振り返ると、教室にいる生徒は二、三人になっていた。そいつらも、すぐにバイバイ、と手を振り教室を出て行き、俺は一人ポツンと室内を見回す。がらんとした空間に夕日が差し込んでいた。部活の生徒が脱ぎ散らかした制服や、ロッカーに入りきれずに机上においたままにされている教科書類が少しばかり教室を騒々しくしていたが、昼間に比べれば貧相なものだった。静かな教室も、嫌いではない。放課後になると昼間は意識しない教室という空間が、妙に感じられる。教室ってこんなに、広かったっけ?
俺は自分の席について机の中から英語の教科書とノートをひっぱりだした。教科書の訳が宿題に出ていたはずだ。頬杖をついて、ノートに文字をつづっていく。そのたびに乾いた音が響く。耳に感じられる音は、この音と時計の秒針のカチッカチッという規則正しいものだけだ。秒針の音って、こんなに大きかったんだ。
しばらく無心で英文を写した。五ページ分写し終わって気が付くと、外は暗くなっており時計は五時四十八分をさしていた。もう一時間たっている。別にこんなに残る気、なかったんだけど。何時になったら帰ろうかなと時計をぼうっと眺めていると、突然背後にヒヤリとするものを感じた。
ヒヤリ?
冬の寒さではない、気がする。背筋から、四肢にじわじわとひろがってくるぞっとする寒さ。何だ? このヒヤリは。問うまでもない問いを、あえて自分になげかけてみる。この状況でこんなこと思ってるって、俺余裕あるじゃん。閉めていたはずのベランダ側の後方のドアから、風が入ってくる。なんだよ、演出もばっちりってか? 頭ではたいした余裕だったが、情けなくも体は固まっていた。幽霊らしくないと、見上げた瞬間思ったはずなのに。目があった瞬間、恐怖感や緊張は消えたはずだったのに。心臓が、はじけ飛んでしまうのではないかと思うぐらい、バクバクと脈打っていた。やはり、昼、青空の下で見るのと、夜、一人教室で見るのとでは違う。天と地ほど違う。
見たくない。寒い。風が入ってくる。でも後ろを向きたくない。怖い。でも寒い。ぐるぐるといろんな事が頭の中に回りすぎて、ぐちゃぐちゃで、つまり言うと混乱していて、俺はしまいにはとても正直な感想をのべていた。
「寒い」
一言。はっきりそう言った。言ったら、動作もついてきた。太ももを、すばやく両手でこする。しかしもっと信じられなかったのは、その次の瞬間だった。
「あ、ごめん」
乾いた、やや低い声だった。背後でドアの閉まる音がする。あんな声、聞いたことない。聞いたことないんだけど……。
俺は英語の続きに視線を落とした。幽霊の、彼が背後にいる。だから、どうしたのだというのだ。「あ、ごめん」って、普通すぎる。何だよ、「あ、ごめん」って。もうちょっと気の利いたことを言えないのだろうか。すっと心臓の音が静かになる。そう言えば、寒さもやわらいだ。彼がドアを閉めたからだろう。幽霊が近づいたからひやりとしたなんて、とんだ勘違いだった。ドアが開いたら寒いのは当たり前だ。ペタペタと上靴の音がして、俺の横を彼が通り抜け、俺の前の席の椅子をひきストンとそこに座り込んだ。何だこいつ、升田と同じ動きしてやがる。
「おまえ」
「うん?」
視線を英語から目の前の彼にうつす。間違いない、今日貯水タンクの上で見た顔だ。しかし、先ほどまでの異常な緊張感は嘘のようになくなっていて。
「俺が、見えんの?」
「……うん。見えなきゃしゃべらんし」
「怖くないの?」
「怖かったけど。お前『あ、ごめん』はダメだ。聞いたら、気が抜けた」
「ちがう、その前もだよ。二回屋上来たろ?」
「ああ、うん。だってあの時、晴れてたし昼だったし友達いたし」
それに、と俺は付け加えた。
「俺幽霊とか全然見たことなくて、でもお前はすごくはっきり見えて、しかも制服着てたし、足あったし」
「つまり全然怖くなかったわけだ」
「全然ってわけやないけど。それよりびっくりしたかな」
普通に話せている。俺が、幽霊と。目の前の彼は俺の言葉を聞き終わると「ふーん」と言って俺の広げていた英語のノートに目をおとした。
「これ」
俺の写し取った英文を、指す。
「つづり間違ってる。Environmentだろ? ここはiだ」
「あ、本当」
Enveronment、俺はそう書き違えていた。消しゴムで消して、書き直す。
「なあ」
「うん?」
「お前、名前は?」
「名前? 片倉俊弥」
「片倉か」
「お前は?」
「俺?」
彼は自らを指し、驚いた表情で言った。それを不思議に思い、俺は首をかしげる。幽霊にも名前ぐらいはあるだろう。
「名前……久しぶりに聞かれたな」
「そうなん?」
「人と話すのも久しぶりだな」
「ずっとあそこにおると?」
「ずっとって……うん、まあ、屋上にいるな」
「一人で?」
「一人で」
「へえ……で、お前なんち言うん」
「後藤温」
先ほどから思っていたが、彼はここの方言を使っていない。発音も、ちょっと違う。ここの出身の子じゃ、ないのかな。
「後藤……?」
「ゴトウユタカ。ユタカは温度の温」
「そっか、温ね」
温度の温でユタカか。変わった漢字。いや、読み方。明日森田に自殺した子の名前を聞いてみよう。温度の温でユタカなんて名前、なかなか無いだろう。もし彼女が「後藤温」って言ったら、こいつに間違いないわけだ。
「しっかし、ここも変わったなあ」
温がぐるりと教室を見回して言う。
「そうなん?」
「おう。前はもっとこう机がつまってたな。こんなにスカスカじゃなかったし……花もちゃんとしおれてないのが飾ってあったぞ」
それは担任が面倒だといって持ってきていないだけだ。他のクラスに行けばしおれていない立派な花ぐらい、ある。
「掃除もちゃんとしてたぞ、もうちょっと。ロッカーも変わってるだろ。あと……あ、時計。こいつも変わってる」
今我がクラスの時計は何故かプーさんのついたものだった。他のクラスは別にキャラクターなどついていない、普通の時計だ。何故か、うちのクラスだけのプーさん時計。
その時計が、六時十七分を指していた。
「やべ、遅っ! もう六時すぎとおし!」
がたんと立ち上がると、温が静かに俺を見上げた。
「何だ、帰るのか?」
「うん、あんま遅く帰ったらしかられるけ」
「お、過保護だな。女の子でもあるまいし」
「まあ、今変な事件多いし。このご時世、男の子でも危ないっち、冗談でもないしなあ」
北九州は治安が悪いことで有名で、「北九州から来ました」と言えば眉をひそめられる、と父から聞いたことがあった。特に少年犯罪率は全国でもかなり悪い方らしくて、確かに小学校や中学校の同級生の中には、本当に逮捕寸前になった奴やら逮捕されてしまった奴らもいる。
俺は自分の席について机の中から英語の教科書とノートをひっぱりだした。教科書の訳が宿題に出ていたはずだ。頬杖をついて、ノートに文字をつづっていく。そのたびに乾いた音が響く。耳に感じられる音は、この音と時計の秒針のカチッカチッという規則正しいものだけだ。秒針の音って、こんなに大きかったんだ。
しばらく無心で英文を写した。五ページ分写し終わって気が付くと、外は暗くなっており時計は五時四十八分をさしていた。もう一時間たっている。別にこんなに残る気、なかったんだけど。何時になったら帰ろうかなと時計をぼうっと眺めていると、突然背後にヒヤリとするものを感じた。
ヒヤリ?
冬の寒さではない、気がする。背筋から、四肢にじわじわとひろがってくるぞっとする寒さ。何だ? このヒヤリは。問うまでもない問いを、あえて自分になげかけてみる。この状況でこんなこと思ってるって、俺余裕あるじゃん。閉めていたはずのベランダ側の後方のドアから、風が入ってくる。なんだよ、演出もばっちりってか? 頭ではたいした余裕だったが、情けなくも体は固まっていた。幽霊らしくないと、見上げた瞬間思ったはずなのに。目があった瞬間、恐怖感や緊張は消えたはずだったのに。心臓が、はじけ飛んでしまうのではないかと思うぐらい、バクバクと脈打っていた。やはり、昼、青空の下で見るのと、夜、一人教室で見るのとでは違う。天と地ほど違う。
見たくない。寒い。風が入ってくる。でも後ろを向きたくない。怖い。でも寒い。ぐるぐるといろんな事が頭の中に回りすぎて、ぐちゃぐちゃで、つまり言うと混乱していて、俺はしまいにはとても正直な感想をのべていた。
「寒い」
一言。はっきりそう言った。言ったら、動作もついてきた。太ももを、すばやく両手でこする。しかしもっと信じられなかったのは、その次の瞬間だった。
「あ、ごめん」
乾いた、やや低い声だった。背後でドアの閉まる音がする。あんな声、聞いたことない。聞いたことないんだけど……。
俺は英語の続きに視線を落とした。幽霊の、彼が背後にいる。だから、どうしたのだというのだ。「あ、ごめん」って、普通すぎる。何だよ、「あ、ごめん」って。もうちょっと気の利いたことを言えないのだろうか。すっと心臓の音が静かになる。そう言えば、寒さもやわらいだ。彼がドアを閉めたからだろう。幽霊が近づいたからひやりとしたなんて、とんだ勘違いだった。ドアが開いたら寒いのは当たり前だ。ペタペタと上靴の音がして、俺の横を彼が通り抜け、俺の前の席の椅子をひきストンとそこに座り込んだ。何だこいつ、升田と同じ動きしてやがる。
「おまえ」
「うん?」
視線を英語から目の前の彼にうつす。間違いない、今日貯水タンクの上で見た顔だ。しかし、先ほどまでの異常な緊張感は嘘のようになくなっていて。
「俺が、見えんの?」
「……うん。見えなきゃしゃべらんし」
「怖くないの?」
「怖かったけど。お前『あ、ごめん』はダメだ。聞いたら、気が抜けた」
「ちがう、その前もだよ。二回屋上来たろ?」
「ああ、うん。だってあの時、晴れてたし昼だったし友達いたし」
それに、と俺は付け加えた。
「俺幽霊とか全然見たことなくて、でもお前はすごくはっきり見えて、しかも制服着てたし、足あったし」
「つまり全然怖くなかったわけだ」
「全然ってわけやないけど。それよりびっくりしたかな」
普通に話せている。俺が、幽霊と。目の前の彼は俺の言葉を聞き終わると「ふーん」と言って俺の広げていた英語のノートに目をおとした。
「これ」
俺の写し取った英文を、指す。
「つづり間違ってる。Environmentだろ? ここはiだ」
「あ、本当」
Enveronment、俺はそう書き違えていた。消しゴムで消して、書き直す。
「なあ」
「うん?」
「お前、名前は?」
「名前? 片倉俊弥」
「片倉か」
「お前は?」
「俺?」
彼は自らを指し、驚いた表情で言った。それを不思議に思い、俺は首をかしげる。幽霊にも名前ぐらいはあるだろう。
「名前……久しぶりに聞かれたな」
「そうなん?」
「人と話すのも久しぶりだな」
「ずっとあそこにおると?」
「ずっとって……うん、まあ、屋上にいるな」
「一人で?」
「一人で」
「へえ……で、お前なんち言うん」
「後藤温」
先ほどから思っていたが、彼はここの方言を使っていない。発音も、ちょっと違う。ここの出身の子じゃ、ないのかな。
「後藤……?」
「ゴトウユタカ。ユタカは温度の温」
「そっか、温ね」
温度の温でユタカか。変わった漢字。いや、読み方。明日森田に自殺した子の名前を聞いてみよう。温度の温でユタカなんて名前、なかなか無いだろう。もし彼女が「後藤温」って言ったら、こいつに間違いないわけだ。
「しっかし、ここも変わったなあ」
温がぐるりと教室を見回して言う。
「そうなん?」
「おう。前はもっとこう机がつまってたな。こんなにスカスカじゃなかったし……花もちゃんとしおれてないのが飾ってあったぞ」
それは担任が面倒だといって持ってきていないだけだ。他のクラスに行けばしおれていない立派な花ぐらい、ある。
「掃除もちゃんとしてたぞ、もうちょっと。ロッカーも変わってるだろ。あと……あ、時計。こいつも変わってる」
今我がクラスの時計は何故かプーさんのついたものだった。他のクラスは別にキャラクターなどついていない、普通の時計だ。何故か、うちのクラスだけのプーさん時計。
その時計が、六時十七分を指していた。
「やべ、遅っ! もう六時すぎとおし!」
がたんと立ち上がると、温が静かに俺を見上げた。
「何だ、帰るのか?」
「うん、あんま遅く帰ったらしかられるけ」
「お、過保護だな。女の子でもあるまいし」
「まあ、今変な事件多いし。このご時世、男の子でも危ないっち、冗談でもないしなあ」
北九州は治安が悪いことで有名で、「北九州から来ました」と言えば眉をひそめられる、と父から聞いたことがあった。特に少年犯罪率は全国でもかなり悪い方らしくて、確かに小学校や中学校の同級生の中には、本当に逮捕寸前になった奴やら逮捕されてしまった奴らもいる。
