それから何事もなく日はすぎていった。教室の中はテスト前とあってピリピリとしていたけれど、みんな出来るだけ他人は傷つけまいと、そしてなにより自身がテストにつぶされまいと、教室の雰囲気を通常どおりに保とうとしていた。教室の横の黒板にはでかでかと『テストまであと○○日』とカウントダウンが書いてあったが、その周りは楽しげな落書でうめつくされていた。俺も必死で授業にかじりついていた。特に、数学。生徒個々の意思に反して、まるで勝手気ままな生き物のように授業はずんずんと進んでいく。放課後に勉強会と称して残る生徒が増えたし、いつもより授業中に寝ている奴は少なかった。それでも寝ている、大物はいたのだが。俺は一人で勉強する派なので、終礼後勇と飛ぶようにして家路についた。勇が塾の日も残らずに、一人でさっさと家に帰った。帰って、メシ食って、風呂入って、勉強して、寝て、起きて、学校行って、帰って……毎日が単調な繰り返しとなる。テスト前だからしかたない。温のことはもちろん頭の片隅にはあったが、どうしても目の前のテストという問題のほうが先行してしまい、彼についての新しい情報は、入手できていなかった。知りたいのに、時間がない、そんなもどかしい状況の中にいたので、温が二時間目の化学の時間にひょっこり顔を見せた時には、本当に驚いた。
クラスで何人か風邪ひきがでていたので換気のため窓を開けていた。きっと窓際の子は寒いのだろうとぼんやり視線を向けていたそこに、ふらりとあらわれた影。突然のことにびっくりして、はっきりその陰に焦点をあわせると、違いない、温が立っていた。俺が目を丸くさせて凝視すると、彼はにやりと笑って教室に入ってきた。そして、黒板を見る。
「アンモニアの性質は無色の刺激臭で……」
先生がチョークで板書する手を目で追い、彼は口を開いた。
「……水に溶けやすい気体だな。中学ん時やったよな、みんな?」
温の声が見事に先生の声と重なった。思わず噴出しそうになるのをこらえる。口調もちゃんと真似てあった。そして、先生が化学式を書き始めたのを見て、ああ、と顔をしかめる。
「先生、間違ってる。そこはNH₄⁺だって……あ、よしよし、気づいたか」
カラカラと笑う温に、視線をむける。そして、ちょっとクラス内を見回した。みんな黒板を見つめたり、机に視線を落としているだけ。いつもの、授業風景だ。これだけ温が声をだしているのに、気づいている、いや、聞こえているのは俺だけらしい。というかコイツ、何でここにいるんだ。
「片倉」
気づけば温が俺の机の横に立っていた。反射的に彼を見上げると、温は横の黒板を見ていた。周囲の視線を思い出し、ぱっとノートに目をふせる。
「テストなんだ。どうりでお前来ないし、残ってる奴が多いと思った」
どうやら黒板の字を読んだらしい。声で話しかけるわけにもいかず、俺はノートの端っこにさっと走り書きをした。
『どうしたんだよ?』
指でその文をポンポンとたたく。不自然な行為ではないはずだ。一瞬の間をおいて、頭の上から答えがふってきた。
「久しぶりの教室も、いいじゃん?」
はあ。ため息を一つ。そんなの、放課後人がいなくなった時でもいいじゃないか。わざわざ肝を冷やすようなこと、しないでくれよ。
「最近来ないから片倉のことが気になった、なんてこと言うと思ったか?」
笑い混じりの声。
『誰が思うか、馬鹿。俺もいそがしいんだ』
「テスト勉強でか?」
『おう』
「ふうん」
彼は言ったきり、何も言葉を発しなかった。しばらくして様子を伺うと、真剣な面持ちで黒板を見ていた。その横顔に、思わずはっとさせられる。
温も、ただの生徒なのだ。幽霊だが、元はここの学校の、俺と同じように学校に来て、授業受けて、さわいで……。
なんで自殺なんかしたんだろ。
そんなに暗い奴でもないし、友達が出来ないような雰囲気ではない。むしろ学校生活を謳歌してそうな、そんな奴だ。授業だって、こんなに真剣な顔して聞けている。なのに、何故。
「片倉ぁ、ちゃんと話聞いとるかあ?」
はっと気づくとクラス全体の視線が俺に集まっていた。思わず、赤面する。
「はい、きーてます」
「そうか。テストも近いのにぼーっとしすぎだぞ」
それだけ言うと、先生は再び授業に戻った。
「あーあ、怒られてやんの」
温がつんと俺の肩を小突いた。うるさい、という返事の変わりに、さきほどノートの端に殴り書いた言葉をぶっきらぼうに消す。
「大丈夫だよ、お前文系だろ?」
調子を変え、温が肩をたたく。無視するわけにもいかず、消した上にまた新たな文字を羅列した。
『そうだけど、何で分かったん?』
そんなことは、一言も言っていない。自分に関することは名前以外、温には言っていないはずだ。
「そんな顔してる」
『なんだよ、それ』
「でも、あるだろ? あ、こいつ文系っぽい顔してる、とかさ」
『あるある。でも時々はずれる』
「そうそう。いるよな、そんな奴」
『俺はモロ文系の顔だったわけか』
「おう。で、まあ文系だったらここらへんの化学は聞かなくても大丈夫だ」
『本当?』
「だって、覚えるだけだろ? あんた。これっぽっちも理解してないし、する気もない」
『ばれたか。化学なんて、はじめから真面目にうけてない』
「そうだな。どーせ受験に使わんもんな。文系は」
『温は理系だったの?』
「いや、文系。理系とか、めんどいし」
『めんどい? じゃあやろうと思えばできたん?』
「さあ。部活もあったし」
『何部?』
「サッカー」
サッカー部。たしか俺の入学する二年前に廃部になった。升田がさんざん、入りたいとか言っていた気がする。俺も、あったら入ってたかも。
「片倉!」
温が急に声をはりあげ、教壇まで走った。黒板を見ると、温の姿が先生の姿と重なる。先生の背中から、温の左手が生えている状態。ああこれが、この前言ってたすりぬけている状態か。なかなか気持ち悪いな。
「お前はどうして授業をうけている?」
とっぴな発言に、俺はポカンと温を見た。彼は俺の答えをまたずして、続けた。
「そんな所で座って、文字書いて、なにが楽しい? こんな」
黒板をパンとたたく。音はしない。
「意味の分からない式を写し取って、覚えて、テストにそなえて、終れば忘れる。アンモニアが何だ、日常生活でこんな反応式、まったく役にたちやしないさ!」
さらに彼は勢いをつけ、教卓の上へと立ち上がった。
「こんな教室にいて、意味はあるのか? 狭い空間に人数そろえて、やれ個性だ、自分の意見だとか大人は言ってんのに、こんな所で何が育つ? 同じような生活を送って、同じ服着て、髪型まで規制されて、個性なんて育つか?」
ぱっと教卓をけり、前の机の上に着地する。
「こいつも、こいつも、こいつも、こいつも! 淡々とノートとってやがる。たいして勉強なんかしないくせに、とり方までほら、黒板そのまんま!」
さらに彼は器用に机から机へ、飛び石を渡るように教室中を歩き回った。
「変だよな、片倉? このきめられた四十五分間、チャイムとチャイムの間はお前ら、そこから動けないんだぜ。みんなどっか行くなんてこと、頭にないんだ。席に座ってんのが当然のこと! 小学生でもできる。小学校の頃から俺らは支配されてんだよ。大人の意にかなった人間に育っていくわけだ。あーあ、それで自分の意思とか、なくなっていくんだよな。決められた時間に決められたことして、周りも同じようなことして。教壇にいる大人の猿マネじゃねえか」
温が右隣の机から、俺の机へと飛び移った。筆談のあとの残るノートをくしゃりとふまれる。目の前に、上靴が見えた。
「片倉、俺は自由だぜ。テストも授業も、何もないんだ」
タッ、と机を蹴ったかと思うと、温は姿を消した。いきなり、どうしたんだ。うまく反応もできないまま、俺は見事に黒板をまっすぐに見つめ静止していた。ただ、彼のはき散らしていった言葉が、妙に頭に響いてきた。
『片倉、俺は自由だぜ。テストも授業も、何もないんだ』
テストも授業もなくなったら、どうする。チャイムが鳴らなかったら、どうする。席たって、何処へ行く。教室がなかったら、生徒がいなくてどうする。テストにそなえて、何が悪い。それは、俺だって時々嫌になることはある。窓の外を見て、まぶしいほどの晴天が、うらめしいことだって何回も経験した。だけどそこでなげだしたら、後々恐ろしいことになるのは目に見えているのだ。中学の時の、数人不真面目なクラスメイトの顔がさっとうかんでは消える。俺は彼らのような向こう見ずな勇気はない。
『片倉、俺は自由だぜ。テストも授業も、何もないんだ』
温の言葉はただの皮肉とは思えない。
温、何思ってたんだ? まるで、当たり散らされたかのような。通り魔にあった気分って、こんな感じなのかな。教室に入ってきたときは別段、普段と変わった風はなかったのに。わけが分からない。窓の外をみやると、一時間前にでていた太陽は、厚い雲に隠れていた。
クラスで何人か風邪ひきがでていたので換気のため窓を開けていた。きっと窓際の子は寒いのだろうとぼんやり視線を向けていたそこに、ふらりとあらわれた影。突然のことにびっくりして、はっきりその陰に焦点をあわせると、違いない、温が立っていた。俺が目を丸くさせて凝視すると、彼はにやりと笑って教室に入ってきた。そして、黒板を見る。
「アンモニアの性質は無色の刺激臭で……」
先生がチョークで板書する手を目で追い、彼は口を開いた。
「……水に溶けやすい気体だな。中学ん時やったよな、みんな?」
温の声が見事に先生の声と重なった。思わず噴出しそうになるのをこらえる。口調もちゃんと真似てあった。そして、先生が化学式を書き始めたのを見て、ああ、と顔をしかめる。
「先生、間違ってる。そこはNH₄⁺だって……あ、よしよし、気づいたか」
カラカラと笑う温に、視線をむける。そして、ちょっとクラス内を見回した。みんな黒板を見つめたり、机に視線を落としているだけ。いつもの、授業風景だ。これだけ温が声をだしているのに、気づいている、いや、聞こえているのは俺だけらしい。というかコイツ、何でここにいるんだ。
「片倉」
気づけば温が俺の机の横に立っていた。反射的に彼を見上げると、温は横の黒板を見ていた。周囲の視線を思い出し、ぱっとノートに目をふせる。
「テストなんだ。どうりでお前来ないし、残ってる奴が多いと思った」
どうやら黒板の字を読んだらしい。声で話しかけるわけにもいかず、俺はノートの端っこにさっと走り書きをした。
『どうしたんだよ?』
指でその文をポンポンとたたく。不自然な行為ではないはずだ。一瞬の間をおいて、頭の上から答えがふってきた。
「久しぶりの教室も、いいじゃん?」
はあ。ため息を一つ。そんなの、放課後人がいなくなった時でもいいじゃないか。わざわざ肝を冷やすようなこと、しないでくれよ。
「最近来ないから片倉のことが気になった、なんてこと言うと思ったか?」
笑い混じりの声。
『誰が思うか、馬鹿。俺もいそがしいんだ』
「テスト勉強でか?」
『おう』
「ふうん」
彼は言ったきり、何も言葉を発しなかった。しばらくして様子を伺うと、真剣な面持ちで黒板を見ていた。その横顔に、思わずはっとさせられる。
温も、ただの生徒なのだ。幽霊だが、元はここの学校の、俺と同じように学校に来て、授業受けて、さわいで……。
なんで自殺なんかしたんだろ。
そんなに暗い奴でもないし、友達が出来ないような雰囲気ではない。むしろ学校生活を謳歌してそうな、そんな奴だ。授業だって、こんなに真剣な顔して聞けている。なのに、何故。
「片倉ぁ、ちゃんと話聞いとるかあ?」
はっと気づくとクラス全体の視線が俺に集まっていた。思わず、赤面する。
「はい、きーてます」
「そうか。テストも近いのにぼーっとしすぎだぞ」
それだけ言うと、先生は再び授業に戻った。
「あーあ、怒られてやんの」
温がつんと俺の肩を小突いた。うるさい、という返事の変わりに、さきほどノートの端に殴り書いた言葉をぶっきらぼうに消す。
「大丈夫だよ、お前文系だろ?」
調子を変え、温が肩をたたく。無視するわけにもいかず、消した上にまた新たな文字を羅列した。
『そうだけど、何で分かったん?』
そんなことは、一言も言っていない。自分に関することは名前以外、温には言っていないはずだ。
「そんな顔してる」
『なんだよ、それ』
「でも、あるだろ? あ、こいつ文系っぽい顔してる、とかさ」
『あるある。でも時々はずれる』
「そうそう。いるよな、そんな奴」
『俺はモロ文系の顔だったわけか』
「おう。で、まあ文系だったらここらへんの化学は聞かなくても大丈夫だ」
『本当?』
「だって、覚えるだけだろ? あんた。これっぽっちも理解してないし、する気もない」
『ばれたか。化学なんて、はじめから真面目にうけてない』
「そうだな。どーせ受験に使わんもんな。文系は」
『温は理系だったの?』
「いや、文系。理系とか、めんどいし」
『めんどい? じゃあやろうと思えばできたん?』
「さあ。部活もあったし」
『何部?』
「サッカー」
サッカー部。たしか俺の入学する二年前に廃部になった。升田がさんざん、入りたいとか言っていた気がする。俺も、あったら入ってたかも。
「片倉!」
温が急に声をはりあげ、教壇まで走った。黒板を見ると、温の姿が先生の姿と重なる。先生の背中から、温の左手が生えている状態。ああこれが、この前言ってたすりぬけている状態か。なかなか気持ち悪いな。
「お前はどうして授業をうけている?」
とっぴな発言に、俺はポカンと温を見た。彼は俺の答えをまたずして、続けた。
「そんな所で座って、文字書いて、なにが楽しい? こんな」
黒板をパンとたたく。音はしない。
「意味の分からない式を写し取って、覚えて、テストにそなえて、終れば忘れる。アンモニアが何だ、日常生活でこんな反応式、まったく役にたちやしないさ!」
さらに彼は勢いをつけ、教卓の上へと立ち上がった。
「こんな教室にいて、意味はあるのか? 狭い空間に人数そろえて、やれ個性だ、自分の意見だとか大人は言ってんのに、こんな所で何が育つ? 同じような生活を送って、同じ服着て、髪型まで規制されて、個性なんて育つか?」
ぱっと教卓をけり、前の机の上に着地する。
「こいつも、こいつも、こいつも、こいつも! 淡々とノートとってやがる。たいして勉強なんかしないくせに、とり方までほら、黒板そのまんま!」
さらに彼は器用に机から机へ、飛び石を渡るように教室中を歩き回った。
「変だよな、片倉? このきめられた四十五分間、チャイムとチャイムの間はお前ら、そこから動けないんだぜ。みんなどっか行くなんてこと、頭にないんだ。席に座ってんのが当然のこと! 小学生でもできる。小学校の頃から俺らは支配されてんだよ。大人の意にかなった人間に育っていくわけだ。あーあ、それで自分の意思とか、なくなっていくんだよな。決められた時間に決められたことして、周りも同じようなことして。教壇にいる大人の猿マネじゃねえか」
温が右隣の机から、俺の机へと飛び移った。筆談のあとの残るノートをくしゃりとふまれる。目の前に、上靴が見えた。
「片倉、俺は自由だぜ。テストも授業も、何もないんだ」
タッ、と机を蹴ったかと思うと、温は姿を消した。いきなり、どうしたんだ。うまく反応もできないまま、俺は見事に黒板をまっすぐに見つめ静止していた。ただ、彼のはき散らしていった言葉が、妙に頭に響いてきた。
『片倉、俺は自由だぜ。テストも授業も、何もないんだ』
テストも授業もなくなったら、どうする。チャイムが鳴らなかったら、どうする。席たって、何処へ行く。教室がなかったら、生徒がいなくてどうする。テストにそなえて、何が悪い。それは、俺だって時々嫌になることはある。窓の外を見て、まぶしいほどの晴天が、うらめしいことだって何回も経験した。だけどそこでなげだしたら、後々恐ろしいことになるのは目に見えているのだ。中学の時の、数人不真面目なクラスメイトの顔がさっとうかんでは消える。俺は彼らのような向こう見ずな勇気はない。
『片倉、俺は自由だぜ。テストも授業も、何もないんだ』
温の言葉はただの皮肉とは思えない。
温、何思ってたんだ? まるで、当たり散らされたかのような。通り魔にあった気分って、こんな感じなのかな。教室に入ってきたときは別段、普段と変わった風はなかったのに。わけが分からない。窓の外をみやると、一時間前にでていた太陽は、厚い雲に隠れていた。
