ちらほらと下足箱から教室へ向かう生徒に交じり、廊下の一番奥の教室へそろそろと近づいていく。もしかしたらもう、授業がはじまっているかもしれない。しかし近づくにつれ、教室内のざわめきが聞こえだし、ほっとしてあけっぱなしの扉をくぐった。
「あ、おかえりー」
「どうやったぁ?」
姿が見えたと同時に、ちらほらと声がかかる。俺は自分の席に向かいながら、
「考えてくれるっちー」
とだけ答えた。今日の補講、なんだっけ。黒板の上の時間割表を見上げると、油性ペンで書かれた「数学」の文字が見えた。数学か、テンションさがるな。
「まーたやってら」
必要なものをそろえようと、机の中をあさっていると、ふと教室の端の会話が自然と耳に入ってきた。
「あんなん先生に自由にもの言えるん、成績良いからやろ」
「気に入られとるのもあるやろ」
「確かに。頼んでもないのにやって、流石学級委員様やね」
声で、誰が言っているのかも、内容で、誰の事を言っているのかも、すぐに分かった。ひそひそ声で話しているつもりであろうが、高い声は騒がしい教室の中でもはっきりと聞き取れる。文句があるなら正面切って言えばいいのに。
まあどうでもいいや、と思い席を立つ。机の中に、どうやら教科書はないらしい。立つついでに声の主の方向をちらりと見ると、女子が二人、くすくすと嫌味な笑いをうかべながらぱっと視線を泳がせた。
知らんふりしても、聞こえてるって。
「片倉君」
ため息をもらしロッカーを目指していると、突然森田がすれ違いざまに申し訳なさそうな笑みをうかべ、声をかけてきた。
「なんか、ありがとね」
「何が?」
「いや、香月先生に言いに行ってくれて」
「あー、別にいいよ」
大したことやないやろ、と言うと、森田はにっこりと優しく笑い、
「ありがとう」
と言ってきた。あ、この表情、森田にあってるな。悪く言う奴もいれば良く言ってくれる奴もいる……当り前か。
ロッカーにたどり着いたところで、数学の先生が教室にはいってきた。俺は急いで教科書を取り出すと、ばたばたと席に戻りながら、「きりーつ」と全体に号令をかけた。
挨拶をして腰をおろすと、数学の教科書を前に、ふと自分の成績を思い出す。もしかしたら面談で、数学のことをきつく言われるかもしれない。授業内容は解いてみてだいたいわかるものの、模試となればお手上げ状態なのだ。もちろん、結果にもそれはしっかりと反映しており……ちょっと授業終わったら、大学一覧見に行っておこう。
今の俺の偏差値で、どこまでのレベルに挑戦できるか、確かめていたほうがよい。私立大学だったら、数学なしでも受験できるだろうし。今まで私立はあまり考えていなかったが、数学がどうしようもならなかった時のことを考えておかなければならない。
授業はいつも通り、教科書とノートを広げ、ぼうっとしている内にどんどん時間が過ぎていき、はっと我に返った時には先生が黒板を消して最後の問題の答えを言い終わっていた。まずい、ノートに式うつすの、忘れてた。後で誰かに見せてもらわないと。
号令をかけ礼をすると、そのままするりと教室を抜け、廊下にはりだしてある大学一覧を見に行った。大学名と並ぶ数字群を眺めていると、ふと担任が高校三年生になったら全体の偏差値が下がってくる、と言っていたのを思い出した。
そろそろ追い上げで勉強をしてくる奴らが、増えてくる。そいつらが上がってきたら、逃げ切らなければ偏差値は下がってくるのだ。このままを保ちたいならば、あんまりうかうかとはしていられない、か。
「なーん見とぉと?」
一覧の上のほうからずっと目で大学名を追っていると、突然左肩に誰かがぶつかってきた。
「……大学」
顔を見ずとも、声でわかる。一覧を見つめたまま、一言だけ孝樹にそう返した。
「……どこ志望なん?」
妙な間で、そう質問してきた孝樹の声色は、いつも騒ぎまわっている時の彼のものに比べ、低い、落ち着いたものだった。
もしかしたら、面倒になるかもしれない。さっとそう感じとり、相変わらず視線は動かさないものの、すっと隣に全神経を集中させる。
孝樹は高校に入学してから時々こうやって、二人の時にいつもと違った様子で接してくることがあった。俺の前でだけ、教室での彼より、すごく冷たい雰囲気をまとうのだ。この時ばかりはいつもの百面相もなりを潜め、凍りついたように表情がない。なんでかは、わからない。ただ、その態度の落差にひどく困惑してしまい、こちらも過度に警戒してしまう。中学の時は、二人で話してても、こんなことはなかったのに。
「東北」
できるかぎり、いつもと同じようにのんびりと答える。
「東北大学?」
「いや、東北ならどこでもっちこと」
「何で?」
「え? そんなん雪降るけにきまっとおやん」
素直に首をかしげ、そう言い孝樹を見ると、彼もこちらを向き、刺すような視線を投げかけてきた。うわ、でたこの怖い顔。何を考えているのかよくわからないこの眼差しは、かなり苦手だった。
「ふーん……お前、自由で良いね」
視線をそらしながらそれだけ言うと、彼はくるりと踵を返し、教室の中へと入っていく。
俺、なんか悪いこと言ったっけ?
突然話しかけてきたかと思えば、急に睨まれて、捨て台詞。本当にあいつ、意味が分からない。
「あ、おかえりー」
「どうやったぁ?」
姿が見えたと同時に、ちらほらと声がかかる。俺は自分の席に向かいながら、
「考えてくれるっちー」
とだけ答えた。今日の補講、なんだっけ。黒板の上の時間割表を見上げると、油性ペンで書かれた「数学」の文字が見えた。数学か、テンションさがるな。
「まーたやってら」
必要なものをそろえようと、机の中をあさっていると、ふと教室の端の会話が自然と耳に入ってきた。
「あんなん先生に自由にもの言えるん、成績良いからやろ」
「気に入られとるのもあるやろ」
「確かに。頼んでもないのにやって、流石学級委員様やね」
声で、誰が言っているのかも、内容で、誰の事を言っているのかも、すぐに分かった。ひそひそ声で話しているつもりであろうが、高い声は騒がしい教室の中でもはっきりと聞き取れる。文句があるなら正面切って言えばいいのに。
まあどうでもいいや、と思い席を立つ。机の中に、どうやら教科書はないらしい。立つついでに声の主の方向をちらりと見ると、女子が二人、くすくすと嫌味な笑いをうかべながらぱっと視線を泳がせた。
知らんふりしても、聞こえてるって。
「片倉君」
ため息をもらしロッカーを目指していると、突然森田がすれ違いざまに申し訳なさそうな笑みをうかべ、声をかけてきた。
「なんか、ありがとね」
「何が?」
「いや、香月先生に言いに行ってくれて」
「あー、別にいいよ」
大したことやないやろ、と言うと、森田はにっこりと優しく笑い、
「ありがとう」
と言ってきた。あ、この表情、森田にあってるな。悪く言う奴もいれば良く言ってくれる奴もいる……当り前か。
ロッカーにたどり着いたところで、数学の先生が教室にはいってきた。俺は急いで教科書を取り出すと、ばたばたと席に戻りながら、「きりーつ」と全体に号令をかけた。
挨拶をして腰をおろすと、数学の教科書を前に、ふと自分の成績を思い出す。もしかしたら面談で、数学のことをきつく言われるかもしれない。授業内容は解いてみてだいたいわかるものの、模試となればお手上げ状態なのだ。もちろん、結果にもそれはしっかりと反映しており……ちょっと授業終わったら、大学一覧見に行っておこう。
今の俺の偏差値で、どこまでのレベルに挑戦できるか、確かめていたほうがよい。私立大学だったら、数学なしでも受験できるだろうし。今まで私立はあまり考えていなかったが、数学がどうしようもならなかった時のことを考えておかなければならない。
授業はいつも通り、教科書とノートを広げ、ぼうっとしている内にどんどん時間が過ぎていき、はっと我に返った時には先生が黒板を消して最後の問題の答えを言い終わっていた。まずい、ノートに式うつすの、忘れてた。後で誰かに見せてもらわないと。
号令をかけ礼をすると、そのままするりと教室を抜け、廊下にはりだしてある大学一覧を見に行った。大学名と並ぶ数字群を眺めていると、ふと担任が高校三年生になったら全体の偏差値が下がってくる、と言っていたのを思い出した。
そろそろ追い上げで勉強をしてくる奴らが、増えてくる。そいつらが上がってきたら、逃げ切らなければ偏差値は下がってくるのだ。このままを保ちたいならば、あんまりうかうかとはしていられない、か。
「なーん見とぉと?」
一覧の上のほうからずっと目で大学名を追っていると、突然左肩に誰かがぶつかってきた。
「……大学」
顔を見ずとも、声でわかる。一覧を見つめたまま、一言だけ孝樹にそう返した。
「……どこ志望なん?」
妙な間で、そう質問してきた孝樹の声色は、いつも騒ぎまわっている時の彼のものに比べ、低い、落ち着いたものだった。
もしかしたら、面倒になるかもしれない。さっとそう感じとり、相変わらず視線は動かさないものの、すっと隣に全神経を集中させる。
孝樹は高校に入学してから時々こうやって、二人の時にいつもと違った様子で接してくることがあった。俺の前でだけ、教室での彼より、すごく冷たい雰囲気をまとうのだ。この時ばかりはいつもの百面相もなりを潜め、凍りついたように表情がない。なんでかは、わからない。ただ、その態度の落差にひどく困惑してしまい、こちらも過度に警戒してしまう。中学の時は、二人で話してても、こんなことはなかったのに。
「東北」
できるかぎり、いつもと同じようにのんびりと答える。
「東北大学?」
「いや、東北ならどこでもっちこと」
「何で?」
「え? そんなん雪降るけにきまっとおやん」
素直に首をかしげ、そう言い孝樹を見ると、彼もこちらを向き、刺すような視線を投げかけてきた。うわ、でたこの怖い顔。何を考えているのかよくわからないこの眼差しは、かなり苦手だった。
「ふーん……お前、自由で良いね」
視線をそらしながらそれだけ言うと、彼はくるりと踵を返し、教室の中へと入っていく。
俺、なんか悪いこと言ったっけ?
突然話しかけてきたかと思えば、急に睨まれて、捨て台詞。本当にあいつ、意味が分からない。
