「神崎さん、好きだったんだ、一年のときから」僕、三組の池口って言うんだけど、の後に続く言葉がなんでそうなんだろう。中学校の校舎は経年劣化で白色がうっすら黒ずんでいる。その校舎の端っこ、壁際に追い詰められるように立った私は、彼の顔には目をやらないで向かいの川とその川を越えた先の住宅街を見、声だけを耳が受信していた。川岸の向こうに暮らしている人々には生活があって長期的な人生の中の日々を今日も着々と積み立てて消費して堅実に暮らしているのに、どうして人生の前半部分のある時でこうした脈略のない考えに至るのだろうと疑問と幾ばくの恐怖すら感じる。「いきなりこんなこと言われてびっくりするかもしれないんだけど、あの、良かったら付き合ってくれませんか」彼の友達がこの現場を覗いているような声と気配が、頭上をぴーっと線でつなげた先の三階の窓からこぼれてる気がした。エンターテイメントを意地汚く食べようとする心が頭上から落ちてきて私の頭頂部にカッってぶつかって、私は頭を垂れた。「ごめんなさい気持ちは嬉しいのですが応えかねますのでごめんなさい」私はそこで初めて口を開きそそくさと立ち去ろうとしたが彼は「え、あ、ちょ」と言葉にもなってない音で止めようとして、私の腕を掴んだ、半袖シャツから出た素肌の手首を。驚いて、その時初めて彼の目を見た、強く見据えてくる眼差しが私の表層を通り抜けて、でも心ほど深くも到達しないで、半端にシャツとスカートの中を見つめたがる卑しい浅ましい目に見えて気持ち悪くなって頭がくらくらした、変な毒を塗った素肌がto素肌で私の皮膚血管を通して私の中に染み込んでいくようで。下を向くと、雨の名残を残した土が目に入った、じゅめっと泥水が混じる土、校舎で影になっているから乾きづらいのだろう。「ごめん、私、そういうのはごめんなさい、ほんと」手が緩んだ途端、顔を上げることなく早足で校門に向かった、駆け出す気持ちで、でも早足で歩いて行く、あちらの三階の窓からはもう気配ではなく、やあやあ言う声が小さくしかしはっきりと聞こえてきた。振られちゃったあざんねーん、という明るい女子の声が、空気の振動を通して耳に入ってきた。振るとか振らないではなかった、目だった、素肌が触れたよりもっと目が怖かったとそれが明々と思い出され浮かぶ、あれは対等な人間の心を求めてる目じゃなくてぐちょぐちょな欲望を人にぶつけたがってる目だ。世の中にセックスを求める人間たちがいる事まではまあ譲れるそこまではいいそういう人もいるだろう沢山いるかもしれないでもそれを私に投げないでくれと思う、その程度なのだ私の願いは。はあ、人間じゃなくてオスの男の子たちは私のことなんか見えないようにほっておいてほしい、と溜め息をつき、下を向きながらしずしずと歩いて行く。人間の男ならそれは人間だが、オスとして性的な眼差しを向けられることは耐え難い。教科書と辞書でぱんぱんに膨れた肩掛けのスクールバッグが重い右肩にゆっくりと沈んでいく、歩いて行くバス停までの道を。
昼前にはもう雨は上がっていたけれど、バス内はまだ少しばかり湿った空気を残していた、梅雨は面倒だ。私は一番後ろの五席分繋がった特等席シートの端に座っていた、ここらのバスに乗る人は少ないから座りたい放題で、雨の日はいつもここに座る。遠足でバスに乗る時は取り合った人気の席だったなあと座ってみて以来、雨の日はここが定位置になっている。膝の上にスクールバッグを立てて置いた上に両腕を交差させてそこに顔を埋めて目を閉じた、過敏すぎる反応をしてしまっただろうかとも少しいやになった自己嫌悪だ、男嫌いのレズ女だとかまた言われてしまうかもしれない。でも、だって、しかたない、ただの目なのに、違うクラスの男の子の目でしかないのに、それがこわかった。ぎゅっと目を瞑る。中央図書館前、中央図書館前、と運転手がアナウンスするのが聞こえた。しかたない、しかたない、あと一年半したら公立の中学校から出て女子高に行くんだ、それまでの我慢だ。ポーと間抜けなドアの開閉音が鳴って人が出てくる入ってくるポツポツ。埋めていた顔を上げて、ぼうっと人を見る顔じゃなくてぼんやり人の全体像と背景を見る見方で。青いデニムのズボンと黒いTシャツが乗り込んできて私は外を見やる窓の外。中央図書館の入り口の自動ドアが少しして開いたり閉じたり少ししてまた開いたりするなんでもないただの景色、を映す私の黒目とバスの窓ガラスにうっすらと、そこに異物が映りこむよりその気配を察知する方が少し先だったかもしれない。となり。一番後ろの五人掛けのシートの端の私の、随分空いているバスの、となり。些細なことながらもさっきのことがあったせいかもしれない胃腸がヒヤッとして、でも自意識過剰もここまで来ると気持ち悪いよねだからまあ落ち着いてよみたいなテロップが頭の中で流れて、でも私の目は窓から貼り付いて取れないまま、バスの中を反射してうっすらと映す窓と流れていく見慣れた風景を見ていた住宅街少年四輪付きの自転車微笑ましい住宅街住宅街、すっかりモヤがかかった鏡みたいな窓の表面、私と隣の男の目が合った。笑う、彼は口を閉じたままゆっくり口角を上げて、それから少し歯を見せて笑った頭上から死なない雷で打たれたみたいに動けなくなった。その時小さな稲妻がぴかっと私の中を走った。そして、ぬるくて温かいものを感じた、手が、膝丈の紺のスカートを捲り上げて侵入する手のひらが。窓ガラスに映った彼の笑顔を見ているゆっくりでもなく躊躇い無く私の太腿を擦るぬる気持ち悪い温度が。臍の下のパンツの入り口にそれが指をかけた時、顔だけ金縛りが取れて顔をぶんっと振って肩と首をぎいと強張らせたまま俯くしかできなかった見えた短い汚い指が布の中に入っていくのを。パンツの中に太い毛虫が入っていくみたいにそれがごねごねと蠢いて奥に近付いていくけど立てた鞄の上に腕を交差したまま固まって動かせない喉も固まって何も言えない擦られているパンツの中の皮膚の表面を指が楽しげに踊っている私を底の底まで絶望させるためみたいに。そんな簡単に絶望を忘れられると思うの?とサイコパスな笑顔で私を脅すみたいに。なでる、こする、男の指が表面を動くたびにパンツの上の所がちらちらっと揺れて毛の生え際が見えた、中央公園前ー?中央公園前ー?ごしごしと強く擦られる、毛が従順に毛並みを動かさせれている前、後ろ、前、後ろ、まえうしろまえうしろごしごしごしごしもう気持ち悪いとか怖いとか感じる隙間もなかった私はただ精神と身体の全てをその男に操作されていて止められていて感情にすらならない圧倒的な恐怖が私の全てを包んでいた、思い出した、思い出していた、あの夏休み。
いつも真っ先に思い浮かんでくるのは、蝉の鳴き声だ。それと、田舎の古い一軒家のかび臭い匂い。おばあちゃんの病気の事情で、小学三年生の夏休みの間、叔母さんとその三人の子どもたちの、田舎の家に預けられていたのだ。兄弟のうち下の二人は小学生で午前中は学校のプールに行くことが多く、高校生のお兄ちゃんと私だけが家にいる午前中もよくあった。お兄ちゃんは下の兄弟にあまり構わないどちらかと言うとぶっきらぼうな人だったけどそうした時は私を部屋に入れてくれた、家から二十分歩いたところにあるビデオショップで借りてきた当時流行していたアニメを観せてくれた、一人で家に来ないといけなくなって可哀想だから見せてあげると。他の人に言ったらもう見せれなくなるから内緒だよ、と言った。網戸を開け放ち、扇風機を強にしたお兄ちゃんの部屋の外からは蝉の鳴き声以外はほとんど音が聞こえてこなかったのを覚えている。田舎だから人通りも少なくて、時々車がヴーっと通り過ぎていく音がするだけだった。たまに風に揺らされて向こうの縁側に垂らされた風鈴の音が小さく余韻をもたらしてくる以外は、蝉がみんみんみんみん鳴いているばっかりだった雌を求めて発情して生殖するために。お兄ちゃんは勉強道具が積まれた学習机の前の椅子に私を座らせてアニメを観せて、その机の下に潜っていた私はお兄ちゃんを気にしていなかった。お兄ちゃんは私のパンツをいじったりその中を触ったり、インスタントカメラで写真を撮る音が聞こえてきたりしたけど、私は取り立ててそれを気に留めずに、私はお母さんの腕の柔らかい毛と皮膚に顔を埋めてその感触をほわんぽわん楽しんだりすることがあるけれどそういう類の遊びなのかな、ぐらいにしか思っていなかった。でも、一回だけ嫌だった時があった、お兄ちゃんが机の下に潜っていないで立ってパンツを脱いで私の足と足の間に突っ込もうとしてきた時。お兄ちゃんの足と足の間の何かがぴんと前を向いていたのでびっくりしてアニメから目を離した、お兄ちゃんは触ってみてと言った、ふだん服を着て見えなくしているところを触ってと言われたのが意味が分からずこわごわ指を近づけて人差し指でつついたけど、違うと言われて手の上から手をこすらされた、ぬるっとしたスライムがそこにまとわりついてるみたいで気持ち悪くてでも子どもは正直だって言っても子どもの皆が正直に嫌を言える訳じゃなくて、それから口でくわえてって言われて、だって口ってご飯を食べたり飲み物を飲んだりすることだからどういうことか分からなくて、困っているうちに私の肩を力任せに下に押してくにゃっと崩れた正座みたいになって、口につっこまれて、それから、それから・・・。ずっと蝉が鳴いていたずっと蝉は鳴いていたお兄ちゃんが「うっ」と言って身体を震わせ私の小さな四肢にしなだれかかるようにだらしなく抱きついた、ふるえる、からだが、とまる、おにいちゃんが、ひっこぬく、わたしに根付いて取れないかと思った痛い痛い根っこを。痛い。痛い。痛いようええ。わんわん泣きながらお兄ちゃんの部屋の時計を見た、十時五十分、まだ兄弟たちも帰ってこない時間だった、彼らはたぶん小学校のプールで平泳ぎなどをしていた、足の間がひりひりしてじんじんしてさっきまで裂けそうだったけど裂けなくてその時私は蝉が発情のために鳴くのと一緒にわんわんわんわんと泣いていた。
一人で小さな冒険めいた散歩から帰ってきて扉を開ける度に、鼻が馴染みかけたカビ臭い匂いが田舎の古い平屋にうっすらと蔓延していることを思い起こさせた。小学三年生のその夏休みは非常に退屈で、畑と民家しかない田舎道を散歩するか、家で夏休みの宿題をするか絵を描いているか、一人でオセロやトランプ遊びをするしかすることがなかった。おばあちゃんの病気の事情で、叔母さん家族の暮らす田舎の家に預けられていたのだ。叔母さんは仕事だし、中学生の弟は連日友達と遊びに行っているしで、高校生の兄と私だけが家にいることが多かったのだ。物置にしていた部屋の荷物を端に寄せたせいで狭くなった部屋が、ひと夏の間、私の部屋として与えられた。
部屋で一人で遊ぶのに飽きると、畳の床に寝転がり、手足を伸ばして四肢を大きく広げ、畳の感触を楽しんだ。蝉はやかましかったし、何をせずともうっすら汗をかくぐらい暑かったけれど、窓から入ってくる風は都会のそれよりずっと遠いところから吹いてくる気がした。目を閉じていても、じりじり熱を放つ太陽に白っぽく照らされる畑の様子が思い浮かんだ。時々、自室で受験勉強をしていたお兄ちゃんが私を呼んだ。友達がいないところに一人で来ないといけなくなって、テレビも見れなくてつまらないだろうと、だいたい日に一度、一話分の三十分だけ、部屋のパソコンでアニメを観せてくれた。私と同じ、お兄ちゃんの部屋も網戸を開け放っただけの夏の大気が漂っていたけれど、受験生待遇で扇風機のある部屋はそれが人工的な強風を回すだけ暑さがましだった。
昼前にはもう雨は上がっていたけれど、バス内はまだ少しばかり湿った空気を残していた、梅雨は面倒だ。私は一番後ろの五席分繋がった特等席シートの端に座っていた、ここらのバスに乗る人は少ないから座りたい放題で、雨の日はいつもここに座る。遠足でバスに乗る時は取り合った人気の席だったなあと座ってみて以来、雨の日はここが定位置になっている。膝の上にスクールバッグを立てて置いた上に両腕を交差させてそこに顔を埋めて目を閉じた、過敏すぎる反応をしてしまっただろうかとも少しいやになった自己嫌悪だ、男嫌いのレズ女だとかまた言われてしまうかもしれない。でも、だって、しかたない、ただの目なのに、違うクラスの男の子の目でしかないのに、それがこわかった。ぎゅっと目を瞑る。中央図書館前、中央図書館前、と運転手がアナウンスするのが聞こえた。しかたない、しかたない、あと一年半したら公立の中学校から出て女子高に行くんだ、それまでの我慢だ。ポーと間抜けなドアの開閉音が鳴って人が出てくる入ってくるポツポツ。埋めていた顔を上げて、ぼうっと人を見る顔じゃなくてぼんやり人の全体像と背景を見る見方で。青いデニムのズボンと黒いTシャツが乗り込んできて私は外を見やる窓の外。中央図書館の入り口の自動ドアが少しして開いたり閉じたり少ししてまた開いたりするなんでもないただの景色、を映す私の黒目とバスの窓ガラスにうっすらと、そこに異物が映りこむよりその気配を察知する方が少し先だったかもしれない。となり。一番後ろの五人掛けのシートの端の私の、随分空いているバスの、となり。些細なことながらもさっきのことがあったせいかもしれない胃腸がヒヤッとして、でも自意識過剰もここまで来ると気持ち悪いよねだからまあ落ち着いてよみたいなテロップが頭の中で流れて、でも私の目は窓から貼り付いて取れないまま、バスの中を反射してうっすらと映す窓と流れていく見慣れた風景を見ていた住宅街少年四輪付きの自転車微笑ましい住宅街住宅街、すっかりモヤがかかった鏡みたいな窓の表面、私と隣の男の目が合った。笑う、彼は口を閉じたままゆっくり口角を上げて、それから少し歯を見せて笑った頭上から死なない雷で打たれたみたいに動けなくなった。その時小さな稲妻がぴかっと私の中を走った。そして、ぬるくて温かいものを感じた、手が、膝丈の紺のスカートを捲り上げて侵入する手のひらが。窓ガラスに映った彼の笑顔を見ているゆっくりでもなく躊躇い無く私の太腿を擦るぬる気持ち悪い温度が。臍の下のパンツの入り口にそれが指をかけた時、顔だけ金縛りが取れて顔をぶんっと振って肩と首をぎいと強張らせたまま俯くしかできなかった見えた短い汚い指が布の中に入っていくのを。パンツの中に太い毛虫が入っていくみたいにそれがごねごねと蠢いて奥に近付いていくけど立てた鞄の上に腕を交差したまま固まって動かせない喉も固まって何も言えない擦られているパンツの中の皮膚の表面を指が楽しげに踊っている私を底の底まで絶望させるためみたいに。そんな簡単に絶望を忘れられると思うの?とサイコパスな笑顔で私を脅すみたいに。なでる、こする、男の指が表面を動くたびにパンツの上の所がちらちらっと揺れて毛の生え際が見えた、中央公園前ー?中央公園前ー?ごしごしと強く擦られる、毛が従順に毛並みを動かさせれている前、後ろ、前、後ろ、まえうしろまえうしろごしごしごしごしもう気持ち悪いとか怖いとか感じる隙間もなかった私はただ精神と身体の全てをその男に操作されていて止められていて感情にすらならない圧倒的な恐怖が私の全てを包んでいた、思い出した、思い出していた、あの夏休み。
いつも真っ先に思い浮かんでくるのは、蝉の鳴き声だ。それと、田舎の古い一軒家のかび臭い匂い。おばあちゃんの病気の事情で、小学三年生の夏休みの間、叔母さんとその三人の子どもたちの、田舎の家に預けられていたのだ。兄弟のうち下の二人は小学生で午前中は学校のプールに行くことが多く、高校生のお兄ちゃんと私だけが家にいる午前中もよくあった。お兄ちゃんは下の兄弟にあまり構わないどちらかと言うとぶっきらぼうな人だったけどそうした時は私を部屋に入れてくれた、家から二十分歩いたところにあるビデオショップで借りてきた当時流行していたアニメを観せてくれた、一人で家に来ないといけなくなって可哀想だから見せてあげると。他の人に言ったらもう見せれなくなるから内緒だよ、と言った。網戸を開け放ち、扇風機を強にしたお兄ちゃんの部屋の外からは蝉の鳴き声以外はほとんど音が聞こえてこなかったのを覚えている。田舎だから人通りも少なくて、時々車がヴーっと通り過ぎていく音がするだけだった。たまに風に揺らされて向こうの縁側に垂らされた風鈴の音が小さく余韻をもたらしてくる以外は、蝉がみんみんみんみん鳴いているばっかりだった雌を求めて発情して生殖するために。お兄ちゃんは勉強道具が積まれた学習机の前の椅子に私を座らせてアニメを観せて、その机の下に潜っていた私はお兄ちゃんを気にしていなかった。お兄ちゃんは私のパンツをいじったりその中を触ったり、インスタントカメラで写真を撮る音が聞こえてきたりしたけど、私は取り立ててそれを気に留めずに、私はお母さんの腕の柔らかい毛と皮膚に顔を埋めてその感触をほわんぽわん楽しんだりすることがあるけれどそういう類の遊びなのかな、ぐらいにしか思っていなかった。でも、一回だけ嫌だった時があった、お兄ちゃんが机の下に潜っていないで立ってパンツを脱いで私の足と足の間に突っ込もうとしてきた時。お兄ちゃんの足と足の間の何かがぴんと前を向いていたのでびっくりしてアニメから目を離した、お兄ちゃんは触ってみてと言った、ふだん服を着て見えなくしているところを触ってと言われたのが意味が分からずこわごわ指を近づけて人差し指でつついたけど、違うと言われて手の上から手をこすらされた、ぬるっとしたスライムがそこにまとわりついてるみたいで気持ち悪くてでも子どもは正直だって言っても子どもの皆が正直に嫌を言える訳じゃなくて、それから口でくわえてって言われて、だって口ってご飯を食べたり飲み物を飲んだりすることだからどういうことか分からなくて、困っているうちに私の肩を力任せに下に押してくにゃっと崩れた正座みたいになって、口につっこまれて、それから、それから・・・。ずっと蝉が鳴いていたずっと蝉は鳴いていたお兄ちゃんが「うっ」と言って身体を震わせ私の小さな四肢にしなだれかかるようにだらしなく抱きついた、ふるえる、からだが、とまる、おにいちゃんが、ひっこぬく、わたしに根付いて取れないかと思った痛い痛い根っこを。痛い。痛い。痛いようええ。わんわん泣きながらお兄ちゃんの部屋の時計を見た、十時五十分、まだ兄弟たちも帰ってこない時間だった、彼らはたぶん小学校のプールで平泳ぎなどをしていた、足の間がひりひりしてじんじんしてさっきまで裂けそうだったけど裂けなくてその時私は蝉が発情のために鳴くのと一緒にわんわんわんわんと泣いていた。
一人で小さな冒険めいた散歩から帰ってきて扉を開ける度に、鼻が馴染みかけたカビ臭い匂いが田舎の古い平屋にうっすらと蔓延していることを思い起こさせた。小学三年生のその夏休みは非常に退屈で、畑と民家しかない田舎道を散歩するか、家で夏休みの宿題をするか絵を描いているか、一人でオセロやトランプ遊びをするしかすることがなかった。おばあちゃんの病気の事情で、叔母さん家族の暮らす田舎の家に預けられていたのだ。叔母さんは仕事だし、中学生の弟は連日友達と遊びに行っているしで、高校生の兄と私だけが家にいることが多かったのだ。物置にしていた部屋の荷物を端に寄せたせいで狭くなった部屋が、ひと夏の間、私の部屋として与えられた。
部屋で一人で遊ぶのに飽きると、畳の床に寝転がり、手足を伸ばして四肢を大きく広げ、畳の感触を楽しんだ。蝉はやかましかったし、何をせずともうっすら汗をかくぐらい暑かったけれど、窓から入ってくる風は都会のそれよりずっと遠いところから吹いてくる気がした。目を閉じていても、じりじり熱を放つ太陽に白っぽく照らされる畑の様子が思い浮かんだ。時々、自室で受験勉強をしていたお兄ちゃんが私を呼んだ。友達がいないところに一人で来ないといけなくなって、テレビも見れなくてつまらないだろうと、だいたい日に一度、一話分の三十分だけ、部屋のパソコンでアニメを観せてくれた。私と同じ、お兄ちゃんの部屋も網戸を開け放っただけの夏の大気が漂っていたけれど、受験生待遇で扇風機のある部屋はそれが人工的な強風を回すだけ暑さがましだった。
