3セット。
15点先取でチームの勝利となる。
このセットにハンデは与えていない。それなのにバスケ側の得点は、あっという間に10点を超えた。
まさかこんな事になるとは……「そんなバカな」別れを惜しむかのように、俺は、つい頭を撫でる。
11対7
右川と前衛で向き合えば、「お困りですかぁ?」と、ヤツはネット越しにヘラヘラと笑い掛けてきた。首を傾げてオドけて見せる。憎々しい。ネットの向こう側、こっちが手を出せない事を100も承知なのだ。
「つーか、あんたさ、またやってくれたよね」
「は?」
「追試のこと、なんでアキちゃんにチクるかな」
「それか。だって事実だろ」
「へぇ。事実なら……言っちゃってもいいの?」
その謎めいた響きが、やけに耳障りだ。
「あっれ~?朝比奈さん、どうしちゃったのかな。さすがにショック。怒って帰っちゃったかなぁぁぁ」
もうさっそく嫌な予感が頭を巡り始める。
チビを3秒……いや10秒よりは長く、穴のあくほど見つめた。
「まさかおまえ、いつかの事。朝比奈に……言ったのか」
「だって事実だろぉ♪」
右川が、これ見よがしにペロッと舌を出す。
一瞬で体中の血の気が引いた。事故みたいなウソのような出来事。それは確かに事実とはいえ、「なんで今になってバラす……」俺を責めるならまだしも、朝比奈に言いつけるとは、おまえはそこまで真っ黒だったか。多少なりとも右川の良心を信じて、油断した俺がバカだった。
今なら分かる。俺の裏切り。それで、あの涙。みんなの手前、朝比奈はバレー側に付いてはみたものの、俺を応援する気には到底なれない。次第にそれは怒りに変わって、俺に当てつけるみたいに永田に貼り付く。そして、朝比奈は消えた。
右腕が震えている。暑さも何も感じなくなった。落ちる所まで落ちた血の気は次第に体中を巡り始め、出口を求めて、最後は怒髪天を抜けていく。おまえは俺を本気で怒らせたな。2度も!
「言っていい事と、悪い事があるだろう!」
右川とネット越しに対峙した。
「そうだよ!あんたがチクってくれたおかげで、ウザい親父までデバってきたじゃんか!」
「あれだけ酷い成績なら当たり前だろ!ボールで遊ぶな!家で大人しくしてろ!学校なんか来んな!」
「はいはい。学校なんか辞めてやるよ。グレたら、あんたのせいだからね!」
「その気もないクセに人騒がせなハッタリかましてんじゃねーよ!」
「言っとくけど!坊主はハッタリじゃないから。あんたの首の根元からザックリ剃り込んでやる!」
「そっちが負けたらおまえも坊主だ!女だからって容赦しないからな!」
ピュー♪と、審判の笛が鳴った。
「はい♪タッチネット♪ごくろー♪」
俺をアザ笑うかのように得点が加算された。右川は親指を突き出す。
「やるじゃん!チビ太郎!」
「軽~るくボコっておきましたぁ♪」
永田と右川の2人は、腕をクロスしてお互いを讃え合った。俺を見て、2人揃ってケケケ♪と笑う。
もう我慢できない。
もうキレた。
もう誰も俺を止められない。
ノリ達には頼らないと決めた。俺は独りでも戦うぞ!
サッサと終わらせて、すぐに朝比奈を追いかけて、もう叩かれても謝ってでも土下座でも!
勝負は俺1人対バスケ部6人の様相を呈した。不思議な事に、誰もアテにしなくなった途端、どういう訳か今までと違って打ちやすいボールがメンバーからホイホイ運ばれてくる。ノリもみんなも、何だか調子がいい。土壇場で戻ってきてくれたのか!
あっさり、こちらがマッチポイントを迎えて、試合終了は目前となった。
「おいこらッ!沢村ぁ!こ、こうなったらバスケでやろうぜッ!?」
「ふざけんな!黙ってろ!」
真っ青になる永田を無視。素人同然の相手に手加減無しだ。
パワー全開。死ぬ気MAX。
最後の1点。俺は右川を狙い討ち。
憎々しい顔面に、次期エース最強のアタックをブチ込んだ。

右川は、合宿所の休憩室に運ばれた。
鼻血が出ただけで、どこが悪い訳でもないけど。(その根性は最悪。)
もう11時を回っていた。
体育館の外は昼間と違って、異様な静けさを漂わせる。
負けた側の永田は、右川の鼻血騒動に紛れて、逃げるように帰って行った。今頃、兄貴に慰められているか、あるいは厳しい説教を食らっているかもしれない。右川の鼻血は一応自分のせいなので、部屋の前まで来てみたら、入り口付近にはノリ、バレー部その他のメンバーが勢揃いしている。
そこで初めて……ノリから、俺にだけ隠されていた事の真相を聞いた。
この対決、ミッション〝バカをお仕置き〟。
永田先輩からの依頼だという。文字通り、驚いた。
「バレー部は元より、2年3年を巻きこんで、みんな頭に来てる。だから兄貴として弟をどうにかしろって……言われちゃったんだって」
永田先輩も弟の行状にすこぶる頭を抱えていたと、それは事実らしい。
ちょっと下に見ているバレー部に、それも女子が絡んで今1番負けたくないであろう沢村に、けちょんけちょんにやられて坊主頭にまでなっちゃったら、それはもう格好悪くて恥ずかしくて、女子の手前、少しは大人しくなるんじゃないかと……女子とは、恐らく朝比奈の事だろうな。
「だから夏の体育館を明け渡すっていうのはウソだよ」
だろうな。
「そんなの永田さんが言い出す訳ないよな」
「つーか、今度の作戦を提案したのは右川さんだけどね」
「は?」
「バカを1回ドン底に落とそう!ってね」
またしても、これも右川か。
曰く。

「まずはバカを信用させて試合に持ち込もう。これはちょっといい考えがあるから、あたしに任せて」
試合はバレー部が1セット勝って、2セット負けて、3セットはまた勝って。
……というシナリオで。
「対決の件、沢村には直前に伝える事。誰かに確かめる余裕を与えちゃダメ。直前!」
「大丈夫かなぁ。洋士は鋭いよ。言葉尻で疑って突っ込んでくるし」
「大丈夫。ちょっと褒め殺して持ち上げればイケる。あーいうのはバカより、ちょろいから」
それでもまだ自信が無いと躊躇するノリに、
「絶対に疑わない。沢村は……ノリくんには誰より、絶対的な信頼を寄せてるから」
ノリはこの1言で撃ち抜かれたらしい。
「バカにお仕置きは兄貴の命令なんだから、みんな3セットは思う存分やるように」
だけど坊主になるって可哀想じゃないか?いくら永田でも……そんな情けを見せるメンバーも居たらしいが。
「バカは今だって坊主と大して変わんないんだから、ちょっと深く剃るぐらい平気でしょ」
そこで右川はケケケ♪と笑って、
「本当は、沢村が坊主になるほうが面白いんだけどね」
ニャハハハ!

「すんごく楽しかった!」
ノリは、いつかの嬉しそうな笑顔をここでも見せた。「1セット10点差でも余裕で勝てたから3セットも大丈夫だよって、右川さんに合図したんだけど、分かってくれたかなぁ」
怪我をした訳でもなければ、サポーターがズレ落ちた訳でも無かった。
「今、俺は、分かったよ……」
唖然とするしかない。
「けど朝比奈さんが、永田の応援を始めた時は驚いた。あれは知らなかった」
「あのさ、もう聞いた?」と、ノリは、またいつかのように謎めいて来る。
「それ、もういいっていうか。ちょっと朝比奈に用事があるから、俺はこれで」
「あ、待って!朝比奈さん、中に居るよ」
それには驚いたし、動揺も隠せない。
「本人から、ちゃんと聞いた方がいいよ」
ノリは、右川と同じ事を言った。やっぱり見過ごせない何かがあると、それは強く感じる。
ノリらしく気を遣ってくれて(?)、みんなを引っ張って合宿所に戻って行く。中に入るとノリの言った通り、朝比奈が、畳の上に寝転ぶ右川の側に付き添っていた。右川は鼻に何やら詰めて、一見痛々しいが、よくよく見ていると気持ち良く熟睡している。ここで夏バテと睡眠不足を解消しているとしか。
「これって、洋士のジャージだよね」
第一声、思いのほか、その声が明るくてホッとした。
「このチビが勝手に盗んでさ」
「ずいぶん汚れちゃってるけど」
「鼻血を飛ばしてくれたか」
「見て、あたしも」
朝比奈は自分の白いワンピースを示した。胸の辺りに、小さな粒のような赤いシミがある。
「それ絶対取れないよ」
俺の右肩、永田が付けてくれた血も、取れないで黒く固まったままだ。
「さっき水で濡らしてもこんな感じ。ダメだった」
そんな何でもない会話が、いつもと違ってぎこちない。
俺は覚悟を決めて、聞けずにいたあの日の事を、朝比奈に訊ねた。
あの日。
永田さんと2人で居た、あの日。
弟の片思い……そんな話はさすがに俺の前では出来ないと、永田さんは朝比奈を独り呼び出した。
「立ち直れないぐらいに、振ってやってくんないかな」これ以上暴れると彼女に嫌われる、ズバリ脅してくれないかと、永田さんは朝比奈に荒良治を頼んだ。そこに右川が便乗して今に至る。
「あのね。2学期から、また転校することになっちゃった」
そんな事を、永田の話に続けて、何でもない事のように……朝比奈は言うけど。
それを芯から理解するには、俺には少し時間が掛った。
夏休みとか2学期とか、秋以降のこれからとか、その辺りまでしか頭に無い。来年とか受験とか進学とか、それ以上、俺の思いつく限りの領域に、朝比奈が居ないという事実が存在しなかった。
「部活やってるとこ見るの、もう最後なのかなって思ったら。ちょっと泣きそうになっちゃって」
最後まで言えなくて、朝比奈の頬に涙が伝うのを見た時、やっとその事実が胸に迫ってきた。
「洋士の坊主頭、最後に見たかったな」
そうか、と、言ったか言わないか。何を言えばいいかも分からなくて、右川の満足そうな寝息を2人でジッと見ている。そろそろ日付が変わる。そこから朝比奈を家まで送った。
今日という1日の最後に、さよならとも、ありがとうとも取れるキスを交わして。