かくして、放課後となる。噂はだいぶんひろまっているのかいないのか、やたらクラスメイトの視線を感じたし、普段よりはやく教室に人がいなくなったのはきっと、俺の気のせいではないと思う。
四時三十分、教室は完全に俺一人となった。
恵子のかばんは……ある。俺の斜め後ろの席においてあった。帰ってないってことは、屋上にいるってことだ。冗談じゃないんだ。午後の授業中ずっと考え、俺は断ると決めていた。好きでもないのにつき合って、気を使うのはごめんだ。それに恵子にも悪いだろう……と理由もつけてみる。よし、断ろう。
ベランダから外に出て、屋上へ向かう。屋上へ上る方法は二つあった。廊下から行く道と、ベランダからの道。俺はベランダからしか、行かない。
「恵子」
恵子は貯水タンクの上に座っていた。あれ? そこは温の場所じゃないのか? 俺を見つけると彼女はちょいちょいと手を振り、俺を近くに来させようとする。俺は素直に従い、貯水タンクの下まできた。
「あがっておいでよ」
「うん」
恵子はガムをかんでいた。ブルーベリーの香りが鼻腔をくすぐる。横に座るのははばかられ、俺は彼女と背中合わせになった。
「俊弥」
「何?」
恵子が背中に寄りかかってくる。温かい。
「よんだ理由、わかっとるよね?」
「好きです、つき合ってくださいっちやつ?」
初めてこんな所にのぼった。けっこう眺めが良い。山の裾野に広がる小倉の街(ビルとビルの間に小倉城がひょっこりとのぞいていた)と工場群、そしてその先の、海。風が強いせいか、今日の空気は澄んでいて、海の向こうに白い関門海峡がはっきりと見えた。屋上というだけでも景色の見え方が全然違うのに、わずか三メートルか四メートル、貯水タンクの上にのぼったら、さらに違う。今人が屋上の入り口にやってきたら、きっと小さく見えるのだろう。こうして温も、俺のことを見下ろしていたのだろうか。ブラブラと、足を揺らしてみた。
「そう。だから返事、頂戴?」
今背後で恵子はどんな顔をしているのだろうか。もっと攻撃的な言い方をされると思っていた。やっぱり恵子も女の子なんだなって、当たり前か。
「ごめん。俺、お前のことそういう風に見てない」
きっぱりと一言。余計なことは言わなかった。言っても、余計だから。
「そう」
恵子もきっぱりと一言、余計なことは言わなかった。俺たちはこういう所で気があっているのだろう。
「一つだけ、聞いていいか?」
「何?」
昼休みから、ずっと疑問に感じていたこと。
「何で俺の事、好きなん?」
頭上で烏がかあ、と鳴いた。そう言えば、年に一度学校の屋上にたくさんの烏が集まってくる時が、あったっけ。
「それ普通、聞く?」
ふった後だよ? と恵子が乾いた笑い声をもらした。でも、いつもの恵子の笑い方じゃ、ない。
「……まあ、そうだね」
少しの間をおいて(その間にさっきの烏が四回鳴いた)静かに恵子が口を開いた。別に、嫌なことを言われるわけでもないのに、なんとなく緊張して、俺の手にはじっとりと汗がにじんでいた。
「ちょっとストレートできついけど、片倉の言葉にはうそがないから」
とたん、ポンと背中が軽く一押しされたかと思うと、ふいに人の温度が背中からきえた。グワンと貯水タンクを蹴る音、続いて軽い着地音。
「十点! 恵子選手、お見事」
「馬鹿、下の名前じゃなくて、赤間選手だろ」
タンクの上からつっこむと、恵子はふりむかずに歩き出した。その背中を、目で追う。今走りよっていったら、なぐられるかも。恵子は教室へ下りる階段の前で足をとめた。
「片倉!」
恵子の良く通る少し低い声。
「何?」
「友達、ならいいでしょ」
「もちろん」
「ならよかった」
恵子は振り向き、俺に手を振る。
「あんた今日人生の大半損したよ、馬鹿!」
笑いながら、彼女は走っていった。俺は元のように体を戻し、彼女に背を向けた。
強いなあ、恵子は。ふられてあれか。俺だったらきっと、何も言えずに去るのがやっとだろう。人生の大半損した、か。たしかに恵子にはそのぐらいの価値があるのかもしれない。
背中を、風が通り過ぎていく。少し寒い。でもここから降りる気はなかった。教室に行ったら、恵子がいるだろうし。流れていく雲をぼんやりと眺めていると、ふいに下のほうから乾いた声がした。
「もったいな」
見下ろすと、足元に温がいた。俺の視線をとらえると、貯水タンクの上へと昇ってくる。
「見てた?」
「おう、ばっちり。あの子けっこうかわいかったのに」
そう言いながら、先ほどまで恵子が座っていた場所に、腰を下ろした。見られてない、とは思っていなかった。きっと何処からか見ているなとは思っていたが……俺はさっき恵子がしてみせたようにおそるおそる温の背中に体重をあずけてみた。もしかしたら触れられず、とおりぬけでもしてしまうのではないかと思ったが、意外としっかりと支えてくれる。しかし、彼の背中からは、体温は感じられない。死んでるからやっぱ、冷たいんだ。
「うん、友達なんだ。俺にとっては。好みじゃないし」
「いうね。彼女、気強いだろ」
「かなり。俺はどちかってえと、おとなしい方がいいんだ」
温の背中は予想以上にしっかりとしていた。俺は更に体重をかける。何かスポーツでもやってたのかな。
「温ってさ、すりぬけないんやね」
「は?」
完全に背中を預けてしまった状態で、俺はぽつりとひとり言のようにつぶやく。
「幽霊って、何でもかんでもすり抜けて、触れんっちおもっとった」
「すりぬけること、できるよ」
「え? そうなん?」
「おう、便利だぞ。触れようと思えば、触れられるし、すり抜けようと思えば、なんでもすり抜けられる」
つまり、俺が背中を貯水タンクに打ち付ける可能性が、あったってことか。おそるおそる体重をあずけていったのは、きっと正解だ。
「でも、すり抜ける時って、自分の体の中に異物が入ってくる感じで、あんまりおすすめできる状態じゃないけど」
「……それっちどんな感じなん?」
「死んでみたらわかるよ」
自分の体の中に異物が入ってくる感じ……まったく想像がつかない。俺は右手を開き、左指をその掌に垂直にぶつけてみた。異物が入る……かあ。
「……片倉の背中って、あったかい」
ふいに温がつぶやいた。
「当たり前だろ。俺、生きてるもん」
しまった、そう思ったが温は気にする風もなくポスンと俺に頭をあずけた。どうやら、温のほうが俺よりも背が高いらしい。寄りかかっているせいもあるが、俺のつむじに彼の首があたる形となった。
「温」
「何?」
「お前なんで死んだの?」
そういえば今日、森田に自殺したって子の話聞くの忘れてた。そんな事を考えていたら、ついポロリと口からでた疑問。あ、やべ。
「俺?」
温がわずかに頭をずらす。
「知りたい?」
「うん」
「なんで?」
「野次馬根性」
「はは、素直だな、片倉」
温はどうやら生きているとか死んでいるとかを気にしていないらしかった。
「自殺だよ」
カラカラと笑い、サラリといってのける。
「自殺?」
「何でって、聞くんだろ? それは自分で調べろよ。学校に残ってるはずだぜ」
「記録が?」
「新聞もな。さ、片倉、今日はもうこれで帰れ。雨降るぞ、そろそろ」
温はそう言って、タンクからジャンプした。突然支えがなくなったから、俺の上半身はぱたんとタンクの上に倒れこむ。あ、痛。文句を言おうとして体をおこしたら、そこに温の姿はもうなかった。
四時三十分、教室は完全に俺一人となった。
恵子のかばんは……ある。俺の斜め後ろの席においてあった。帰ってないってことは、屋上にいるってことだ。冗談じゃないんだ。午後の授業中ずっと考え、俺は断ると決めていた。好きでもないのにつき合って、気を使うのはごめんだ。それに恵子にも悪いだろう……と理由もつけてみる。よし、断ろう。
ベランダから外に出て、屋上へ向かう。屋上へ上る方法は二つあった。廊下から行く道と、ベランダからの道。俺はベランダからしか、行かない。
「恵子」
恵子は貯水タンクの上に座っていた。あれ? そこは温の場所じゃないのか? 俺を見つけると彼女はちょいちょいと手を振り、俺を近くに来させようとする。俺は素直に従い、貯水タンクの下まできた。
「あがっておいでよ」
「うん」
恵子はガムをかんでいた。ブルーベリーの香りが鼻腔をくすぐる。横に座るのははばかられ、俺は彼女と背中合わせになった。
「俊弥」
「何?」
恵子が背中に寄りかかってくる。温かい。
「よんだ理由、わかっとるよね?」
「好きです、つき合ってくださいっちやつ?」
初めてこんな所にのぼった。けっこう眺めが良い。山の裾野に広がる小倉の街(ビルとビルの間に小倉城がひょっこりとのぞいていた)と工場群、そしてその先の、海。風が強いせいか、今日の空気は澄んでいて、海の向こうに白い関門海峡がはっきりと見えた。屋上というだけでも景色の見え方が全然違うのに、わずか三メートルか四メートル、貯水タンクの上にのぼったら、さらに違う。今人が屋上の入り口にやってきたら、きっと小さく見えるのだろう。こうして温も、俺のことを見下ろしていたのだろうか。ブラブラと、足を揺らしてみた。
「そう。だから返事、頂戴?」
今背後で恵子はどんな顔をしているのだろうか。もっと攻撃的な言い方をされると思っていた。やっぱり恵子も女の子なんだなって、当たり前か。
「ごめん。俺、お前のことそういう風に見てない」
きっぱりと一言。余計なことは言わなかった。言っても、余計だから。
「そう」
恵子もきっぱりと一言、余計なことは言わなかった。俺たちはこういう所で気があっているのだろう。
「一つだけ、聞いていいか?」
「何?」
昼休みから、ずっと疑問に感じていたこと。
「何で俺の事、好きなん?」
頭上で烏がかあ、と鳴いた。そう言えば、年に一度学校の屋上にたくさんの烏が集まってくる時が、あったっけ。
「それ普通、聞く?」
ふった後だよ? と恵子が乾いた笑い声をもらした。でも、いつもの恵子の笑い方じゃ、ない。
「……まあ、そうだね」
少しの間をおいて(その間にさっきの烏が四回鳴いた)静かに恵子が口を開いた。別に、嫌なことを言われるわけでもないのに、なんとなく緊張して、俺の手にはじっとりと汗がにじんでいた。
「ちょっとストレートできついけど、片倉の言葉にはうそがないから」
とたん、ポンと背中が軽く一押しされたかと思うと、ふいに人の温度が背中からきえた。グワンと貯水タンクを蹴る音、続いて軽い着地音。
「十点! 恵子選手、お見事」
「馬鹿、下の名前じゃなくて、赤間選手だろ」
タンクの上からつっこむと、恵子はふりむかずに歩き出した。その背中を、目で追う。今走りよっていったら、なぐられるかも。恵子は教室へ下りる階段の前で足をとめた。
「片倉!」
恵子の良く通る少し低い声。
「何?」
「友達、ならいいでしょ」
「もちろん」
「ならよかった」
恵子は振り向き、俺に手を振る。
「あんた今日人生の大半損したよ、馬鹿!」
笑いながら、彼女は走っていった。俺は元のように体を戻し、彼女に背を向けた。
強いなあ、恵子は。ふられてあれか。俺だったらきっと、何も言えずに去るのがやっとだろう。人生の大半損した、か。たしかに恵子にはそのぐらいの価値があるのかもしれない。
背中を、風が通り過ぎていく。少し寒い。でもここから降りる気はなかった。教室に行ったら、恵子がいるだろうし。流れていく雲をぼんやりと眺めていると、ふいに下のほうから乾いた声がした。
「もったいな」
見下ろすと、足元に温がいた。俺の視線をとらえると、貯水タンクの上へと昇ってくる。
「見てた?」
「おう、ばっちり。あの子けっこうかわいかったのに」
そう言いながら、先ほどまで恵子が座っていた場所に、腰を下ろした。見られてない、とは思っていなかった。きっと何処からか見ているなとは思っていたが……俺はさっき恵子がしてみせたようにおそるおそる温の背中に体重をあずけてみた。もしかしたら触れられず、とおりぬけでもしてしまうのではないかと思ったが、意外としっかりと支えてくれる。しかし、彼の背中からは、体温は感じられない。死んでるからやっぱ、冷たいんだ。
「うん、友達なんだ。俺にとっては。好みじゃないし」
「いうね。彼女、気強いだろ」
「かなり。俺はどちかってえと、おとなしい方がいいんだ」
温の背中は予想以上にしっかりとしていた。俺は更に体重をかける。何かスポーツでもやってたのかな。
「温ってさ、すりぬけないんやね」
「は?」
完全に背中を預けてしまった状態で、俺はぽつりとひとり言のようにつぶやく。
「幽霊って、何でもかんでもすり抜けて、触れんっちおもっとった」
「すりぬけること、できるよ」
「え? そうなん?」
「おう、便利だぞ。触れようと思えば、触れられるし、すり抜けようと思えば、なんでもすり抜けられる」
つまり、俺が背中を貯水タンクに打ち付ける可能性が、あったってことか。おそるおそる体重をあずけていったのは、きっと正解だ。
「でも、すり抜ける時って、自分の体の中に異物が入ってくる感じで、あんまりおすすめできる状態じゃないけど」
「……それっちどんな感じなん?」
「死んでみたらわかるよ」
自分の体の中に異物が入ってくる感じ……まったく想像がつかない。俺は右手を開き、左指をその掌に垂直にぶつけてみた。異物が入る……かあ。
「……片倉の背中って、あったかい」
ふいに温がつぶやいた。
「当たり前だろ。俺、生きてるもん」
しまった、そう思ったが温は気にする風もなくポスンと俺に頭をあずけた。どうやら、温のほうが俺よりも背が高いらしい。寄りかかっているせいもあるが、俺のつむじに彼の首があたる形となった。
「温」
「何?」
「お前なんで死んだの?」
そういえば今日、森田に自殺したって子の話聞くの忘れてた。そんな事を考えていたら、ついポロリと口からでた疑問。あ、やべ。
「俺?」
温がわずかに頭をずらす。
「知りたい?」
「うん」
「なんで?」
「野次馬根性」
「はは、素直だな、片倉」
温はどうやら生きているとか死んでいるとかを気にしていないらしかった。
「自殺だよ」
カラカラと笑い、サラリといってのける。
「自殺?」
「何でって、聞くんだろ? それは自分で調べろよ。学校に残ってるはずだぜ」
「記録が?」
「新聞もな。さ、片倉、今日はもうこれで帰れ。雨降るぞ、そろそろ」
温はそう言って、タンクからジャンプした。突然支えがなくなったから、俺の上半身はぱたんとタンクの上に倒れこむ。あ、痛。文句を言おうとして体をおこしたら、そこに温の姿はもうなかった。
