ママがきのう作ったあたたかなカレーを食べている。カレーはよくあっため直さないと菌が繁殖する、というから、電子レンジで三分三十秒加熱しすぎた少し熱くなりすぎたカレーを。いま、大きめにカットされたジャガイモにはふはふと歯を入れながら、死にたい死にたいと心の中でひとりごとを呟いている、延々と。呪詛を。ニコニコ動画のコメントが全部「死にたい」しかなくて、ただひたすらの「死にたい」の羅列が横に流れていくみたいなイメージで。
 死にたい死にたい死にたい、うるさい。
 わたしはカレーを口に運び、自分の人生への呪詛を唱えていたけれど、リビングのテレビに映し出される幼児番組のなかが楽しげなことにもいらいらしていた。たぶん昨日から出された冬仕様のダークブラウンのカーペットに膝をつけて座って、幼児番組を観ている年の離れた妹の背中は番組のキャラクターが何かしてみせるたびに大きくふるえて、そのたびにわたしのなかでいらいらと悲しさが混じった。
 わたしはカレーを口に運び、自分のデリケートさ繊細さというか、一本の指にわずかばかりの火を灯されて、うわああああと転げ回る被害妄想婦人のようなものを自分に感じて、わたしは妹のことも好きじゃないけれど、同じぐらい自分のことも嫌いだ、と思った。
「ねーね、ねーね、なにたべてるのー?」
「カレーだよ。昨日の夕食の残り。昨日、みんなで一緒に食べたでしょ」
「たべたー」
「美味しかったね」
「なーちゃん、カレーすき!」
 ふいにこちらを向いて話しかけてきた妹は、いっくよー、というテレビの音に反応して、またそちらに体を向けた。気まぐれだなあ。妹がわたしよりもテレビに興味を示したことに安心しながら、また残りのカレーを口に運んでいく。レンジで熱しすぎたカレーはだんだんと熱さを失ってきて、まだ暑いながらも、ツイツイと食べていける程度になっている。妹の背中を見て、彼女を呪うつもりは別になくてもでも自然と呪詛が漏れる。なーちゃんは無邪気だなあって。おかしいでしょう、生きてるのは辛いのに、ちっさな子どもの頃は守られて生きて、だんだん大人になるにつれ生きてる辛さを知るの。あーあ、死にたい死にたい死にたい。でも、なーちゃんは結局どうでもよくて、結局それはわたしの人生に対する呪詛なのだ。だってなーちゃんはもしかしたら大人になっても、死にたい人にならないかもしれないからね。
 カレーを多くよそいすぎた。お皿に入れている段だと、立って上から見ているから小さく見えているなのか分からなくて、つい多くの米とカレーを入れすぎてしまう。だから、最後の方はもうあんまり食べたくない。というか、わたしはずっと悲しいのだ、あたためた手作りのカレーが。人の愛情みたいなそれが。大きめに切られた具材は手作り感があって、ジャガイモも人参も玉ねぎもわたしのために食べられていくのが悲しいのだ。
 ちょうど入れ替わりぐらいに妹と母がダイニングテーブルで昼食を食べ始め、それを目の端に見ながらそそくさを洗い物を片付けた。妹がテレビを見て喜んでいる背中を見るよりもつらくて早く部屋に帰りたくて適当に皿を温水で流す。なんでわたし生きてるのかな、って疑問が風船みたいに自然に浮かんできて、妹みたいに無垢で幸せそうな存在が信じられなかった。ぷうぷうぷうとわたしの口が空気を入れる風船がぱんと破れるより先に洗い物は終わって、さっさと自分の部屋に逃げた。
 ベッドカバーをざっと乱雑にめくってそのなかにもぐり込む。わたしはめっきり逃げ腰だ。デリケートだ。自分で体をぎざぎざにしておいて、何かが引っ掛かったときにイタァイと叫ぶようなデリケートだ。仕事をやめてからずっとこうだ。でもわたしはカイコの繭みたいな布団に入り込んで世界を閉じるんだ。
 目を閉じて、死にたい死にたい死にたいと口に出して小声で呟く。でも、それは、わたしじゃない誰かが布団で死にたいマーチを歌ったような感じがして、わたしはもうわたしとも仲よしじゃないんだな、と思った。ぶちぶちぶち。