そこへ右川がやって来た。
見ると、しっかり上はTシャツ。下はよく見る長袖ジャージ・ズボン。いつもの大きなリュックを、体育館の隅にドカッと下ろす。
「こんな時間に何やってんだ」
聞けば、バレーをやりたいらしい。「あ、この無駄に長いジャージ借りたよ♪」
よく見たら、「それ、俺のだろが!」
アルファベットで、しっかり俺の名前が入っている。どこからどうやって、いつの間に盗んだのか。
「ごめん。僕が渡しちゃった」
へらへら笑っているノリを睨んだ。「すぐ近くにあったから。ごめん」
謝ればいいってもんじゃない。「俺が嫌がる事分かってんだろ」
右川は、ジャージの裾をグルグル巻きにして、ヒザ上まで上げた。そこだけがまるで輪っかの飾りのように不自然に膨らんでいる。長さに無理がある証拠だ。
「これ、ちょっと切ってもいい?」
「いい訳ねーだろ」
右川は、引き上げたウエストの辺りをクンクンと嗅いで、俺の衛生観念を疑ってくる。
「何だよ。借りといて文句か」
「なんか、いい匂いするね♪」
「だったら、そういう顔しろよ」
しばらくクンクンと犬のように嗅いでいた。匂いフェチか。変態め。
すぐに右川の興味はノリに向いて、ちょろちょろとボールに遊ばれ始める。
「右川さん、そういう打ち方だと突き指しちゃうよ」
「それじゃ、こう?」
「こう」
「え?こう?」
「こう」「こう?「「うん。前より良くなったじゃん」などなど、ノリに丁寧にパスを教えられていた。
「回転レシーブってさ、どうやんの?ノリくん、ちょっとやってみてよ」
「そんな言われてなんて……(恥ずかしくて)やれないよ。うっかり回っちゃう事はあるけどね」
「回転アタックは?」
「そんなマンガみたいな技、もとから有る訳ないだろ」と、訊かれた訳じゃないが、俺が答えた。
それを右川は全く無視して、
「回転レシーブ、あたし、やってみたい♪ノリくん教えて」
ノリはお手本だと言って、無邪気に転んで見せた。それを見ながら、右川も無様に一緒に転んで見せる。
俺はただ独り、ボールを床にバウンドしながら、2人を斜めに見ていた。
2人は、俺など眼中にないと言った様子で、転んだ格好がお互いに面白いと、楽しそうに笑い合っている。
いつかのように2人を疑う気持ちは、もう無い。ノリは彼女と、うまく行っている。だとしても……右川とノリ、怪しい2人とは見えないが……いくら何でも仲が良すぎるように思うのは、俺の気のせいだろうか。ノリはどこの女子と居る時だって、これほど楽しそうに笑う所を、俺は見た事がない。彼女の前で照れくさそうにする所はよく見たけど。
「練習の邪魔すんな。あっちでやろうぜ、ノリ」
離れた場所にノリを引っ張った。白状しよう……ヤキモチ、かもしれない。
俺にノリを取られて、ぽつんと独り取り残されても尚、右川は歌を歌いながら楽しそうに壁打ちを始めた。そんな右川を、ノリはずっと気にしている。俺に向けられるトスは、まるで意識が飛んでいるのだ。
「もうちょっと高く上げて」「次はクイック」「バックトスも」
立て続けにノリに命じて、その注意を何とかこっちに引きつけようと俺は頑張った。白状しよう……ヤキモチ、決定だ。
俺との練習に一区切りついたと勝手に判断して、ノリは早速、右川に向かった。おーおー、嬉しそうに。
「右川さん、トス上げてみる?」
ノリは、右川の滅茶苦茶トスに食らい付いてアタックを決める。1度、勢い余って転んでしまい、「これがまるで回転アタックだよ」と転んだままの状態で大笑いした。次は2人でレシーブの応酬。右川がめちゃくちゃ寄越すボールをノリが取り切れないで、頭で弾かせた。
それを右川が偶然レシーブで受け止めると、
「うまい!右川さん、うまいよ」
ノリにおだてられて、
「げ、すごくない?もう30も続いてんだけど!ニャハハハ」
おーおー、嬉しそうに!チビの声が弾んでいる。
「球がどこに飛んでいくか分かんないから、いい練習になるんだよ。洋士も一緒にやろうよ」
ノリは、独りぽつんとしている俺に気を遣ったのだろう。
「いいよ。俺は」
どうしてもそういう気分になれなかった。
その時、横からバスケットボールが急に飛び込んできて、2人のラリーが一時中断する。
「惜しい!あとちょっとで100だったのにぃぃぃ」
右川が悔しそうに地団太を踏んだ。ザマみろ……と思うより先に、その妨害ボールの根源、バスケ部1年軍団を目線の先に捉える。バレー部が合宿中と聞いて、さっそく茶化しにやってきたか。
バスケ仲間を真っ二つに割りながら、どけどけ!と、永田が乱入してきた。
「ノリきちが邪魔だッ!」
ノリをドスンと突き飛ばす。倒れかけたノリを、右川が咄嗟に手を伸ばして支えようとしたらしいが間に合わない。そのまま床に叩きつけられて、ノリは顔を歪めた。
「ノリくん、大丈夫?」
「ちょっとグニったけど、平気」
永田はノリの横を何度も素通りする。だが謝りもしない。俺はといえば、怒りでどうにかなりそうだった。今までずっと耐えてきた。もう、いいんじゃないか。とっくに我慢は限界を超えている。
俺は、3on3を繰り広げる連中を横切って、その動線を断絶した。
「バレー部のディフェンスを突破しろぉッ!デカいだけだ!怖くねぇッ!」
仲間を焚きつける永田を捕えて、その胸倉を鷲掴み。
「いい加減にしろ!」
永田の動きがぴたっと止まった。緩やかに周りも止まる。気付かないままプレーを続けていた奴がシュートを決めて、それを最後に誰1人動く輩は居ない。
「この時間は自由だッ!バレー部がエラそうに文句言えんのか!」
「今日はバレー部が優先だろ」
「ルールはオレ様だッ。オレ様ルールに従えッ。今は取ったもん勝ちだぁッ!」
永田は俺の手を振り払って、「おら、力づくで来いよッ!」いつかのようにファイティングポーズを取った。
うりゃッ!
俺の肩の付け根に、永田が一撃。それは皮膚を突き破りそうな勢い。
ネットに押し付けられたお陰で倒れはしなかったものの、その拳の強さは鎖骨にまで響いた。
「オンナが絡んで、永田のパワー倍増だな」ボールを指先で遊ばせながら、バスケ仲間の1人が笑うと、「こうなったらガチで決着つけろよ」「5分で沢村が泣く方に1000円」「オレもそっちに1000円」「オレは3分に1000円だ!」「賭けになんのかよって」周囲は声を合わせて笑う。
引き下がれないとは、こういう時を言うのだろう。
俺は永田の頭を上から押さえ付けた。髪の毛を掴んでグイと引っ張る。永田の目つきが、一段と鋭くなった。肩を掴む永田の指が、震えながらも深く食い込んでくる。それは痛いというより、熱い。
永田に押し付けられて、ネットがますます歪んだ。それに取り込まれていくうち、まるで自分が蜘蛛の巣に捉えられた生贄のように感じる。永田の爪に千切られて、白い体操服には血が滲んだ。激痛……血の涙を流すのは、確実に俺だ。
急に、背後のネットが下に引き伸びる。「右川さん!」と、ノリが叫んだ。見ると、右川がネットに体を預けて、ぼんやりとこちらを眺めている。その目が何だか虚ろで様子がおかしいと感じていたら、ネットに絡まったまま、その手に力が無くなって掴む事も出来ないという状態のまま……そのまま真下に倒れた。
ノリが慌てて駆け寄ると、「熱中……かもしんない」と、右川が弱弱しい声で訴える。そう言われて見れば、確かに顔が赤い。ノリは右川をその場にゆっくり横たえて、「僕ちょっとタオル濡らしてくるよ」と声をかけた。俺と永田を交互に見て、さっきまでの勢いは無くなったと判断したのだろう。
「喧嘩してる場合じゃないでしょ。右川さん、ちゃんと見ててあげてね」
そんな事を言って体育館を出て行った。こういう気の使いようが、ノリだな。
次元の異なる事態に、俺と永田だけが居場所を見失って取り残されている。
俺の手はすっかり力が抜けて、永田の頭に、ただもう乗っかっているだけ。見ようによっては、まるで永田の頭を撫でているようにも見える。永田は永田で、とっくに萎えて、まるでエールを送るようにその手は俺の肩に、やっぱりただ乗っかっているだけだった。どちらからともなく離れた。
「面倒くせー……」バスケ軍団は毒付いて、抜け殻のような永田を取り囲んで体育館を出る。
急に辺りが静かになった。
広い体育館に、床に仰向けに転がった右川と俺の、2人だけ。
「はしゃぎ過ぎなんだよ」
右川に対して、自分でも驚くほど優しい声が出た。具合が悪いという人間に悪態も付けないし。またケンカに水を差してくれて、正直助かったと……ホッとした事もある。
「本当に熱中症かよ」
疑う訳ではないが、仮病?まさかと思うが、俺と永田の争いがこれ以上大きくなる事を気にして?
そんな気の利いたヤツだろうか。
「たぶん。なんか……夏バテかな。勉強しすぎ、とか」
横たわったまま、右川は弱弱しく笑って見せた。腕を額に乗せて目を閉じて、ジッと耐えている右川を見ていると、こんな病人を疑う俺は何て非情な人間なのかと落ちてきた。体育館の隅っこに置き去りの右川の荷物を運んでくる。リュックは一体何が入っているのか。これがまたかなり重い。
それを開いて探っていると、課題やら何やら、色々出てきた。その中に当然というか下敷きを見つけて、成り行き上、それで扇いでやる。見ていて何となく気になるという理由で、膝の輪っかを解いて、くるぶしまで伸ばした。(結果的に、くるぶしは越えた。当然だ。)
「少し休んだら楽になるだろ」
右川は小さく頷いた。
扇いで送られる風は、何だか生温くて、外の方がマシな気がしてくるけど。
立ち上がったついでに取って来たアクエリアスを、「飲む?」と右川に渡してやった。右川は寝転んだままの状態で、顔だけ横向きになり、素直に一口飲む。
「もうちょっと飲んだ方が良くないか」と言うと、これまた素直にゴクゴクと、かなり飲んだ。
「ね、あれから何か聞いた?」
「そんな話、もういいだろ」
「朝比奈さんから、ちゃんと聞いた方がいいよ」
アクエリアスを返されて、成り行き上、右川と見つめ合ってしまった。
いつかの事はもう許されている、そう信じて疑わない程、右川の目は真剣そのもの。
「おまえは一体何を知ってんの」
「だーかーらー……それは、本人から聞いてって」
「聞くって言っても」
返事は一切来ない。
「ノリくんから聞いちゃダメだよ。ちゃんと、朝比奈さんから聞かないと」
共通の何か。ノリも知っている、という事か。
そこに、ちょうどノリが戻って来た。濡れたタオルを丁寧に折り畳んで、静かに右川の額に乗せる。
ノリと右川。何やら事情を知る2人。ここではっきりさせるという手もあった。だが俺達の……そんな大事な事を第3者から聞くっていうのもどうなんだ。確かに、そう言う事なら、朝比奈から直接聞く方がいい。まるで右川の言いなりになるみたいで落ち着かない事この上ないが。
「水か何か、飲んだ方がいいかもしれないよ。僕ちょっと買ってくるね」
「あ、大丈夫。今もらったよ」
俺がちょうど飲んでいた所に、2人の視線が集中した。ノリの場合、妙に意味あり気に見詰めてくれる。
「そりゃ恵んでやるよ。病人なんだから」
言い訳がましく放ったものの、何となく居たたまれない。「ジャージ、ちゃんと返せよ。切るな」と言い残して、俺はその場を去った。今頃、体育館ではノリと右川が2人きり。良かったのかどうか、今となっては分からない。
思えば、その頃なんだろう。
いつもそうだ。俺の知らない所で、陰謀は着々と進む。
その日の真夜中、夕方の熱中症がまるで嘘のような元気一杯で、右川がやってきた。