけっこういい点だったはずだ。
そりゃ嫌になるか。勇から聞いた時は、「何でそのぐらいで」と思ったものだが、今から考えてみれば確かにすごい嫌味だ。我ながら恐ろしい。成績って、デリケートな問題だ。
孝樹にもそんな感じでなんかいったのかなあ。中学の終り頃、中学の終り頃、と考えながら歩いていると、トイレの横の教室に張られていた、大学の偏差値表がふと目に入った。
 瞬間。
「あ」
 孝樹のあの視線の始まりを、思い出した。と、同時に、その時俺が言った言葉も。
『俊弥ぁ、俺公立落ちちゃった』
『あはは、やっぱりか』
『やっぱりっち、何でえ!』
『お前の頭で入れるわけないやん、ろくに勉強もせんで、ただの高望みやろ』
 高校受験の合格発表の次の日。朝あいつが登校してきた時のことだ。
 その後初めて、孝樹が冷たい目で、俺を睨んできた。その視線をうけて俺は、たしか笑ったっけ。彼の視線を、いつもの彼のおどけるしぐさだと思って。彼は、本気だったのだ。
 俺はあの時彼が親に負担をかけたくないからと、公立を第一志望にしたことは知っていた。そして、彼は俺がその公立に受かり、なおかつ行事が面白そうだからという理由だけで、公立を蹴り、私立を選んだことも知っていた。
……そりゃ嫌にもなるか。本日二度目の台詞が、うかぶ。やっぱり成績って、デリケートな問題だった。あいつはしっかりと考えを持っていて、それで人生を選ぼうとした。けど、何も考えていない俺に軽々と抜かれて、おまけに酷い言葉まで浴びせられた。
『どこ志望なん?』
『東北』
『東北大学?』
『いや、東北ならどこでもっちこと』
『何で?』
『え? そんなん雪降るけにきまっとおやん』
『ふーん……お前、自由で良いね』
 そういえば、あの時も。面談の前に教室の外に貼ってある偏差値表を見ていた時だ。
また同じことをしていたか。あの時急ににらんできた孝樹を、不思議に思ったが何のことはない。大学を選ぶという、今後の自分の人生を左右しかねない決定を、「雪が降るから」というふざけた理由で、下そうとしていたから。こいつまた何も考えてねーなって、思ったんだろうなあ。
 正直にいえば、先のことなんて考えたって分らないのだから、理由なんてそのくらいにして流れに身を任せたほうが、楽でよいと思うのだが。そんなことも言ってはいられない頃になったということだろうか。
大学のことはもうちょっと真面目に考えてみるか。ふと、あいつって、孝樹って、大人だったんだなあと思う。俺も成長しなきゃ。
 溜息を、一つ。いきなり孝樹が、えらく遠い存在に思えた。