嗚呼、神よ。私の蛮行をお許し下さい。一度でもその身に触れたいと願ってしまった愚かしさを。

◇◇

若葉が美しい季節が刻一刻と近付いていた、初夏のある日。
プロテスタント系の宗教を教育の柱としている学校で教鞭を振るっていた教師の訃報が、多くの学生を悲しませた。学生に対して分け隔てなく接していた彼が慕われていたのも当然の事と言える。葬儀は学内の礼拝堂で大学葬という形でしめやかに行われた。その葬儀には少年も列席した。彼の口許は固く結ばれ、言葉を失っているようにも見える。現実を受け止めきれないのか、何名もの学生の目から涙が止め処なく溢れていた。学生だけではない。教師も皆沈痛な面持ちで首を垂れている。

同時刻、礼拝堂の屋根上で一度天へ旅立ったばかりのジェラルドは自分がまだ幽霊として存在している事に気付いていた。
弔辞が奉呈され、弔電が霊前に捧げられる。
その声を聞きながら自分が既にこの世に存在しない事を漠然と理解した。神はまだ安息を下さらないようだ。手を伸ばしてみても、骨も筋もない透けた体は空を掴むばかり。空虚な気持ちで空を見上げると高く鳥が飛び雲が流れていた。ただ在り来たりな死を迎えただけだ。誰にも訪れるどこにでもある肉体の終焉を。

ぱた、と雲の合間から雫が滴り落ちる。乾季に近い時期には珍しく、雨が校内に降り注いだ。魂が抜けた身体は、近日中に埋葬されるだろう。空からそれを見るのは何とも複雑な気がした。屋根から地面に降り立てば、見なれた学舎が眼前に聳えていた。もうこの門を潜る事も無い。

一つ気がかりな事があった。あまりにその終焉は突然だったので最後に少年に言葉を残す事が出来なかったのだ。最愛なるその人と結ばれたのはほんの二か月前。

教職員棟のエレベーターが三階から一階へ降りるわずかな間に、裾を引かれて口付けを迫られた事があった。伏せられた瞼が悔恨に震えていた。少年の睫毛の下で頬が紅潮しているのをジェラルドの瞳は捉えていた。
少年からしてみれば勇気のいる行為だったろう。異性ならまだしも同性に恋をした幼気な少年が愛おしかった。
だからだろうか。ジェラルドはほんの数秒間、扉が開くまでの時間触れるようなキスを許した。
思いが通じ合ってからの二人は、それ程にプラトニックな愛情を貫いていた。

それが災いしたのだろう。恐らくこれが未練と言う物だ。ある種の残留思念とも言える。身体を持たず霊魂だけとなったジェラルドは触れることすら出来ないもどかしさに身を焦がしていた。けれど今となってはもう全てが遅かった。
初々しい恋人を見ているだけで満たされる心地だった。いつまでも続くとは思わなくても無意識につい永遠を願ってしまっていたのだ。

◇◇

美術部に配属されていた少年は、石像の稜線と紙の上のそれを見比べながら首をかしげた。白磁のような美しい肌が艶やかに、外からの自然光に輝いている。黒鉛を滑らせてスケッチすると陰影が浮かび上がった。捻るような体を写真に切り取るように刻み込む。その前日も彼は彫刻の前で何時間もデッサンに取り組んでいた。画板を抱え直し椅子に座る。指の腹で頰の輪郭をなぞるとよりリアリティを帯びた顔付きとなる。その胸像の端整な顔立ちが好きだった。好きでなければモデルには選択しないだろう。多くのモチーフの中からそれを選んだのは、単純に美しく何時間でも見ていられると思ったからだ。今にも頰が色付いて動きそうな錯覚すらある彫刻の、作者は不明なままだった。その日も、夜が更けるまで美術室のライトは照っていた。

学生達の論文に目を通し終えたジェラルドは、気分転換がてら夜の校舎を見回していた。
一つだけ灯の点った部屋がある。確かあの辺りには美術室が存在していたはずだ。まさか学生が残っているとは思わず、足早に急いだ。今ならまだ電車にも間に合う。最悪自分の車で送迎する事も視野に入れながら教室の部屋を覗くと、少年が机に突っ伏して眠っていた。
「もう学校も閉まりますよ」
揺さぶって起こそうとして、ジェラルドの目に胸像が入った。
懐かしいその顔は自分と瓜二つだ。同じ学校に赴任した教師が自分をモデルに作成した物だった。少年のキャンバスには胸像の柔和な笑みが描かれていた。
「う…あれ」
目覚めた少年は、像と同じ顔が目の前にある事に当惑していた。そこまでの経緯を話すと、少年は興味深げに頷く。彼は時折ジェラルドを直視出来ずに目を反らしていた。怒られるかも知れないという恐怖心が透けて見える。
「もうすぐ選考があるから、どうしても上達したくて」
「こんなに遅くまで滞在するとは感心出来ませんが私も人の事を言えません。
親御さんも心配している筈です。連絡を入れましょう。」
少年は素直に従った。時計を見れば、スケッチを始めて3時間は経過してしまっていた。
「…それから」
咳払いを一つして続ける。
「もし私で良ければその作品のモデルとして協力致します。」
思いもよらない言葉に、少年の瞳が驚きで見開かれる。
「良いんですか?」
「はい、ただし協力するからには入選して頂かないと」
にっこりと微笑む。
「今日の所はもうこれで終わりにしましょう。来週の同じ時間で構いませんか?」
返事の代わりに、少年は何度も頷いてみせた。

パサリとシャツが解かれ、裸体が姿をあらわす。高めの椅子に座ったジェラルドの前で、少年は一度だけ写真を撮影した。
「こうすると絵に描き起こし易いんです」
待たせてしまってすみません、と少年は筆を持った。シャッシャッと小気味良い音を立ててキャンバスに線が書きつけられていく。時折画板越しに少年と目が合った。今、どの辺りを描写しているのだろうか。鼻、目、それとも胸。完成品を見るのが待ち遠しかった。
ひそやかな邂逅が二ヶ月続いた頃、少年は自らの思いをジェラルドに告げていた。
どうやら自分は教師である貴方に惹かれたらしい。思えばその純粋な恋心は、胸像をキャンバスに描く彼を見た時に既に予感されていたのだ。柔らかな筆致が全てを物語っていた。
猜疑心の無い二つの目が見上げている。その指を取って小さく頷いた。

◇◇

少年は悲嘆に暮れる様子は無く溌剌とした態度を装っていた。その日も彼は休学する事無く普段通りに通学した。すぐ傍にかつての恋仲が幽体として存在しているとは露知らず。衣服に袖を通して身支度を整えるとペンダントを首から下げる。校門をくぐり学舎へと足を運び、ノートと教科書を取り出し講義に耳を傾ける。
複数の生徒が彼に明るい声をかけ、彼もそれに答えた。傍から見れば何不自由ないキャンパスライフを送っているように見える。感傷に浸る事も無く、天真爛漫な笑みを浮かべて彼なりの生活を楽しんでいた。

その実、緊張や不安があるとペンダントを握る癖があることをジェラルドの目は見抜いていた。試験中あるいは授業中、お守りのように携帯され入浴中も決して外される事の無いペンダント。それには特別な思いが込められているように感じた。

郊外の道を歩いている際、気配を察したのか背後を振り向く事があった。公園を少し過ぎた頃だろうか。
もしや自分に気付いたのかと、振りむいた少年に語るように口を開閉してその名を告げてみる。彼は何の反応も示さず、前を向いたかと思えば眉を下げたような表情をして歩いていく。茜さす空が照らすその姿をジェラルドは何も言わず見つめ続けた。
生者と幽霊の間には茫漠とした距離が広がっている。このまま離れてしまったら、彼はいずれ私の事を過去の物として忘れるのだろうか。ぽつり、とコーヒーの中に落とされた一滴のミルクのように不安が広がっていく。
少年の心が別の物で埋まっていくのはどこか苦しいように思えてならない。こんなにも深い思いに何故もっと早い段階で気付かなかったのだろう。

その夜。
少年は浮かない顔をして何か鬱屈した思考に囚われているように見えた。闇の中で一人苦悶するような表情を浮かべている。その顔には孤独がありありと見て取れた。食事も中途半端に終えると彼はベッドに深く沈み込んでいた。
俄に私がずっとここに居ますよと肩を抱いてやりたい気持ちを堪える。
そっと少年の指がペンダントに触れて開いた。
ペンダントの中には丁寧に切り取られた写真が収まっている。彼の時間は進んでいるように見えて止まっていたのだ。過去に縛られて歩みだす事が出来ない。在り来りな筈の終焉は彼には重過ぎた。
消え入るような呟きを耳にして胸がぎゅっと締め付けられる思いを抱えた。誰でも良いから彼の心に立ち込めた霧を晴らして欲しい。どうにか手を打ちたくても自分の身体は何の痕跡も残す事が出来なかった。思いが募る毎に心が痛み、これ以上見てみぬ振りは出来ないと確信が強くなっていく。

天にまします偉大なる神よ、聖なるマリアよ。どうかあの少年を救う力を、恩寵を賜り下さい。もし奇跡という物が存在するならば、この行き場の無い苦しみを哀れみ給え。そしてお聞き届け下さい。月に向かって跪き何度も祈りを繰り返した。

彼の真摯な嘆願を神は受け入れた。天啓が下る。次の朔の日、彼の魂に体がもたらされるだろう。
その声は鼓膜を通してではなく脳内に直接伝わった。消え入りそうな下弦の月が中空に浮いている。新月はもう間近だった。人知れず神に深い感謝を捧げた。優しく寛大なる神よ。貴方が望むなら冥府にも参りましょう。

翌日の深夜零時丁度。少年はベッドに寝ころび寝息を立てていた。風も無いのにカーテンがふわりと浮き、細やかな月光が人影を形作る。彫刻のように整った風貌の男が確かな脈動と共に顕現していた。さらさらと涼やかな夜風が髪を靡く。

大きな足音を立てて驚かさぬようにと近付くとそっと弾力のある頬に触れた。生きている者特有の温かさが指にじわりと伝わる。その柔らかさはずっと望んでいた感覚だった。偶々寝具の端から覗いていた無防備な指を絡ませ、耐えきれず唇を静かに重ねた。
私は生前貴方へ十分に愛情を注ぐ事が出来ませんでした。出来る事なら、貴方の成長を傍で見届けたかった。青年期も、壮年期も一緒に居られると何の疑問も持たなかった。どれ程寂しい思いをさせてしまった事か。孤独に耐えさせるにはその体は余りに小さい。
気付けば途方も無い気持ちで詫びていた。叶うなら最後に瞳を開いて欲しい。その瞳はどんな色をして自分を映すだろうか。

偶然その時半醒半睡のままの少年がそろりと瞼を開いた。視線が交わり、遠方を見るような胡乱な眼差しで見つめている。徐々に焦点が合い姿を捉えたと思われたそのタイミングでジェラルドの体躯は下肢から粒子と化して砂のように空気に溶けていった。
古きは去り、新しい者が世を作っていく。自然の理を理解していない訳では無い。その美しい魂は未来の礎となるだろう。その魂にはジェラルドの尊い教えがしっかり反映されている。明るい道が開けるよう、知恵だけではなく生き様を教え込んだつもりだ。
だから、もう私は御役御免となるのです。
唇がゆるやかに弧を描く。今度こそ今生の別れが近づいていた。
さようなら、愛しい人。どうかもう悲嘆に暮れないで、私は貴方の中に生きているのだから。
餞別代りに呟けば、その体は花弁が散るかの如く霧散していた。

少年は身を起こし茫然と部屋の入口辺りを眺めた。そしていつもと変わらぬ静寂な寝室で自らに起きた事を把握しようと努める。
今懐かしいあの人に会って、もう一度触れた。
それは夢の中での出来事だと思われる程頼りない実感だった。
教師の残滓を現世に繋ぎ止めていたのは少年の願いだった。それはたった一度だけで良い、再会したいという強い思いだ。
出来れば逝ってほしく無い。もう少し傍に居て欲しかった。もしもここに居てくれたら。色んな景色を共に見て、下らない話をしたかった。別れが早すぎる。一人にしないで欲しい。もっと同じ時間を過ごしたかったのに、どうして俺を置いていったんだ。

その強い思いはジェラルドが体を得たその瞬間に成就されてしまった。
少年の頬から白いシーツへと一筋の透明な涙が流れ、染みとなる。頭の中であの日礼拝堂で聞いた古典的な葬送曲が鳴り響いていた。