なんで、おまえなんだ。
あの日より、俺は何度、自分自身に問いかけただろう。
俺は、黒板に背中を向けて、もう1度イスに座り直した。
目を閉じる。
あれから……およそ3ヶ月が経った。
思い出したくもないが、あの時、思いがけず、やってしまって。
右川に特別な感情など、これっぽっちもない。俺にはちゃんと彼女が……朝比奈がいるのに。魔が差したとしか言えない。理由を挙げればキリが無いだろう。ちょうどよく手がハマった高さ。微妙な距離感。店の妖しい雰囲気。
〝こんなに小さくて可愛い存在が俺を見上げて初めて無邪気に笑ったので〟
それで、つい……そんな綺麗な言葉をムダに並べて言い訳なんかに……使いたくもねぇよ!
俺は、断じてその唇を奪ったのではない。この、どチビに罰を与えたのだ。
自分にそう言い聞かせて言い聞かせて、神経をすり減らす毎日。もう激しい後悔の連続だった。有り難いと言えるのが、当の右川がそれを表ざたにする様子が無い。
〝右川の会〟と俺が密かに呼んでいる〝右川あるある〟は相変わらず存在していて、ことあるごとに頼みもしないのに周囲から奇行が知らされた。これが意外にキツい。どこに居ても右川に見張られているような気分になる。偶然、廊下で右川にばったりという事も、当然あった。右川は、ジトッと恨めしい目線を飛ばして、汚い物を避けるように俺の横をスーッと離れて行く。それ以前のように、沢村先生♪とヘラヘラ近づいてくる事は無い。当然と言えば当然、あれ以来1度も、先生♪はしていない。
そして……あの日より、俺は密かに確認を怠らなかった。放課後など誰を目当てか知らないが、バレー部の練習を見に来る女子は結構いる。体育館で右川を見掛けると、まさかと思うが俺を脅迫するタイミングを狙っているのかと……少々怯えた。俺の4組の教室にも、まるで普通にヘラヘラやって来たりもするもんだから、その笑顔の裏で一体何を企んでいるのかと、その顔を見る度に心臓が凍る思いがする。だが右川は以前と同じく、俺には一切構わず、サッサと立ち去った。それがずっと変わらない態度なので、ひとまず安心……この繰り返し。もうそろそろ終わりにしたい。
今日、今まで自分からは絶対に近づかなかったこの1組、右川のクラスに、清水の舞台に飛び込む覚悟でやってきたのには理由があった。〝平常心を取り戻すというミッション〟ある意味、これは禊ぎになる。
ともかくは夏休みを超えたその先、できれば2学期までも引きずりたくなかった。卒業まで思い悩むなんて正直キツい。もうこの辺で終わりにしたい。終わらせてくれ。ひたすら、それだけを願っている。
その右川だが……黒板、最後の1文字を消すのはもう諦めたようで、ツカツカと、こっちに向かってやってきた。
俺は思わず息を止める。平常心、秒殺。
右川は永田の前で止まった。
「声がデカい、顔がデカい、態度がデカい。エラそうなその態度。おーい、恥さらし♪」
コロコロと鈴が鳴るように涼しげに、歌いながら……罵詈雑言。
気持ちは分かるが、そのチビ体型でケモノに盾突こうという、その無謀なチャレンジには閉口する。
「永田くん、生きてて恥ずかしくない?」
人をコケにしたような物言い。全く相変わらず。まさに、右川カズミだった。
「うるせーぞ!てめぇ、どこのガキだ?!」
獲物を見つけて喜んでいるのか、永田には急に元気が戻って来た。
「右川ですぅ。この1組だよ~ん」
「あぁ?おまえみたいなツブ、知らねーワ」
「そう?でもあたし永田くんのこと、よく知ってるよ。女子の間ですんごい有名だもんね」
「え、マジで?」
何かを期待して、永田の頬が緩んだのも束の間、
「うんうん♪大丈夫♪女子が言うほど、ひどい顔じゃないから自信持ってね♪」
永田はもう我慢ならないと立ち上がり、「何だこのチビ!潰すぞコラ!」と、体当たりで右川をド突いた。筋肉のケモノ対毛玉のチビ。相手にならない。
ドン!と弾かれた右川は勢い余って、俺に向かって倒れ込んできた。
一瞬いつかのあの日が蘇りそうになって、慌てて俺は飛び退く。体が止まりきらないまま、勢い、右川は地面に倒れてしまった。
「痛い……」
次の瞬間、そこら辺が一斉に、「ひっど~い!」と声を上げる。永田と一緒になって何故か俺までもが女子の顰蹙を買ってしまった。成り行き上、仕方なく手を差し伸べると、右川は1度は手を取ろうとして……だがその手が俺だと分かると〝いらねーよ!〟という顔で無視して、スッと立ち上がった。
「ほらぁ、永田くん。女子に嫌われちゃうよ?せっかく毎日カッコつけてんのにさ」
勿体ないよ♪と、永田のズボンをポン!と軽く叩いた。
「これって、裾とか切ってるの?」
右川は、永田の足回りを指さした。ズリ落ちの制服ズボンを言ったのだろう。
「あ?」と、永田は不意を突かれて、しばらく呆気に取られる。「まぁ」と曖昧に答えた。
「これって、お母さんに作ってもらったの?」
「あ、まぁ」
「これって、ちょっと格好いいよね?」
「そ?」
「うんうん。永田くんみたいな筋肉質に似合ってる。かっけー♪」
「へへ。まぁな」
「これって、足が短くなったらどうすんの?」
空気が変わった。少なくとも俺はそう感じた。恐らく、ノリもだろう。すぐに目が合ったから分かる。
これは嫌味だ。ケモノを激怒に導く遠回しの嫌味だ。しかし永田は、まるで今までの質問と同様、右川が心底知りたくて訊いていると感じているのか、「えっと、そりゃー……」と答えればいいのか悩めばいいのか、本気で迷っている。俺はと言えば……爆発的に笑いが込み上げてきて、永田を直視できない。目を反らした。見ると、ノリも慌てて口元を塞いでいる。
「えぇ?永田くん、そういう場合どうするとか、考えてないの?」
「あ、あ……」
「せっかく格好いいのに勿体ないぃぃ~。あ、足が短くなったらベルトで調整すれば平気じゃない?やってあげよっか?」
まるで心配されているようにも感じているのか。怒りもせず、嘆きもしない永田だった。
俺の喉元が奇妙な音をたてた。冷静になれ、俺。
右川はニッコリ笑って、
「永田くんって、本当にバカなんだぁ。すっごーい♪尊敬!イケてる!双浜最強のモテ男めーッ!」
誉められているのか?馬鹿にされているのか?一体どっちなのか?
その笑顔に騙されて、永田は本気で混乱していた。一言一句、ニヤけたり憮然としたり、本気で分からなくなってきたようで……結果的に、バカさ加減を露呈した。俺もノリも、もう我慢できないと腹を抱えて笑った。
これが、右川の悪知恵の最たるモノ。そう言えば、前回笑われたのは俺だった。
口ではもう叶わないと感じたのか、周囲の女子にも笑われて恥ずかしかったのか、「どけッ!」と、永田は右川を押し退けて、廊下で立ち話をしている黒川の所に逃げた。永田に押された勢いで、右川がまたよろけると、そこでまた俺とぶつかりそうになり、これまたうっかり目が合ってしまう。今度は右川は転ばなかった。転ぶ寸前でその身を器用にひるがえし、ノリに向かって倒れ込む。優しいノリはちゃんと受け止めてくれて、「大丈夫?」と気を使ってもくれる。これも、おまえの計算なのか。悪知恵もここまで来ると一種の才能としか。
「ありがとぅ」と、右川は極上の笑顔でノリに向いた。
「もー、すっげー気持ち良かった!右川さん、最高だよ」
俺も同じ気持ちではある。だが、ノリほど素直には乗っかれない。
「ローライズはいいけどさ、下過ぎて、ポケットに手を突っ込んでカッコつけようとしても手が半分も入んないって、単なるバカじゃね?」
「それ言える!」
ノリと2人、楽しそうに〝永田あるある〟をやるのを聞きながら、俺は、ただただ眺めているだけ。立っている右川と、座っている俺。それでも比べてこの高さなのかと改めて驚くだけ。
右川は、ノリの視界を外れて、まるで汚いものでも見るように俺を1度だけ睨んだ。やっぱりまだ忘れてはいない。当然か。許されてもいない。当然だろう。
過去を表沙汰にする意志は無いが、忘れたフリをしてくれるほど優しくもない。
一生恨んでやるからね……そんな目をしていた。
「右川さん。僕、数学の課題見せてもらいたいんだけどな。先週の2次関数」
「うん。いいよ」と、右川は、打って変わって、ニコニコと返す。
「色々と頼りにしてるよ、右川さん」
「任せろってさ♪」
ノリに持ち上げられて、相当得意になってるが、右川が得意なのは数学だけ。
中間テスト、数学以外は全てが追試だった。補習も一筋縄にはいかない。帰りたい帰りたいと駄々をこねて、担任の原田先生を困らせているのだ。ニャハハハ!とか笑ってる場合じゃないだろ。
「そう言えば右川さん、今日から僕たち当番だよ」
「え?そうだっけ?イノウエさんは?」
ノリは肩を落として、「だーかーらー」と、右川がよく使う言い回しを真似た。
「このクラスにイノウエなんか居ないだろ」
ノリを先回りして俺が突っ込むと、右川はあからさまにそれを無視した。当番と言う役割をゴマかそうとした事が明白で、呆れて物が言えない。
ノリはオドけて、右川の額寸前にピシッと手を差し込むと、
「もうええわ、とか言わなきゃ♪」
「ええ加減にしなさい、じゃなくて?」
今度は〝関西芸人あるある〟が始まる。右川と、また視線がぶつかった。またしてもヒンヤリと冷たい目線を俺に浴びせてくる。ノリには極上の笑顔。俺には凍りついた一瞥。〝あるある〟の最中、偶然に目が合ってしまう以外、右川は徹頭徹尾、俺を無視した。ノリが一切それに気付かないように……要領の良さもここまでくると罪だな。
「今からプリントもらってくるね」と、ノリを連れて、右川は自分の仲間の所に向かっていった。席は1番前の列のようだ。当然と言えば当然、チビだから。
今まで、右川が普段どんな仲間の中にいるかなど考えた事もなかったが。
見ると、1組では割りとおとなしい感じのグループに収まっているようで、それが意外と言えば意外に感じる。4組で俺と同じクラスの女子も来ていて、ノリを目で追っていた俺と視線が合った。ぎこちなくも一応クラスメートという認識で、曖昧に反応しておくにとどめる。顔だけは知っているという範疇だが、ナカチュウ組も何人か、その輪の中に居た。どれも、あんまり目立たない奴ばかり。俺は話した事すら記憶にない。そんな大人しい奴ばかり……バカにしているという訳ではないが、誰も彼もがガキっぽく映る。多分、てゆうか、彼女も彼氏も居ない。当然、経験無しだろう。そんな事考えた事もありません、と聞いても頷けそうな位、無邪気な……幼稚な集団に思えた。黒川のように、ヤッたか?ヤッたか?と不躾に突っ込む輩もどうかと思うが、そういう話題に乏しく、刺激が無さ過ぎる仲間というのも退屈で仕方ない気がする。
1番驚くのが、ノリがその中に居て、相当、馴染んでいる事だった。