ー!まだ変声期を迎えていない、小学五年生の弟の声が聞こえてきたことで、壁に投げつけられたなにかがゲームのコントローラーかなにかだったのかなと考えつき、もしかしたら手の内にあったコントローラーがなにかの拍子にぶっ飛んでしまっただけかもしれなかったし、もしかしたらそれはコントローラーではなく弟の右手がぶつんとぶっ飛んだだけかもしれなかったけど、ものは大切にしろよ、と至極まっとうなことを思った。
そして、朝食をとってからまた眠りをむさぼっていた頭と胴体をとろとろと起こす。隣のリビングで、弟とその友だちがぎゃあぎゃあと騒いでいるやかましさとともに、ざあざあと雨音も聞こえていたので、カーテンを開けなくても雨が降り続いていることは知っていた。梅雨なので当たり前なのだけど、このところ雨が多い。窓を閉めて眠っていたので、上半身にじわりと汗をかいていた。水蒸気のような熱がこもった寝床を抜け出してカーテンを開けるとマンションの立ち並ぶ光景に雨の白いもやがかかっていたけれど、そうしたことたちに何の感想も持たず、じだらくロボットのように椅子の上で足を組んで座ると、指をぐるぐるとしてつぶつぶを消していくだけの全く生産性のないスマホゲームを始めた。ぐるぐると円をかいてつぶつぶをつぶしていくたびに、ツブ!ツブ!と小さく音が鳴る、リビングには聞こえないだろうぐらいの小さな音だ。その音を聞くたびにシヌ!シヌ!と共鳴の呟きをもらしたくなって、でもそれはシネ!シネ!でもよくって、そしてそれはわたしの自殺の宣言であり、わたしがわたしをじりじりと追い詰めて殺そうとする他殺の宣言でもある。
うす暗くて湿っぽい梅雨の初夏の部屋。スマホゲームをしているうちに汗はひいていてクーラーをつけるほどでもなくて、でも弟と友だちのいるリビングは冷房を18℃の下限までさげた冷え冷えなんだろうと思う。彼らの声はやたらと大きいので、耳を澄ませば話している内容までも聞き取れる。どうやら今は来る前にコンビニで買ってきたアイスを食べているらしいこともお姉さんは知っている。 弟とその友だちの金持ち自慢が聞こえる、塾のまたべつの友だちの悪口を言うのが聞こえる。
「おれの学校のやつら、父さんの年収低いやつばっかりでびっくりするわ。おれの父さんは一千万こえてるんやけどクラスにそんなやつひとりもおらへん。公立の学校やからびんぼう人ばっかりや」
「そうや。おれの学校のやつらも、ラルフ・ローレンってなにか知らへんねんで。なにそれ知らん、言うねん」
「うそやん。スーパーで服買ってるんちゃうか。でも、体操服の中古買って着てるやつおるで。知らんだれかが何年も着たやつを着るんやで。汗しみこんでてくさなってるんちゃう」
「うそやん、中古の体操服なんかありえへんわ。でも、ふつうの服でも中古の売ってるところあるやろ。ああいう店見たら父さんが、だれが着てたか分からん中古のもんなんかぜったい着たらあかんて言うわ」
「おれも中古のなんか着たことないわ。でも谷内はいつも同じ服着てるよな。あいつ、塾通ってるけど貧乏人やからな。ぶすおやし」
「あいつ、ぶすすぎてかわいそうなぐらいやわ。こないだ母さんといるところ見たけど、母さんも太っててぶすやった。あいつ、明日来んかったらええのにな、来るかな」
彼らの声はやたらと大きいのだ。なんの感動ももたらさない惰性のスマホゲームをやりながらもわたしの心はそこにはない。もし感情に色がついていてそれが目で見えるなら、もやもやした灰色がかった弟への不快感がここにあるのは確かだった。弟はなんでそんなに大きいのだろう。こどもの王さまのようにその心は肥大してみにくく膨らんでいる。安直に言って、母は弟を甘やかし過ぎたのではないか。
きのう、母は新しいエプロンを着けていた。百貨店で安くなっていたのだという、白地にピンクの薔薇もようの綺麗なエプロンだった。母はそれを着けて、きのうの夕食のハンバーグを作っていたのだろう。母は、不幸な感じがしない。絶望している感じがしない。むしろ、せわしなく幸福な感じがする。でも、母は子育てを失敗した。いいかわるいか、幸福か絶望か、肥大か卑屈か、方向は違えど、わたしも弟も間違っている。
「おれ、あれしてみたいねん、ホームレスにお金投げつけるやつ」
「ああ、小銭投げんねやろ?あいつら喜んで拾うかなあ。その遊びしてみようや。駅の裏の、郵便局のあたりのところにあいつら段ボールしいて寝てるやろ。今行ったらおるんちゃう?」
つぶつぶをつぶしていくひとさし指は止まらない、けど、嬉々として大声でそんなことを話す弟にしずかに引く。たとえばカエルのおしりに爆竹をつっこんで殺すいたずらと大差ないことなのかもしれないけど、それはさすがによくないだろう。顔をしかめて指をすべらせたタイミングでつぶ消えが炸裂し、ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!と耳ざわりな小動物みたいな鳴き声がした。
とはいえ、弟への関心や心配がそうあるわけではない。人との対話や、向き合うべき仕事が目前にないとき、不快感やさみしさや死にたさで頭を埋めがちなだけだ。
ところで、喉が乾いたな何か飲みたいな、母が作ったきのうのハンバーグの残りも冷蔵庫にあるはずだ。
むしろ、姉ならば本当は弟をいさめないといけないのかもしれない。人をばかにするようなことはしてはいけないと諭さないといけないのかもしれない。でもわたしには気概を持つための気力がない。
それに、友だちが来ているときは部屋から出てくるなと、あのこどもの王さまがこないだぷりぷりと怒っていたニートが家にいるなんて恥ずかしいとぷんすかしていた。正確にはニートではなく、ベルトコンベアにのって流れてくる弁当におかずを詰めていく工場のバイトを週に二三回はしているのでフリーターなのだが、週の多くを家で過ごすわたしを弟はニートというあだ名で呼ぶ。喉が乾いたのだから、べつに、部屋を出ていってリビングを横切ってキッチンで水を注いでもいいのだ。なんなら、おやつの時間よお腹がすいたでしょうと、工場で詰めているお弁当を二人ぶんあげたっていいのだ。でもわたしには気概を持つための気力がないのだ。
そして、朝食をとってからまた眠りをむさぼっていた頭と胴体をとろとろと起こす。隣のリビングで、弟とその友だちがぎゃあぎゃあと騒いでいるやかましさとともに、ざあざあと雨音も聞こえていたので、カーテンを開けなくても雨が降り続いていることは知っていた。梅雨なので当たり前なのだけど、このところ雨が多い。窓を閉めて眠っていたので、上半身にじわりと汗をかいていた。水蒸気のような熱がこもった寝床を抜け出してカーテンを開けるとマンションの立ち並ぶ光景に雨の白いもやがかかっていたけれど、そうしたことたちに何の感想も持たず、じだらくロボットのように椅子の上で足を組んで座ると、指をぐるぐるとしてつぶつぶを消していくだけの全く生産性のないスマホゲームを始めた。ぐるぐると円をかいてつぶつぶをつぶしていくたびに、ツブ!ツブ!と小さく音が鳴る、リビングには聞こえないだろうぐらいの小さな音だ。その音を聞くたびにシヌ!シヌ!と共鳴の呟きをもらしたくなって、でもそれはシネ!シネ!でもよくって、そしてそれはわたしの自殺の宣言であり、わたしがわたしをじりじりと追い詰めて殺そうとする他殺の宣言でもある。
うす暗くて湿っぽい梅雨の初夏の部屋。スマホゲームをしているうちに汗はひいていてクーラーをつけるほどでもなくて、でも弟と友だちのいるリビングは冷房を18℃の下限までさげた冷え冷えなんだろうと思う。彼らの声はやたらと大きいので、耳を澄ませば話している内容までも聞き取れる。どうやら今は来る前にコンビニで買ってきたアイスを食べているらしいこともお姉さんは知っている。 弟とその友だちの金持ち自慢が聞こえる、塾のまたべつの友だちの悪口を言うのが聞こえる。
「おれの学校のやつら、父さんの年収低いやつばっかりでびっくりするわ。おれの父さんは一千万こえてるんやけどクラスにそんなやつひとりもおらへん。公立の学校やからびんぼう人ばっかりや」
「そうや。おれの学校のやつらも、ラルフ・ローレンってなにか知らへんねんで。なにそれ知らん、言うねん」
「うそやん。スーパーで服買ってるんちゃうか。でも、体操服の中古買って着てるやつおるで。知らんだれかが何年も着たやつを着るんやで。汗しみこんでてくさなってるんちゃう」
「うそやん、中古の体操服なんかありえへんわ。でも、ふつうの服でも中古の売ってるところあるやろ。ああいう店見たら父さんが、だれが着てたか分からん中古のもんなんかぜったい着たらあかんて言うわ」
「おれも中古のなんか着たことないわ。でも谷内はいつも同じ服着てるよな。あいつ、塾通ってるけど貧乏人やからな。ぶすおやし」
「あいつ、ぶすすぎてかわいそうなぐらいやわ。こないだ母さんといるところ見たけど、母さんも太っててぶすやった。あいつ、明日来んかったらええのにな、来るかな」
彼らの声はやたらと大きいのだ。なんの感動ももたらさない惰性のスマホゲームをやりながらもわたしの心はそこにはない。もし感情に色がついていてそれが目で見えるなら、もやもやした灰色がかった弟への不快感がここにあるのは確かだった。弟はなんでそんなに大きいのだろう。こどもの王さまのようにその心は肥大してみにくく膨らんでいる。安直に言って、母は弟を甘やかし過ぎたのではないか。
きのう、母は新しいエプロンを着けていた。百貨店で安くなっていたのだという、白地にピンクの薔薇もようの綺麗なエプロンだった。母はそれを着けて、きのうの夕食のハンバーグを作っていたのだろう。母は、不幸な感じがしない。絶望している感じがしない。むしろ、せわしなく幸福な感じがする。でも、母は子育てを失敗した。いいかわるいか、幸福か絶望か、肥大か卑屈か、方向は違えど、わたしも弟も間違っている。
「おれ、あれしてみたいねん、ホームレスにお金投げつけるやつ」
「ああ、小銭投げんねやろ?あいつら喜んで拾うかなあ。その遊びしてみようや。駅の裏の、郵便局のあたりのところにあいつら段ボールしいて寝てるやろ。今行ったらおるんちゃう?」
つぶつぶをつぶしていくひとさし指は止まらない、けど、嬉々として大声でそんなことを話す弟にしずかに引く。たとえばカエルのおしりに爆竹をつっこんで殺すいたずらと大差ないことなのかもしれないけど、それはさすがによくないだろう。顔をしかめて指をすべらせたタイミングでつぶ消えが炸裂し、ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!ツブ!と耳ざわりな小動物みたいな鳴き声がした。
とはいえ、弟への関心や心配がそうあるわけではない。人との対話や、向き合うべき仕事が目前にないとき、不快感やさみしさや死にたさで頭を埋めがちなだけだ。
ところで、喉が乾いたな何か飲みたいな、母が作ったきのうのハンバーグの残りも冷蔵庫にあるはずだ。
むしろ、姉ならば本当は弟をいさめないといけないのかもしれない。人をばかにするようなことはしてはいけないと諭さないといけないのかもしれない。でもわたしには気概を持つための気力がない。
それに、友だちが来ているときは部屋から出てくるなと、あのこどもの王さまがこないだぷりぷりと怒っていたニートが家にいるなんて恥ずかしいとぷんすかしていた。正確にはニートではなく、ベルトコンベアにのって流れてくる弁当におかずを詰めていく工場のバイトを週に二三回はしているのでフリーターなのだが、週の多くを家で過ごすわたしを弟はニートというあだ名で呼ぶ。喉が乾いたのだから、べつに、部屋を出ていってリビングを横切ってキッチンで水を注いでもいいのだ。なんなら、おやつの時間よお腹がすいたでしょうと、工場で詰めているお弁当を二人ぶんあげたっていいのだ。でもわたしには気概を持つための気力がないのだ。
