* * *
「また後藤や」
ざわざわとクラス中がざわめいていたのは、三時間目の終わり頃。ちょうど古典の時間で静かな教室の中、響いてきた怒声。二年生では、いやこの学校では有名な、尾野という教師のものだった。古典教師は一瞬教科書を読む声を止めたが、また何事もなかったかのように再開した。その間も、隣の教室からは尾野の怒声が響き渡る。私や他の生徒はもう授業どころではなく、聞き耳を立て(そんなもの立てなくても十分に聞こえたのだけど)尾野と生徒のやりとりを盗み聞きしはじめた。最近良くある授業風景。二年生になってから、毎日のように聞く嫌な声。標的は私の幼馴染、そして片恋の相手。
「後藤、今日は他の生徒に向かって先生がもの投げたのにきれたんやって」
「あー! 国語辞典やろ? 先生もよおなげるよねー」
「てか、後藤もすごいわ。あの尾野によく注意するよな」
「ね。関わらんのが一番なのに」
教室のはしばしからそんな会話が聞こえ、私はぐっと胸を締め付けられるような痛みを感じた。ここの所、よく感じる痛み。生徒が悪かったのではない、尾野が悪いのだ。温は悪くない。私の頭の中ではそう思っているけれど、他のみんなの頭の中では? 昔温と仲の良かった子も、今ではすっかり温を遠巻きにして怖がってる。尾野と、温を。
「温!」
ふと廊下に温の影が横切るのを見て、私はいきなり立ち上がり、その後をおいかけた。ぱらぱらと数人の生徒が楽しそうに話している横をすり抜けて温の横に並ぶ。とたん、目に飛び込んでくる彼の不機嫌な顔。
「またやらかしたの?」
「あいつがおかしーんだよ。教師の前に、人間としてなってねぇもん」
少しため息が出る。尾野から体罰を受けた後の、おきまりの言葉。
「何したの?」
こんなとき、こうやってあげるのが一番だと、私は思っている。思うに、彼は正義感が強すぎるのだ。だから、おかしいと思ったことはたとえ相手が教師でもはっきりと指摘した。それとすこし、意地になってるところもあると思う。
尾野に会うまでは反抗的な子ではなかった。きっと些細なことでも「尾野だから」と言って温のなかでひっかかりやすくなっているのだろう。
「ほんと、まじありえん。あー、むかつく」
「ま、相手は先生やし、ほどほどにね?」
「……うー」
温もわかっているのだ。高校に入って、先生と揉め事はまずい。しかし自分でもどうにもとめられないのだろう。昔から変なところで、不器用なのだ。そんなところが、私が温を好きな理由なのだけれど。今はそれがなおってほしいと切実に思う。きっと平気なフリをしているけど、体のあちこちに青染みや傷があるのだろう。制服に覆われて見えないところが、痛ましかった。
「智奈ぁ、大変大変!」
一週間後、事件がおきた。放課後帰る支度をすませ、数人の友達と話していた時、廊下から隣のクラスの子が駆け込んできたのだ。額にはうっすらと汗をかいている。
「どうしたん?」
軽く首をかしげると、彼女は私の腕をとり、ぐんぐんとベランダへひっぱっていった。そして、ピシャリとドアをしめ、教室とベランダをきりはなす。
「後藤君、やばいことなっとるよ」
いつになく真剣なその口調と表情から、なんとなく嫌な予感がした。
「今日後藤君、サッカー部やめたって」
「え?」
温がサッカー部を、やめた?
「それっちまさか…」
「うん、ついにサッカー部の中でも分裂しちゃったらしい」
温がいくら人に遠巻きにされても、サッカー部は変わらず味方についてくれていたのに。尾野と衝突するようになっても、普通に今まで通接してくれていたのに。
「それでついに、クラス内で一人になって、ひどいんよ!」
「うん」
「後藤君が行くとこ行くとこ、皆があからさまにさけると…本当可哀そう」
眉を下げた彼女に、私はうなずくと、教えてくれてありがとう、と肩をたたく。それからかばんをひっつかみ、教室をとびだして、温を探した。
温がサッカーをやめるなんて。幼稚園の頃から、あんなに好きだ好きだといっていたのに。たかが喧嘩ごときでやめてしまうとは、温らしくない。
探しても探しても、校内に彼の姿は見当たらなかった。もしかしたら、もう帰ってしまったかもしれない。ぽつりぽつりと生徒が帰宅していく姿が窓の外に見える。そうだ、それならば家に行ってみよう。きっとふてくされていても、家には帰っているはず。私は教室にひきかえし、かばんをとって急いで帰途についた。何もかもがオレンジ色に染まっており、目にまぶしい。バスに乗って十分、歩いたら三十分かかる道のりをすいすいと進んでいく。なんとなく窓の外を眺めていると、ふいにとぼとぼと歩く温の姿が目に入った。
降車ボタンをいそいで押し、次のバス停でバスから飛び降りて、走ってきた道のりを逆走する。やがて前方から温の姿が見えてきて、私は立ち止まった。
「どうしたの?」
前置きなんていらない。ただ理由が、噂でなく真実が、本人の口から聞きたかった。
「別に」
温はそっけなく歩いていく。
「別にって、何よ」
小走りになって温についていっても、彼は私の方を向こうともせずに、
「なんもねえ」
と口を割ろうとはしなかった。
「なんもないわけ、ないでしょ? あんたがサッカーやめたって」
「部をやめただけだ」
「それが変なんでしょ!?」
だんだんと温の歩く速度がはやくなっていく。
「ねえ、ちょっと待ちなさいよっ!」
私は思わず温の腕をつかみ、彼を引き止めた。すると彼は乱暴に私の手を振りほどき、ぴたりと立ち止まった。
「うるさいんだって、お前。いつもいつも」
振り返った彼の眼には、嫌悪の色。まっすぐにそれが、私に向けられていた。
「……は?」
「何? 俺の話聞いて楽しいわけ? 偽善者ぶるのもいいかげんにしろよな」
偽善者? 温は何を言っているのだろう?
「そうやって何もかも知ってる風にしてつきまとうの、やめてくんねぇ?正直うざい」
つきまとう? 私が?
「……俺に近寄んねぇほうがいいぜ。そういうことだから」
じゃ、ばいばい、といい温は私に背を向けて歩き出した。私は何を言われたのかよく理解できずにただ呆然とその場にたちつくしてしまう。
偽善者、つきまとう、うざい
ギゼンシャ、ツキマトウ、ウザイ
ちらちらと頭の中で言葉の断片が舞い、その単語の意味すらもすぐには理解できなかった。しかし、ふと理解した瞬間。
ぽろぽろと、涙があふれだした。そのまましゃくりあげる事もなく、温の背中を見つめながら。立ち尽くして、ぽろぽろとぽろぽろと涙が流れていった。
「また後藤や」
ざわざわとクラス中がざわめいていたのは、三時間目の終わり頃。ちょうど古典の時間で静かな教室の中、響いてきた怒声。二年生では、いやこの学校では有名な、尾野という教師のものだった。古典教師は一瞬教科書を読む声を止めたが、また何事もなかったかのように再開した。その間も、隣の教室からは尾野の怒声が響き渡る。私や他の生徒はもう授業どころではなく、聞き耳を立て(そんなもの立てなくても十分に聞こえたのだけど)尾野と生徒のやりとりを盗み聞きしはじめた。最近良くある授業風景。二年生になってから、毎日のように聞く嫌な声。標的は私の幼馴染、そして片恋の相手。
「後藤、今日は他の生徒に向かって先生がもの投げたのにきれたんやって」
「あー! 国語辞典やろ? 先生もよおなげるよねー」
「てか、後藤もすごいわ。あの尾野によく注意するよな」
「ね。関わらんのが一番なのに」
教室のはしばしからそんな会話が聞こえ、私はぐっと胸を締め付けられるような痛みを感じた。ここの所、よく感じる痛み。生徒が悪かったのではない、尾野が悪いのだ。温は悪くない。私の頭の中ではそう思っているけれど、他のみんなの頭の中では? 昔温と仲の良かった子も、今ではすっかり温を遠巻きにして怖がってる。尾野と、温を。
「温!」
ふと廊下に温の影が横切るのを見て、私はいきなり立ち上がり、その後をおいかけた。ぱらぱらと数人の生徒が楽しそうに話している横をすり抜けて温の横に並ぶ。とたん、目に飛び込んでくる彼の不機嫌な顔。
「またやらかしたの?」
「あいつがおかしーんだよ。教師の前に、人間としてなってねぇもん」
少しため息が出る。尾野から体罰を受けた後の、おきまりの言葉。
「何したの?」
こんなとき、こうやってあげるのが一番だと、私は思っている。思うに、彼は正義感が強すぎるのだ。だから、おかしいと思ったことはたとえ相手が教師でもはっきりと指摘した。それとすこし、意地になってるところもあると思う。
尾野に会うまでは反抗的な子ではなかった。きっと些細なことでも「尾野だから」と言って温のなかでひっかかりやすくなっているのだろう。
「ほんと、まじありえん。あー、むかつく」
「ま、相手は先生やし、ほどほどにね?」
「……うー」
温もわかっているのだ。高校に入って、先生と揉め事はまずい。しかし自分でもどうにもとめられないのだろう。昔から変なところで、不器用なのだ。そんなところが、私が温を好きな理由なのだけれど。今はそれがなおってほしいと切実に思う。きっと平気なフリをしているけど、体のあちこちに青染みや傷があるのだろう。制服に覆われて見えないところが、痛ましかった。
「智奈ぁ、大変大変!」
一週間後、事件がおきた。放課後帰る支度をすませ、数人の友達と話していた時、廊下から隣のクラスの子が駆け込んできたのだ。額にはうっすらと汗をかいている。
「どうしたん?」
軽く首をかしげると、彼女は私の腕をとり、ぐんぐんとベランダへひっぱっていった。そして、ピシャリとドアをしめ、教室とベランダをきりはなす。
「後藤君、やばいことなっとるよ」
いつになく真剣なその口調と表情から、なんとなく嫌な予感がした。
「今日後藤君、サッカー部やめたって」
「え?」
温がサッカー部を、やめた?
「それっちまさか…」
「うん、ついにサッカー部の中でも分裂しちゃったらしい」
温がいくら人に遠巻きにされても、サッカー部は変わらず味方についてくれていたのに。尾野と衝突するようになっても、普通に今まで通接してくれていたのに。
「それでついに、クラス内で一人になって、ひどいんよ!」
「うん」
「後藤君が行くとこ行くとこ、皆があからさまにさけると…本当可哀そう」
眉を下げた彼女に、私はうなずくと、教えてくれてありがとう、と肩をたたく。それからかばんをひっつかみ、教室をとびだして、温を探した。
温がサッカーをやめるなんて。幼稚園の頃から、あんなに好きだ好きだといっていたのに。たかが喧嘩ごときでやめてしまうとは、温らしくない。
探しても探しても、校内に彼の姿は見当たらなかった。もしかしたら、もう帰ってしまったかもしれない。ぽつりぽつりと生徒が帰宅していく姿が窓の外に見える。そうだ、それならば家に行ってみよう。きっとふてくされていても、家には帰っているはず。私は教室にひきかえし、かばんをとって急いで帰途についた。何もかもがオレンジ色に染まっており、目にまぶしい。バスに乗って十分、歩いたら三十分かかる道のりをすいすいと進んでいく。なんとなく窓の外を眺めていると、ふいにとぼとぼと歩く温の姿が目に入った。
降車ボタンをいそいで押し、次のバス停でバスから飛び降りて、走ってきた道のりを逆走する。やがて前方から温の姿が見えてきて、私は立ち止まった。
「どうしたの?」
前置きなんていらない。ただ理由が、噂でなく真実が、本人の口から聞きたかった。
「別に」
温はそっけなく歩いていく。
「別にって、何よ」
小走りになって温についていっても、彼は私の方を向こうともせずに、
「なんもねえ」
と口を割ろうとはしなかった。
「なんもないわけ、ないでしょ? あんたがサッカーやめたって」
「部をやめただけだ」
「それが変なんでしょ!?」
だんだんと温の歩く速度がはやくなっていく。
「ねえ、ちょっと待ちなさいよっ!」
私は思わず温の腕をつかみ、彼を引き止めた。すると彼は乱暴に私の手を振りほどき、ぴたりと立ち止まった。
「うるさいんだって、お前。いつもいつも」
振り返った彼の眼には、嫌悪の色。まっすぐにそれが、私に向けられていた。
「……は?」
「何? 俺の話聞いて楽しいわけ? 偽善者ぶるのもいいかげんにしろよな」
偽善者? 温は何を言っているのだろう?
「そうやって何もかも知ってる風にしてつきまとうの、やめてくんねぇ?正直うざい」
つきまとう? 私が?
「……俺に近寄んねぇほうがいいぜ。そういうことだから」
じゃ、ばいばい、といい温は私に背を向けて歩き出した。私は何を言われたのかよく理解できずにただ呆然とその場にたちつくしてしまう。
偽善者、つきまとう、うざい
ギゼンシャ、ツキマトウ、ウザイ
ちらちらと頭の中で言葉の断片が舞い、その単語の意味すらもすぐには理解できなかった。しかし、ふと理解した瞬間。
ぽろぽろと、涙があふれだした。そのまましゃくりあげる事もなく、温の背中を見つめながら。立ち尽くして、ぽろぽろとぽろぽろと涙が流れていった。
