時計を見ると、十二時五十五分をさしていた。もう今日の昼休みは使えない。非常勤だから、放課後残っていることも少ないだろう。まずは、彼の行動を把握しよう。
なんだかちょっと、事が大きくなってきた。あまり普段接触しない先生にまで話をわざわざ聞きに行くという事実に、ふとそんな考えが頭をよぎったが、あっけないほどすんなりとチャンスはやってきた。
「杉岡先生? なら俺、今日質問しにいくけど」
五時間目の体育の終わり、体育館から教室への帰り道で、何気なく孝樹に杉岡先生の話題をふると、意外や、意外そんな返事が返ってきたのだ。
「何で? それなら浜崎にききゃいいやん」
先生の名前を呟いて、そう言えば今日の単語テストの勉強もしてないな、とふと思い出した。
「いや、去年杉岡先生ちょっと習ったやん? あん時にさあ、俺あの先生まじ良いっち思ったんよね」
「おう」
「浜崎の授業俺好かんけさ、頼んで個人的に英語見てもらいよると」
「へー、えらく勉強熱心やね、珍しい」
思ったことをそのまま口にすると、彼は「うるせえ」と背中をどついてきた。
高校二年生ともなると、受験を意識してこんな事をしだす奴が現れるのか。面談があっても模試があってもやっぱりまだまだ遠い話、と思っていたが流石にここまで身近な所にそんな奴がいたら、少し焦りがでてくる。
「……お前さあ、面談なんか言われた?」
俺も何か、始めた方が良いのかな、ぼやっとそう思っていた時、急にぽつりと孝樹がうかがうように低い声をだした。
「俺? うー、なんか一つレベル低い大学やめろっち言われて、まあ、あとは数学やれっち言われた」
「そっかあ」
悩むようにうつむいた孝樹を見て、何となく孝樹の言いたいことが分かった。ちらりと、面談の順番表が思い浮かぶ。
「お前、今回二番やったやろ」
真正面から成績を聞くなんて、さすがの俺でもきっと孝樹にしかできない。距離感がつかめていないから、こんな(きっと)デリケートな問題にも、急に踏み込むことができるのだ。孝樹に対しては何を言っても「言いすぎた」と思うことがないから、不思議だった。
「うん」
とは言っても、向こうも向こうでいつもの端々まで気使いをちりばめた言葉を、俺の前では(二人きりで話す時には)するりとぬぎすててしまう。むき出しの言葉同士の、ぶつかり。まあ、お互い様って所だ。
「で、何か言われた?」
「……お前は受験からにげとるっち言われた」
「どういうこと?」
「なんか俺、確かにガチ受験もしてみたいんやけど、指定校推薦もいいなっち思うんよね」
指定校推薦であったら、面接と書類選考だけで、確実に大学にはいれるとのうわさだった。人気のある学校は校内での競争率が激しくなるため、校内での評定平均値が高ければ高いほど有利であり、孝樹も俺も、指定校推薦であればほぼ希望の大学に、楽に入れることが確実な位の評定はおさめていたのだ。でも指定校推薦を選ぶこと自体が、受験からの「逃げ」の姿勢だと言われている部分もある。
「それわかる。だって何か、せっかくテストで良い点数とったのに、もったいないもんね」
この学校には生徒数よりも多くの指定校推薦の枠が、全国の大学から舞い込んでくる。それを目当てに入学するやつもいるほどで、大抵の大学は一般受験でも真面目にやっていればそんなに頑張って受験勉強しなくても合格できるような所だが、中には数校、それなりに有名な大学の推薦もあった。そういう推薦を、一般受験では少し偏差値が足りないくらいの生徒が活用する――……それ以上の実力がある生徒は、一般受験をしろというのが、この学校の方針だ。
「そうっちゃあー、一般受験っち、バクチやん? それなら今この継続的に頑張っとる姿を評価してほしいんちゃ」
「うん、まあ言うほど頑張っとらんけどね」
「あは、確かに」
二人同時に、いつもの馬鹿笑いとは違う、少し遠慮がちに苦笑いをした。俺と二人でいる時のこいつは、本当に落ち着いている。
「しかし俺たちようここまで成績あがったよなあ」
「それ、言える。昔は……ねえ?」
中学時代、俺たち二人の成績は対して良くも悪くもなく、平均をこえるかこえないかでわーわー騒ぐ位だった。しかし、高校に入学したのを転機に、俺たちは(そんなに努力もしていないと思うのに)ぐんぐんと伸びていったのだ。
「校内一番とか、そーとー頭良いっちおもっとったけど、案外簡単にとれたし」
「言うねえ」
「だって、なんかあっけなかったんやもん」
「ま、中学ん時は騒ぎまわってただけやったもんな」
「やねえ」
たぶん、やろうと思えば中学でも同じことはできたのだろう。ただ、やる気がなかっただけの問題か。
「この才能を中学時代に開花させていれば、高校受験失敗せんかったかなあ」
ぽつりと孝樹がため息混じりの台詞を吐く。
「余裕やろ。もったいないことしたね」
力なく笑いかけると、孝樹は一瞬驚いたようにぱっとこちらを見た。それに「ん?」と首をかしげると、彼は脱力するようにへにゃりと笑い、
「そうやね」
と軽くうなずいた。
うわ、この表情久しぶり。
その顔に、ちょっとびっくりして彼を見る。多分、こいつのこんな笑い方を見るのは中学以来の事だ。そう言えばあの頃は、今の俺と勇みたいに、こいつとも妙な距離を測ることなく過ごしていた。こんな変な関係になったのって、いつからなんだろう?
「……話し戻るけど、お前、杉岡先生に何か用事あるん?」
「あ、うん、ちょっと」
突然の切り代えに、少し遅れをとってしまったが、コクコクと首を縦に振る。
「なんか用事あんなら一緒に行くか? 俺今日はちょっとしか聞かんし」
そういった彼に笑顔で大きく頷くと、彼もうん、と浅く頷いた、瞬間。
「どーん!」
突然、横にいた孝樹が視界から消え、代わりに長野がふっと入ってきた。
「いってぇ、長野!」
タックルされた孝樹は前方に見事ふっとび、勢い余って二、三歩先に四つん這いになっている。その姿を見て、長野はにやにや笑いながら、立ち止まっていた。すげえ、たちの悪い絡み方だな。
しかし孝樹はこんなこと慣れっこである。そのまま首だけ振り返り長野をにらむと立ち上がり、そのままの姿で後ろ歩きをし始めた。そのまま、ずんずん長野のほうへ戻っていく。
「ぶはっ! きもっ!」
その様子を見た長野と俺はもちろん、周囲にいたクラスメイトまで爆笑しはじめた。こいつのまわりって本当、笑いが絶えないな。てか、さっきまで真面目に話てたのに、態度の切り替え早すぎだろ。
そのまま成り行きを見ていたい気持ちもあったが、次の時間の宿題を少し残していたな、と思いだし、俺は笑いのこだます廊下から、すいと一人教室に足を踏み入れた。
なんだかちょっと、事が大きくなってきた。あまり普段接触しない先生にまで話をわざわざ聞きに行くという事実に、ふとそんな考えが頭をよぎったが、あっけないほどすんなりとチャンスはやってきた。
「杉岡先生? なら俺、今日質問しにいくけど」
五時間目の体育の終わり、体育館から教室への帰り道で、何気なく孝樹に杉岡先生の話題をふると、意外や、意外そんな返事が返ってきたのだ。
「何で? それなら浜崎にききゃいいやん」
先生の名前を呟いて、そう言えば今日の単語テストの勉強もしてないな、とふと思い出した。
「いや、去年杉岡先生ちょっと習ったやん? あん時にさあ、俺あの先生まじ良いっち思ったんよね」
「おう」
「浜崎の授業俺好かんけさ、頼んで個人的に英語見てもらいよると」
「へー、えらく勉強熱心やね、珍しい」
思ったことをそのまま口にすると、彼は「うるせえ」と背中をどついてきた。
高校二年生ともなると、受験を意識してこんな事をしだす奴が現れるのか。面談があっても模試があってもやっぱりまだまだ遠い話、と思っていたが流石にここまで身近な所にそんな奴がいたら、少し焦りがでてくる。
「……お前さあ、面談なんか言われた?」
俺も何か、始めた方が良いのかな、ぼやっとそう思っていた時、急にぽつりと孝樹がうかがうように低い声をだした。
「俺? うー、なんか一つレベル低い大学やめろっち言われて、まあ、あとは数学やれっち言われた」
「そっかあ」
悩むようにうつむいた孝樹を見て、何となく孝樹の言いたいことが分かった。ちらりと、面談の順番表が思い浮かぶ。
「お前、今回二番やったやろ」
真正面から成績を聞くなんて、さすがの俺でもきっと孝樹にしかできない。距離感がつかめていないから、こんな(きっと)デリケートな問題にも、急に踏み込むことができるのだ。孝樹に対しては何を言っても「言いすぎた」と思うことがないから、不思議だった。
「うん」
とは言っても、向こうも向こうでいつもの端々まで気使いをちりばめた言葉を、俺の前では(二人きりで話す時には)するりとぬぎすててしまう。むき出しの言葉同士の、ぶつかり。まあ、お互い様って所だ。
「で、何か言われた?」
「……お前は受験からにげとるっち言われた」
「どういうこと?」
「なんか俺、確かにガチ受験もしてみたいんやけど、指定校推薦もいいなっち思うんよね」
指定校推薦であったら、面接と書類選考だけで、確実に大学にはいれるとのうわさだった。人気のある学校は校内での競争率が激しくなるため、校内での評定平均値が高ければ高いほど有利であり、孝樹も俺も、指定校推薦であればほぼ希望の大学に、楽に入れることが確実な位の評定はおさめていたのだ。でも指定校推薦を選ぶこと自体が、受験からの「逃げ」の姿勢だと言われている部分もある。
「それわかる。だって何か、せっかくテストで良い点数とったのに、もったいないもんね」
この学校には生徒数よりも多くの指定校推薦の枠が、全国の大学から舞い込んでくる。それを目当てに入学するやつもいるほどで、大抵の大学は一般受験でも真面目にやっていればそんなに頑張って受験勉強しなくても合格できるような所だが、中には数校、それなりに有名な大学の推薦もあった。そういう推薦を、一般受験では少し偏差値が足りないくらいの生徒が活用する――……それ以上の実力がある生徒は、一般受験をしろというのが、この学校の方針だ。
「そうっちゃあー、一般受験っち、バクチやん? それなら今この継続的に頑張っとる姿を評価してほしいんちゃ」
「うん、まあ言うほど頑張っとらんけどね」
「あは、確かに」
二人同時に、いつもの馬鹿笑いとは違う、少し遠慮がちに苦笑いをした。俺と二人でいる時のこいつは、本当に落ち着いている。
「しかし俺たちようここまで成績あがったよなあ」
「それ、言える。昔は……ねえ?」
中学時代、俺たち二人の成績は対して良くも悪くもなく、平均をこえるかこえないかでわーわー騒ぐ位だった。しかし、高校に入学したのを転機に、俺たちは(そんなに努力もしていないと思うのに)ぐんぐんと伸びていったのだ。
「校内一番とか、そーとー頭良いっちおもっとったけど、案外簡単にとれたし」
「言うねえ」
「だって、なんかあっけなかったんやもん」
「ま、中学ん時は騒ぎまわってただけやったもんな」
「やねえ」
たぶん、やろうと思えば中学でも同じことはできたのだろう。ただ、やる気がなかっただけの問題か。
「この才能を中学時代に開花させていれば、高校受験失敗せんかったかなあ」
ぽつりと孝樹がため息混じりの台詞を吐く。
「余裕やろ。もったいないことしたね」
力なく笑いかけると、孝樹は一瞬驚いたようにぱっとこちらを見た。それに「ん?」と首をかしげると、彼は脱力するようにへにゃりと笑い、
「そうやね」
と軽くうなずいた。
うわ、この表情久しぶり。
その顔に、ちょっとびっくりして彼を見る。多分、こいつのこんな笑い方を見るのは中学以来の事だ。そう言えばあの頃は、今の俺と勇みたいに、こいつとも妙な距離を測ることなく過ごしていた。こんな変な関係になったのって、いつからなんだろう?
「……話し戻るけど、お前、杉岡先生に何か用事あるん?」
「あ、うん、ちょっと」
突然の切り代えに、少し遅れをとってしまったが、コクコクと首を縦に振る。
「なんか用事あんなら一緒に行くか? 俺今日はちょっとしか聞かんし」
そういった彼に笑顔で大きく頷くと、彼もうん、と浅く頷いた、瞬間。
「どーん!」
突然、横にいた孝樹が視界から消え、代わりに長野がふっと入ってきた。
「いってぇ、長野!」
タックルされた孝樹は前方に見事ふっとび、勢い余って二、三歩先に四つん這いになっている。その姿を見て、長野はにやにや笑いながら、立ち止まっていた。すげえ、たちの悪い絡み方だな。
しかし孝樹はこんなこと慣れっこである。そのまま首だけ振り返り長野をにらむと立ち上がり、そのままの姿で後ろ歩きをし始めた。そのまま、ずんずん長野のほうへ戻っていく。
「ぶはっ! きもっ!」
その様子を見た長野と俺はもちろん、周囲にいたクラスメイトまで爆笑しはじめた。こいつのまわりって本当、笑いが絶えないな。てか、さっきまで真面目に話てたのに、態度の切り替え早すぎだろ。
そのまま成り行きを見ていたい気持ちもあったが、次の時間の宿題を少し残していたな、と思いだし、俺は笑いのこだます廊下から、すいと一人教室に足を踏み入れた。
