本格的に夏休みに入った。
朝から、バレー漬けになる。
今日は外のコートに居続けで、猛烈な暑さが体力も思考力も奪った。
すっかり全てを奪われた気分で居た俺は、この暑さに乗じて、何もかもが蒸発しても不思議ではない。体育館を生き生きと独占するバスケ部が目の前にちらつく。「夏はもらうぜーッ!」と勇ましくシュートを決めた永田バカより何より……いつもと変わらない永田先輩が気になってしようがなかった。淡々とディフェンスをかわし、兄弟対決も難なくスリ抜け、余裕でゴールを決める。元のフォーメーションに戻る過程で、俺と目が合った……ような気がしたけど。何度も目線を送っているのに、1度も目が合わないというのも不自然な気がする。
あえて無視ですか。
気持ちを切り替えようと頭から水を被って、俺はコートに戻った。
そろそろお昼だという頃、午前の練習に終りが告げられる。金網越しの歩道を行き来する生徒の数が急に増えたような。制服姿から察するに文化系クラブだろう。コンビニを狙ってなのか、みんな足早に通り過ぎていく。制服の群れの中にただ一人、金網を握ったまま頑として動かず、俺達の練習をジッと覗いている女子がいた。
右川だった。
見学か。何の?
何か訴えられているようで、さすがに気になって、「何見てんだよ」と、声を掛けてしまった。
「別に何も」右川は横を向いて、「つーか、英語の補習授業っすよ」
「気取って言う事か。で、期末はどうだったの」
山下さんも気にしてた。それは言ってやらない。
「だーかーらー、いつも通り。数学以外は追試。だーかーらー。7月中はずっと原田の補習授業」
やっぱり。だが右川がやけに嬉しそうに見えたので、「ずいぶん勉強熱心だな。暑いのに」
「ま、ね。グラマーは今日が最後なんだけど、長文読解で宿題がドーンと出ちゃってさ」
と、やっぱり嬉しそうだった。それが妙に癪に障る。
「俺はもう助けないからな。ギョウザはいらない。自分でやれよ」
「は?もうあんたなんかに永久頼るかっつーの。足の短い天狗め」
そうしてくれ。
「あのさー……あれから、何か聞いた?」
また来たか。
「聞いたとして。おまえになんか言うか。バスケの回し者が」
悪態をついたものの、すぐに〝あれから〟というくだりが気になった。
「おまえも、こないだ見ただろ。2人で居るとこ」
右川の反応を横目で窺う。その目には奇妙な色が浮かんでいた。
「あー……あれねー……」何故か曖昧な反応。右川はそのままプイと行こうとする。今度は逃がすかとばかりに、金網越し、わずかな隙間から右川の白シャツを指先でつまんだ。「うげほっ!」それをまるで汚い物でも払うように、右川は振り切った。
「あのさ、もう店に来ないでくれる?天狗が伝染るといけないから。近寄るな、永久球拾い!」
ムッときて、さっそく今日にでも行ってやるからな!と叫んでやろうかと思ったが……待て待て。
これはいつもの、俺を追い払おうとする企みなのだと、一度、怒りを飲み込む。
「おまえさ、一体いつから知ってたの」
ビクン!と、右川は極上の反応を見せた。振り返ったその顔は、タダならない感じである。もっと突っ込んで聞いて……そこに、良いのか悪いのか、そんなタイミングでノリがやってきた。
「あ、右川さーん!」
右川は態度を180度変えて、「あ、ノリくん♪」と明るく手を振る。
金網越し、ノリにすり寄った。「ノリくぅん。英語の課題が出ちゃってさ。もう手に負えないんだよね。教えてくんない?」
「うん。いいよ」
唖然とした。「おい……」
安易に頼る右川も右川なら、安易に受け入れるノリもノリだ。
「部活終わるの、マックで待ってていい?」
「今日は5時までだけど、待てる?」
「うん♪他の宿題やってる。マックで何かオゴるからさ」
「マジ?うっわー、そんならお腹減らしとこうかな」
聞いてると、まるでデートの約束だった。同じようなやり取りが、俺と朝比奈にもよくあった。
「いくらなんでもそれは」
とりあえず常識はまだ通じそうなノリを、俺はジッと見つめた。
「右川さんにはいつも数学教えて貰ってるから。これぐらい協力しないとね」
「そうそう、これぐらいはね♪」と金網越しにノリとハイタッチ。
それにしても馴れ馴れしい。
「前も言ったけど、自重しろよ。ノリにはちゃんと彼女がいるんだからな」
墓穴を掘る心配が無い訳ではないが、ここにはノリもいることだし、右川の微々たる良心に期待して2人に突き付ける。
右川は、はぁ?とあからさまに嫌な顔をした。
「勉強の話するだけじゃん。こんなんで怪しいとかって疑うの?頭おかしいんじゃないの」
「そうだよ」と、ノリも俺を向こうに回して、右川に同調した。
「右川さんは妹みたいな女子だよって、こないだ言ったばっかじゃん」
それを聞いて、右川の顔に、ぱあっと笑顔が広がる。
「えー、ノリくん、妹居るの?」
「うん。下に1人ね」
「何か分かる気がするぅ。いいお兄ちゃんみたいな。実はあたしも居るんだよぉ。妹ってどこの中学?やっぱナカチュウ?」
「それがまだ小学生で……って、ごめん!別に右川さんをバカにしてる訳じゃないんだよ」
「わかってるって♪」
右川は、そんな事何でもないよとばかりに手をヒラヒラさせて、
「うちは中学生でね。あたしより背が高いんだ。まじムカつくし」
そんな愚痴を言いながら、ニャハハハ!と笑う。「それじゃ、後でね」ノリにだけ陽気に手を振って、右川は去って行った。俺の〝聞いた?〟事情には何も語らないまま、最後まで放ったらかし。つまり、また逃げられた。
「すっかり仲良しだな」
「洋士も、来る?」
「んな訳ねーだろ。行かねーよ」
「そうだよね。今日も、朝比奈さんと?」
「うん。まぁ」
永田さんの事をわざわざ確かめるのも腹立たしく、朝比奈にはあれから1度も連絡していない。
あっちからの連絡も来なかった。練習を見るという口実で学校まで会いに来るという事も期待できそうにない。冷却期間とは、いつまでだろう。もう十分にクールダウンできた気がする。朝比奈を先輩に取られそうだし、ノリも右川に取られ気味に感じて……まるで寂しい孤独だ。
雑誌を開けば、どこもかしこも夏休み夏休み夏休み。
海とプール。
夏フェス。
花火大会。

7月の間中、夏の大会を前に、合宿が始まった。
朝練では、ランニングで剣道部と合流する。練習の合間に、陸上部と共に水を浴びる。寝ても覚めてもボールを追いかける。なけなしの意地と誇りを掛けた予選大会に向けて、バレー漬けになる。そんな1週間である。
今日はバスケ部にイジられながらも、1日中、体育館を使った。
永田のヤツは練習が終わっても元気が有り余っているらしい。後片付けもそこそこ、先輩の目を盗んで他の部をマメに巡回している。体操部の女子に向けて「危ねッ!絶対領域のその上が危ねーッ!」と下から覗き、卓球部では台の上に寝転がって「寝心地クソほど悪ぅッ!」と文句を言い、「面!どうッ!」と剣道部の竹刀を奪って防具を相手に大暴れ、そして最後は永田兄貴に叱られる。「新喜劇・兄弟コントだな」と黒川が呟いた。
あれで将来、生徒会なんて本気で考えているんだろうか。
今日は兄貴が居る。だから俺に説教の役目は回って来ない。そんな事を考えながらバスケ部の華麗なシュートを眺めていると、永田さんと目が合った。はっきりと。俺は会釈もしなかった。遠目で分かりづらいのをいい事に、生意気な態度を責められる事も覚悟で、若干、睨んでもいる。これは意地かもしれない。
永田バカは、最後にバレー部にやってきて「おまえらなんか背が高いだけの使い捨てだろがッ!練習するだけムダなんだよッ!」と勝ち誇ったように浴びせて、戻った先で永田先輩にド突かれて萎んでいた。
これといって普段と何も変わらない1日。俺だけが世間から置いてけぼりにされているような。
今日1日の全体練習が終わり、後片付けを済ませ、先輩達は引けていった。こうなったらコートを俺達が独占できるとばかりに、工藤も黒川も他の1年メンバーもやってきて大暴れが始まる。ネットだけは片付けないまま、メンツを半々に分け、試合さながら球を自由に遊ぶのだ。
「工藤と沢村は、とりあえず分けろ」
背丈の問題というだけで、俺達は離された。「攻撃はベストでやってみたいんだけどな」と工藤が言うので、第1セッターのノリは工藤側に取られる。
「何だよ。こっちは負け組かよ」
黒川に決め付けられて、はっきり屈辱だ。ノリを取られて悔しいというより黒川にセッターは務まらない。まともなトスは1度も上がらないだろう。「黒川はいいから。下がってろ」と別のメンツを、俺の隣に据えた。それが気に入らないらしい。「あー突き指した」と、さっさとコートを出て行ってしまった。
それが原因で、結果5人対4人の試合になってしまう。
見たまんま、負け組じゃないか。
しばらく遊んだ後、ほどよく暴れたと満足して、他のメンツは体育館を後にした。
「洋士、まだ少しやっとく?」
こういう辺りが、ノリは冴えている。普段、充分にボールに触れない自分に気を遣ってくれる辺りが。
とっくに6時を過ぎたけれど、せっかくだからとノリに甘えて、俺はしばらくボールに遊ばれた。
「ちょっとクイック、やらして」
ノリに向けて、アプローチにボールを投げた、その時、
「入門♪」