その夜。
夕飯を終えて、ミーティングを終えて、くたくた。
後は泥のように寝るだけ……午後9時。
朝比奈に『8月5日って、空いてる?』とメッセージを送ってから2時間が経った。何の音沙汰も無い。これじゃ確かめようがない。スマホを眺めて溜め息をついていたそこに、ノリが慌てた様子でやってきた。
手招きして、俺だけを外に連れ出すと、
「洋士、大変だよ。バスケ部が殴り込みだ!」
「殴り込みって……それは昼間にすっかり終わっただろ」
正式には殴り合ってもいない所で終わったが。
「いやだからそれが。今度は正式に!公認で」
何の事か分からず、とりあえずノリに引っ張られるまま体育館にやってきた。真夜中になっても煌々と、何の熱気を帯びているのか、フロアは異様なオレンジ色に発光している。
さっそく目に飛び込んできたのは、つい夕方に激しく掴み合った永田と、やっぱりつい夕方にぐったりでノリに介抱されていたと思しき印象などすっかり消失したまるで別人の……右川カズミ。
「沢村ぁッ!オレと勝負だッ!」
「いやっほう!勝負だぁ♪」
でこぼこコンビ。仲良く仁王立ちのツーショットだった。
「オレらと、バボちゃん対決だぁッ!!」
1年バスケ部員が永田を入れて計5人。それでバレー部を迎え撃つ、とか言ってるけど。そっち5人?
6人制のルールもへったくれもあったもんじゃない。ニャハハハ!と笑っているが、ノリのおかげでそこまで元気になってよかった……な訳ないだろう!
「仮病か。仮病だな。仮病なんだな。またそれ俺のジャージ……脱げ!」
本気で心配したノリがまるでアホじゃないか。そのノリだが。「みんなに声掛けてきたよ」とかって笑ってる場合なのか。バレー部側だと、俺を入れて、ノリ、黒川、その他含み1年の計9人がいつのまにか勢ぞろいしている。「工藤は?」姿が見えなかった。「準備でもしてんのかな」「おれもアップしとこ」「てめぇらの心臓を捧げよ」「何か燃えるなぁ」などと言い合い、何気に熱を帯びてくる。
「オレ?やる気だよ。そこそこな」
そこそこシラけている黒川は相変わらずのようで。「面白そうだから見てる。だってこっちが負けたら、沢村が坊主になるんだろ?」それを聞いて、俺は足許から崩れそうになった。
「何だそれ。んな事言ってないし」
「洋士。それなんだけどさ」
ノリは改まって、俺の肩に手を置いた。
「腹を括ってよ。洋士の頭だけじゃない。みんな、この夏を賭けた……」
聞けば、俺と永田の小競り合いに端を発し、その裏ではバレー部とバスケ部の夏の場所取りという因縁の対決に発展。この勝負に負けた側は、8月の体育館使用を明け渡すという約束に決められて。
「そんな無茶苦茶な!」
そこへ、空気が流れるように、集団が塊になって体育館に入って来たと思ったら……いつも存在感の薄い現生徒会長が、威風堂々と手を振りながら体育館に乱入。松下さんと永田さんも、それに続いてやって来た。
松下さんと目が合った。俺を見て、1度だけ深く頷いて……悪いな?頼むぞ?
どっちにしても、後戻りのできない覚悟を決めたように見える。その隣で永田さんが、これ見よがしに腕組みした。俺を睨んでいるとハッキリ分かる。その隣で現生徒会長が親指を突き出した。「締まっていこーゼ」って、それ野球だし。見物人が勢揃い。雁首揃えて。万が一、負けたら……本気で夏を取られる。
急に寒気がしてきた。夏だというのに。
生徒会公認。まさかと思うが、永田のヤツ、来年までも待てないと、生徒会に直談判して持ち込んだのか。
「どうすんだよ。何かの間違いで負けたら……」
「大丈夫」って、やけにノリは落ち着いているけど。
「松下先輩が、こっちはバレー部の次期エースがいる。負けるはずがないって」
次期エース。
「そういや工藤は?何やってんだ」
「そうだよ。工藤のバカは何やってんだよぉ。呼んで来いよ」と、黒川がノリに詰め寄る。
ノリは目を逸らした。「おい……」さすがの黒川も呆気に取られる。10年来の長い付き合いだけど、誰かをガン無視するノリなんて、俺も初めて見た。
やれば出来る子じゃないか。そして、黒川にはソレと分からないように、意味深に、俺にだけ見えるように2度ほど頷く。それは、松下さん以上の期待感を滲ませた。
てことは……松下さんが言う所の次期エースって、俺?工藤を差し置いて?俺?でいいの?それは何か違うんじゃないかと胸内では否定しながらも、「あ、や、それは何ていうか」口元は別の方向に勝手に緩んでくる。
「早くしろよッ!」
バレーボールをバウンドさせて、「へいへい、こっちは準備万端だゼぇ」と永田が煽る。
「そしたら工藤が来るまでは、俺らで繋ぐって事か」成り行き上、俺はノリに加勢した。ノリと、3秒ほど見つめ合う。10年来の長い付き合いの中でも、これほど熱い瞬間は滅多にお目にかかれない。
が、
「頑張れよぉ。もし負けたら体育館どころか、おまえの坊主頭がこの夏、プールに浮かぶんだから」
がはは!と黒川に笑われて覚醒。
「てゆうか、なんだよそれ」
「な、なんか。成り行きでそうなっちゃって」
「成り行きって。何でそんな約束するんだよ。俺に何の確認もなく」
「いや、それは」と、ノリは口ごもった。
黒川は笑って、「そうだよ。体育館どうなるんだよ。沢村の坊主頭はどうにでもなるけどさ」
「そこが1番ならねーよ!」
「いや、黒川が言いたいのは」ノリは慌てて、「バレー部の練習場所まで関わってくるとなると、話は違うという事で」と、少々説明的な所は気になるが、「そんな事は俺だって分かるし」
「洋士、とりあえず何とかがんばろうゼ」
「ノリ、なに密かに、そこまでやる気になってんの」
ゼ……とかって。
おまえの口から、そこまでの意気込み、初めて聞いた気がする。
「大丈夫。洋士なら勝てる。負ける気がしない。真面目だし、一生懸命だし、みんなそれを認めてる」
僕は信じてる……聞いているうちに、俺は我慢できなくなった。頬が自然と緩んで、正直、熱い物が込み上げる。さっきまでノリを右川に取られたと感じていただけに、その言葉の甘い魔力に舞い上がりそうになった。
「お!オンナも応援に来てんぞぉ」
黒川がアゴで指す方向を見ると……驚いた事に、朝比奈が居る。
夏らしい涼しげな白いワンピースに身を包み、髪の毛をくるっとまとめて斜め後ろに留めていた。わずかな風に遅れ毛が揺れて、それを指先で遊んで……そんな姿が新鮮で、つい見とれてしまう。
俺と目が合って、小さく手を振ってくれた。それだけで、夏の暑さとも違う温度に自分が優しく包み込まれたように感じられて。もしかしたら今頃返事が来ているかもしれない。今すぐ駆け寄って、さらってしまいたい気分だが……そうも行かないだろう。
朝比奈はすぐに永田さん達を見つけて、にこやかに挨拶なんか始めた。会長を挟んで松下さんの隣に落ち着いた朝比奈を見て、バスケ側では無いと……それは確実な気がするけど。しかし油断できない。永田さんは腕組みして、今もまだ俺をジッと睨んでいる。挑戦的な態度は相変わらずだった。朝比奈の事を含み、弟側に堂々と便乗して、バレー部への嫌がらせに加担しているとしか。
俺の事情。この対決、本命はバカの方じゃない。
「永田先輩か」
俺は、さっきまでの俺ではもうなかった。心なしか浮足立っている。朝比奈もノリも、俺の元に戻ってきてくれて……もうそれだけで、この試合、どうにでも転がしてやれという勢いが湧く。
さっさと終わらせて、早く2人きりになりたいし。
「永田先輩じゃないよ。これを提案したのは、右川さんだから」
急に雑音が飛び込んできた。
「は?なんでここで右川だよ」
「ほら、右川さん、メンバーにも入ってるし」
メンバーって……バスケ側は5人しかいない。「まさか、右川を入れて6人か」「うん」
それだと確かにバレーのルールには則っているけれど。「ウソだろ。脳ミソ溶けてんのか」
見れば、右川は永田率いるバスケ軍団に張り付き、メンバーの一人を捕まえて、フリースロー特訓に躍起になっている。さっきまで喜々として、ノリにパスを教わっていたくせに。この浮気女め。
「分かんないけど勝つ気でいるよ。バスケ側はハンデとして10点欲しいって言うし」
ハンデ10点。右川を入れてそこまで具体的な話になっている事に驚いた。
「永田の奴、バカが昂じてヤケになってんじゃないか。いくらハンデがあったって、右川みたいなド素人が入るチームに俺らが負ける訳ないだろ」
「甘く見ないほうがいいかも。なんか怖い相談してるみたいだし」
「怖い相談?」
「ミッション〝超・弱小バレー部殲滅。これで坊主の彼女は俺のモノ〟」
「永田のヤツ!」
「てゆうか、名づけたのは右川さんみたいだけど」
「あの、くそチビ!」
で、それは具体的にどういうミッション?
「それは知らない」
ノリは早速、試合開始を知らせると言って、バスケ部側に向かって走り寄った。
段取りが良すぎる。展開が早すぎる。テンションが高過ぎる。
どれを取っても、何か変だ。
何より〝万が一、負けたらバレー部に8月は無い〟というハイリスクな賭けに、この場に1人も居ない3年バレー部の先輩は本当に承知したのか。すっかり覚悟の上で同意したのか。そうだとして、何故3年の誰1人として様子を見に来ないのか。
そしてノリは……さっきまで仲良くしていたはずの右川が、急に手の平を返したようにあちら側に付いた事には何の抵抗もないのか。昨日の味方は今日の敵。チビなんか、どうでもいいと言えばどうでもいいけど。
すぐに試合が始まってしまったので、この時はどれを確かめる余裕もなかった。(悔やまれる。)
未だ、工藤は現れない。