周囲が、「何だ何だ?」と注目し始める中、朝比奈が、すがるような目で見詰めてくるので、とりあえず背中の低い壁越しに様子を窺っては見たものの、口ゲンカというだけで……手が出た訳ではない。ここで俺が介入したら、女の前で格好つけんな!とばかりに矛先が真っ直ぐに向かってくるんじゃないか。
ヤツらとは決して目を合わせぬよう、注意深く様子を窺っていると、突然、ばちん!と何かが破裂するような音が辺りに響いた。
見れば、右川が地べたに転倒。
「痛い……」
あまりの展開の早さに目を疑う。何が起こったのか。見ていた筈なのに分からない。困惑するヤツらを尻目に、右川は地面にひれ伏したまま、「痛い……痛いよぉ。顔こすったよぉ」と、さめざめと泣き始めた。
俺は確信している。
ウソ泣きだ!
周囲は騙されてしまうのか。右川の仲間だけではない。たまたま通りがかった無関係な他人、ちょうどやって来た別高グループ、斜め向こうタコ焼き屋の店員……周りが注目する中、ヤツらは途端に勢いを無くして、「や、違うから!オレ何もしてねーって。こいつが勝手に転んだって!マジで!」と訴えて、慌て始める。
朝比奈が、「大丈夫?」と右川に寄り添った。ヤツらはバツが悪そうに「面倒くせ」と捨てゼリフを吐いて離れていくと、右川はさっきまでの切ない表情は何処へやら、ヒョイと立ち上がって、
「うん、平気♪」
朝比奈が拍子抜けした様子で右川を見上げている。(中腰の朝比奈と同じ目の高さが笑える。)
だから言ったろ。涙は何処行った?
右川と不意に目が合った。その表情は、いつもの不機嫌というより、いくぶん意味がこもっている。
案の定、
「あんたさ、一応生徒会でしょ。こう言う時に立ち上がんないでどうすんの」
すぐ側に居て声を上げてもくれないのかと、俺を責めてくれる訳だ。
「生徒会は警察じゃない。チビが思いつきで啖呵切るな。周りが迷惑なんだよ」
「ざわざわざわ……こういう彼氏ってどう思う?」
朝比奈は、答えに迷って「うーん」と首を傾げた。俺と右川を同レベルで慎重に窺っている。そこを迷ってもらっても困る所だゾ。「確かに、ヤツらは酷いと思うけど」
だが実際、外野の俺にはどうしようもない事だった。朝比奈がカブったら、それはもう何が何でも!と思うけど、単なる知り合いとなると、なんとかならないか?ぐらいに落ちてしまうし、さらに遠くの知り合いとなったら……そこまで面倒みるヤツは居ないだろう。距離と苦痛と実利。実の所、この3つを取っかえ引っかえで天秤にかけているのだ。どんな言い訳を並べても、はっきり避けていたのは間違いないので、俺は黙るしか術が無い。
右川はワザとらしく手をかざして、「おーい、聞こえてますかァ?」と俺の耳元で叫んだ。
「気が付かないの?あんたが損なんだよ?」と、したり顔で説教が始まる。
「生徒会がこれだから、学校の偏差値も上がんない訳だ。見たまんまのブラック学校。クズが仕切るクソ教育」
言いたい放題。チビがノッポにブチ切れ。まるでお笑いコント。周囲もクスクス笑い始める。
ざわざわざわ……こういう迷惑ってどう思う?
そこへ、「右川ぁ、向こうにテーブル見つけたよ。そっち行こう」と、小ぶりの男子がやってきた。
「おまえのお仲間みたいに逃げ出すという方法も、アリだと思うけど」
卑怯を承知で、右川の仲間男子に便乗。黙る俺を責めるというなら、逃げ出した仲間も巻き込んで同罪だ。
「朝比奈さぁん、こんなのと一緒で恥ずかしくない?感性疑われちゃうよ」
「うるせ。おまえみたいなのと一緒にされる方が恥ずかしいワ」
「もう……ケンカやめようよ」
朝比奈が、いつもの〝弟を諌める姉貴の顔〟になる。
「そうだよ右川。もういいじゃん。オゴんなくて済んだし」と、小ぶりの男子がその横に並んだ。
そこへ静かに、まるで波がゆっくり広がるようにやってきたのが……バスケ部3年軍団だった。3年もいそいそとやって来るか。ここはそういう場所なのかと、そこは意外に感じる。いかつい3年軍団に混ざって永田さんが居た。すぐ後ろに阿木も居て、誰だか友達らしい女子と一緒に居る。これはどういう集まりなのか。そのコンセプトは不明。バスケ、生徒会、1年から3年まで。重なるとも思えない3つの塊り。
永田さんに向けて、俺は頭を下げた。
永田さんは3年軍団を飛び出し、阿木を引き連れてすぐ側までやってくると、
「仲良いね。さすが余裕だな」
余裕とは、恐らく試験の事。仲良いとは、朝比奈と2人を言ったのだろう。
ムッとする程ではないが、どう返していいか迷う所だ。
「君って、なんか部活やってたっけ?」と、すぐさま先輩の興味は朝比奈に向いた。「帰宅です」と、朝比奈が恥ずかしそうに答える。
「そんならマネージャーでもやればいいのに」
ギョッとした。まさかここでバスケ部に献上を命じられるなんて事は……!
「お世話する所に彼氏が居たら、それは何て言うか……やりにくいですよ」
朝比奈を差し置いて答えたのが、阿木だった。
「そうなの?」と、阿木に向かってニヤリと聞き返す。「普通そうです」と、能面で突き放されても、「それもそうか」と、永田さんは余裕で笑った。バスケ部ではなくバレー部の事か。朝比奈は笑うだけで何も答えなかった。俺は構わないけど、確かにやりにくいだろうな。
永田さんの興味は、朝比奈の身辺調査にまで及んで、「家ってどこ?」と、さっそく住所から探りが入る。
永田先輩に質問攻めに合った朝比奈は、「はい」とか「いいえ」とか、当たり前に返しているのだが、その表情はずっと恥ずかしそうに顔を赤らめて、どこか嬉しそうに見えた……とは、俺の考え過ぎか。
「ハセクラってさ、授業中に携帯鳴らさない?」
2年生の選択授業で英語担当の先生。それは朝比奈と共通の先生であるらしい。
「オレらには鳴らすな、って注意するくせにさ」
「そういえば弟さん、こないだ携帯取られてましたね」
「それで新しいスマホ買いたいって、言い訳にしてるよ」
朝比奈の機種と、永田さんの機種が偶然合ったとかで、今度はそっちに話が弾んで。
「あれ?1学期でもうこんな所まで進んでんの?」
不意に、永田さんは朝比奈の教科書を取り上げた。半分近くに挟まっている栞を抜き取る。
「ハセクラってさ、どっかの入試問題もポロッと出すよ」
「えー、そうなんですか」
「ヤラしいだろ?だからセクハラって言われてんだよ」
そうなのか。永田バカが勝手に語呂合わせしただけ、と思ってた。恐らく、兄貴が言うからそれに追従しているだけ。本来の意味なんか知らないに違いない。
朝比奈と永田さん、今度は仲良く〝ハセクラあるある〟が始まる。
何となくムッとくる。
俺と一緒の時、ここまで溶ろけそうな彼女の笑顔を見た事がない気が……ヤキモチだ。認める。
うっかり阿木と目が合った。
「先輩、お邪魔ですよ」
おまえもヤキモチか。恋愛感情とは違うだろうが、永田さんに傾倒する立場からして、松下さん寄りの人間にこれ以上親しく関わってもらいたくないという所か。
その時、ドン!と俺をド突いて、極小サイズの塊が前面に飛び出した。
「はろー、アギング♪」
突如、この場に不似合いな能天気な声が……その声は間違いなく右川だ。さっき場所を移動したはずだ。いつの間に戻ってきたのか。いや、そうではなくて、阿木が……アギ、アギング?
聞き間違い?またいつもの宇宙語?朝比奈も軽く混乱している。俺も動揺を隠せない。
「あ、アギングと、あたしはですねぇー」
「中学が一緒でした」
阿木は顔色1つ変えない。同じ中学。だからと言って仲がいいとは単純には言えないだろう。
冷静沈着、能面のような顔つき、恐ろしい桁の金額を無表情で打ち込む、そんな阿木と比べて右川は正反対だった。慣れ合う姿が想像できない。
以前、俺を生徒会に入れる陰謀で、阿木と右川の2人は結託した。一時、協力体制にあったと言える。それだけでアギング呼ばわりか。馴れ馴れしいにも程がある。なぜ怪獣の名前?なぜ進行形?
「右川さん、茶道部は、いつ辞めてもらってもいいからね」
そうだった。阿木と右川は仲良く(?)茶道部である。右川は辞めないだろう。無料でお菓子の続くかぎり。
「お兄さん、元気かな」
突如、誰も居ない空間に向かって永田さんがぼんやり問い掛ける。すると右川が当たり前のように、「はい♪」と答える。途端に永田さんは、うっとり淡い笑顔になって、「お兄さん、副会長だったんだよね」
右川をどこか熱っぽい眼差しで眺めた。阿木の能面は変わらなかった。2人を交互に見て迷っているのは、俺と朝比奈だけである。
そこで初めて、右川には双浜OBの兄貴が居る事を知った。さらに驚いた事に、その兄貴と永田さんは去年、一緒に生徒会をやっていたらしい。
「オレなんて、右川先輩にド突かれまくってさ。脅されて、それで仕方なく1年から選挙に出たんだよ」
「え……」
初耳だった。吹奏楽に憎しみを滾らせて、ではなかったのか。
「兄貴は人格ブッ壊れてます。思い付きでとんでもない事言いますから。先輩大変だったねぇ~」
いつもの事だが、先輩を舐め切ったこの態度。俺は、いつ永田さんがキレ出すかと冷や冷やしながらその様子を窺う。「まぁ色々と遊ばせてもらったかな」永田さんの様子には怒りの欠片も無い。
「右川さん、大学でもバスケやってるのかな」
「やってないっす♪」
〝右川先輩は凄かった〟
永田さんの口からその先どんな〝兄貴あるある〟が飛び出すのかと期待していたら、「あ!先輩、せっかくだから何かオゴってくださいよぉ♪」右川が永田さんの腕を強引に引っ張って、マックのカウンターに浚って行ってしまった。
お腹ペコペコで死にそうだったから……では絶対無いだろう。〝兄貴あるある〟そこに知られたくない何かがある。それで話題を反らした。それが手に取るように分かった。……いつか堀り返してやるからな。
〝チビの弱みを握って立場を逆転させる〟そんな新しいミッションが点灯。
見ていると、右川は苦笑いする永田さんの肩にもつれながら、2人仲良くマックの列に並んでいる。どういうやり取りをしているか知らないが、右川は永田先輩に何やら耳打ちして、脇辺りをツンツンと突くと、「わぁ♪」とばかりに弾んだ声を一段と高くフードコートに響かせて……これで、右川はバスケ側の人間と決まった。
右川と永田さんが仲良くなろうが、何処に浚われようがどうでもいい。だが、阿木は様子が違うようで。2人をどこか気にしているようにも見える。
そのうち、生徒会にあのチビは無関係だから考えてもしょうがないと諦めたのか、「それじゃ」と知り合い女子と他所に消えた。
「はい、写し終わりっ」
朝比奈から課題をどっさり渡される。こっちが気を取られている間に全部やってくれたらしい。
さっき、一瞬でも妙な勘繰りをしてしまった事が、急に恥ずかしくなってくる。全く、幼稚だな。
つい、「あ、ごめん」
「いえいえ。てゆうか、そこは、ありがとうでしょ?」
そう言いながら、朝比奈は課題の隅っこに、いつかの香り付きピンク色ボールペンで、思いっきり大きく俺の名前を書いた。書いてる途中から、アハハ!と、朝比奈の笑いが止まらない。
「それヤバいって。変態だと思われるじゃん」
こんなに焦ってるのに消そうとしてくれない。俺は朝比奈のペンケースを奪い、また奪われ、朝比奈が消しゴムを取り出したのでそれをまた俺が奪い、またまた奪われ、朝比奈の手が滑ってその消しゴムが転がって偶然ペンケースのもと居た場所にちゃっかり収まって、「また最初から?」と、それで急に可笑しくなってきて、目が合ったのを合図に2人で大笑いした。
朝比奈はボールペン字を消して、そこにちゃんとシャーペンで〝洋士〟と書く。
やっと2人になれたね……そう聞こえたような気がした。
まだまだ騒がしい周りを何処か気にしながら、テーブルの下、何が来ても揺るがないお互いの存在を確認するみたいに、両足を深く滑り込ませて触れあう。
「どこか……もっと静かな所に行きたいよ」
「そうだね」
だが今日は最強にツイてなかった。
こんな事なら、学校の図書館にでも居た方がマシだった!