「俊弥、ここわからん」
俺と恵子のことはあまりさわがれずに幕を閉じた。断っていなかったら、三日は周囲がうるさかっただろう。そういう意味でも、断ってよかったかもしれない。次の日から、恵子はしばらくひきつった笑みとどこかよそよそしい態度を見せた。それでも俺が今まで通りにふるまっていると、意図が通じたようで、表面上は昔の恵子に戻ってくれた。あくまでうわっつら、内心ではどう思っているのかはわからないけど。でも、俺にできるのはここまで。
「升田ぁ、俺化学は無理だって」
今朝、担任が期末テストまであと二週間という現実をクラスにつきつけてきた。温のことでテストなどさっぱり存在を忘れていた俺は青ざめ、逆に温のことが頭からスッキリ排除された。一応の点数は毎テストごとにあげていたので、それをおとすわけにもいかない。今日から帰って、猛勉強だ。
「だってわからんもん」
「俺に聞くなら文系教科にしろ。理系教科、とくに数学は禁止!」
「ええ?」
「ええ、じゃない。俺文系、お前理系。ほら、他の人に聞きなさい。あ、小川、ちょっとこの馬鹿が化学教えてくれって!」
他人に升田をおしつけ、かばんに教科書類をつめこむ。今日は世界史と生物をやるのだ。
「俊ちゃーん! かえろ!」
「おう、勇、ちょっとまって!」
ちょうど廊下から元気の良い勇の声がきこえてきた。かばんを閉め、肩に担ぐ。ちょっとクラス内を見回すと、みないくつかのグループに分かれ机の周りに小島を作っていた。バイバイって、言わなくても、いっか。何も言わずそのまますっと、教室を出た。
「俊ちゃん」
「何?」
廊下で待っていた勇と並んで歩き出す。廊下は生徒でごったがえしており、騒々しかった。
「変な噂、たっとるよ」
勇が少し声をひそめて言う。その言い方からして冗談でないと判断した俺も開きかけた口をつぐんだ。周囲を見回した俺は勇をみて、あごをしゃくった。
「外でてから」
廊下には同級生がいる。きっと聞かれたらまずい話だろう。そのまま無言で歩き、校門を出たところで勇はやっと口を開いた。
「変な噂って、俊ちゃんのことなんやけど」
「俺?」
「そ。俊ちゃんここんとこ俺とかえらなかったっしょ?」
「うん」
「で、俊ちゃんさ、赤間恵子のこと、ことわったやん?」
「なんだ、しっとったん? 俺今から大告白結果報告しようと思ったのに」
「けっこう女子がさわいどった。女子ん中では有名な話みたい」
「まじか」
ということは恵子の奴、いや、ばらしたのは恵子の友達だな。なんでみんなそんなに、人の色恋沙汰に首を突っ込みたがるのだろう。
「てか勇、お前本当に情報通だな」
女子の中でのうわさって、男子にはなかなかまわってこない。それなのに、勇はたいていこうやって、男女問わず学年中の噂を網羅していた。
「森田から聞いた。女子で一番の情報通はあいつだかんね」
教室で、俺が帰る準備をしている途中、勇と森田が仲良さそうに話している情景が、うかんでくる。そっか、だから勇、森田とあんなに仲良くしてたんだ。
「で? それがどうしたん?」
「おう、で、何で俊ちゃんが赤間恵子をふったか一部で論争になってな。ほら、赤間恵子ってすごいってわけじゃないけど、まあつき合ってもいいかなってぐらいの人気はあるやん? で、俊ちゃんのほうもそんなに悪い感じでもなかったし」
「悪い感じでもなかったてぇか……」
「ほら、俊ちゃんって仲良くなった人の事を他人に話すときすっげえその人に夢中っていうか、幸せそうな感じがするんよ。あいつと友達になれて本気で良かった! みたいな。気付かんかった? 自分で」
「え!? 俺そんな風か?」
「うん。で、同性なら良いけど異性だったら『ああ、気があるんかな』ってな話し方なわけ。モロな。俺は付き合い長いからこのことよく分かっとるけど、やっぱり他の人から見たら赤間のこと話すお前見て『ああ、好きなんかなあ』とは思っとったんやない? 皆」
「ふーん」
全然気付かなかった。俺ってそうなんだ。時々こういった瞬間に、自分より他人のほうが自分のことをよく知っているんじゃないかと思う。
「で、問題はそこから。周りからどうみても相思相愛ラブラブに思われていたお前らが、いや、お前がつき合うのを断った」
「だって、好みやないし」
「だろうね。で、赤間の告白を断ったということは、もうすでに片倉俊弥には彼女がいるのではないか! という話に……」
「は!?」
「……なっとるのだよ」
「ありえねえ、何でそんな噂」
「だよなあ。お前に限ってそれはないと俺は思った」
「てかいたらお前にはいっとるよ」
「やね。ま、人の噂、女子のよく飛ぶ妄想ってヤツだ」
「妄想でも噂でも、ひろまったらみんな信じるしな」
「それ! でも問題なのがさ、根拠がないわけじゃねえんだよ」
「は? 何で?」
「ちょっと前にさ、うちのクラスの陸上部が教室に忘れモンとり帰った時があったんよ、結構遅くに。そん時、俊ちゃんのクラスの電気がついてたんだと。めずらしいと思ってたら、話し声、聞こえるわけよ。まあ、誰か二人残って話しよるんやろうなあとか思ってとりきたもん探しよったらしい。したら、また明日っち言ってお前が走っていくの見たんだって。あ、二人で帰らないんだって思ってちょっとしてからその子も帰ろうとした。で、廊下でてお前のクラス見たらちょうど電気が消えるとこやったんやけど、そのあと生徒がでてこんかったっち。で、怖くなって走って帰ろうとしたら、階段のところで誰か先生が後ろから声かけたって。でもとりあえず怖かったから、無視して逃げたんだって」
淡々と話す勇の横で、俺は内心冷や汗をかいていた。何だ、それ。もろ温と初めて話した日のことじゃねえか。
「ほ、ほお? で、何でそれが俺に彼女いる説につながるわけ?」
目の前を工業用の大型トラックが通り過ぎていく。排気ガスをもろに吸い込んでしまい、咳き込んだ。
「大丈夫?」
「おう」
咳払いをして、口を覆っていた手を離す。今は咳どころじゃない。
「続きがあるんよ。お前が赤間恵子をふった日な」
ちょうどそこでバスが来て、俺と勇は乗り込んだ。ステップに足を引っ掛け転びそうになった勇を、ぱっと支えると、彼は「ありがと」と笑った。家と学校の距離は時間に直して約一時間。途中に洞海湾をはさむため、バス、渡船、バスという乗り換えにつぐ乗り換えの通学路だ。二人で座れる席を探したが、空席はなく、自然とバスの前方へ行き、つり革をもつ。
「で、赤間恵子をふった日。お前赤間が屋上から降りてきてもまだ屋上おったろ? そこをまた、俺のクラスの女子二人がきいたってんだよ」
「話し声?」
「ああ。で、失礼ながら二人は屋上のすぐ入り口までお前の様子をうかがいに行ってな。貯水タンクの上にお前の姿は見えたがどうも話している相手の姿が見えないし、声もよく聞き取れなかったんだって。で、片方は女だった、片方は男だったって主張しとる」
当然のように、次の話も温と会った時のことだった。間違いない、俺がそのとき話していたのは温で、彼女達二人には俺と背中合わせの彼の姿が見えなかったから、俺一人がタンクの上にいるように見えたのだろう。話し声が聞き取れないのは、当然だ。彼女達には俺の声しか聞こえていなかったはずだから。
「だけど、それがなんで彼女説に?」
話しているだけなら、何も彼女というわけでもないだろう。首をかしげ勇を見ると、勇は甘いな、といって首を振った。
「こっからが女子お得意の妄想のみせどころってやつだよ。前の話と後ろの話をくっつけて『もしかしたら彼女説』をかためていっとった。見事やったぞ、聞いてるこっちが本気でそう思えるほどやったし」
「もったいぶるなよ。で?」
「うん。まあ、片倉俊弥には彼女がおった。二日ともその彼女と話しよった。あ、一部ではわざと赤間恵子の告白を彼女にきかせたっち言う片倉腹黒説もでまわっとるらしいぜ」
「え、俺ってそんなに見える?」
「うんや、全然。でも何でも俊ちゃんズバっち言うけ、怖く見える人には怖く見えるんやない? まあ、おいといて。一つ目のほうで先生に最後に声かけられたって言ったろ?」
「うん、怖かったから逃げたって」
「それ。で、そこから女子の間では片倉の彼女は先生じゃないかってことになった」
「むっ、無茶言うなよ! 笑える、それ」
勇が真面目な顔をしてとんでもないことを言うものだから、俺はふきだした。しかし、勇はいたって真面目で、俺の言葉にうなずいただけだった。
「本当に無茶苦茶。で、二つ目の話をそこでもってきて、誰か特定しようとした時にな、でた名前が遠藤と桐原と柏木」
「桐原ぁ!?」
俺は先ほどよりも盛大に噴出した。桐原は数学の教師でとにかく元気のよい、いわゆるおばちゃん先生だ。
