カタンコトンと揺れてわたしたちをお家まで運んでいく電車はあまりにも日常、腕時計が二十二時を指す少し前、向かいのシートに座るおじさん達は仕事が終わって会社用の顔をバリッて引きちぎって疲れた日常を顔に浮かべている。器用な二面相!わたしも仕事帰りだよ、電車でお座りしているよ、隣には同期の西本くんがいるよ、わたしたちはニ年目の塾講師だよ、今日は上手く授業できなかったよ。だから、さっきカラフルなジェリービーンズみたいな不味そうなグミをコンビニで買ったんだ、上手く授業できなくて嫌だったから、心と身体を不健康な科学的な物質で満たして誤魔化すんです。ただ、182円ってちょっと高くない?いいけどね、お金を稼ぐために働いてるわたしのお金は全部わたしのためにあるんだからって、182円の買い物でも18200円も買い物でも同じことを考える。
一年目の頃、やる気満々だったわたしはいつの間にか死を迎えていて、一生懸命頑張ろうってモチベーションを時空の中に忘れてきてしまった。それは一年目より仕事量がめっきり増えたことにも、生徒である子供が好きじゃないという実感がマシマシていることにも起因しているんだろうけど、とりあえず最近のわたしは毎日仕事を辞めたい。
授業が終わって生徒を送り出して、西本くんと二人で川西教室を出てエレベーターに乗ったとき、今日の五年生の授業は上手くできなかったなあ、敬語の授業は慣れてないからどうも焦ってしまった、って薄める言い訳みたいに話したの、西本くんはふうんと息を吐き出したの、西本くんは上手くできなかったとかできなかったとかいつも言わなくて、今日も普通に終わりましたわって顔してんのむかつくよね、わたしが下手糞なのか不器用なのか努力が足りないのか全部か。夜夜、教室の入っているビルを出たら当たり前に外は暗かったよ、いつも当たり前に授業終わりの夜の空は暗いぜ。やりたくないけどやらなきゃいけない授業をやっているうちに、いつもその日は夜になって二十二時ぐらいになって、また一日が終わっていくんですよって繰り返しリピートリピートリピートボタンを押されているんですよ仕事を辞めるまで一生押し続けられるんだろうリピートボタンをね、お金を稼ぐだけでわたしにとって他の意味を見出せなくなったリピートボタン、噛み砕きたいはずのやりがいスイッチはいつの間にか飛んでいってたんだよ。今日の授業は上手くできなかったから、もやもやと自分の至らなさが広がっていて、でもそれをなんとかしてやるわっていう馬力的なやる気は迷子で、やる気があったかつてのわたしに迷子センターで呼び出しかけても戻ってこなくて、「やる気ないなら帰ったら?」って生徒には言うのに本当はわたしもやる気ないんすよ、っていう、でもわたしは明け透けな生徒らと違って大人だから、「やる気ないなら帰ったら?」って上司に言われない程度にはやる気がある振りできて、でもわたしは先輩たち上司たちみたいな大人になりきれていなくて曖昧な大人でいる。
ぴっ、とグミの袋の封を切ってそこに鼻を近づけてクンクン匂うと、甘ったるい匂いつき消しゴムみたいな科学的な香りがぷうんと匂って、うっ、と顔をしかめる。封の口を開けたまま、それを西本くんの鼻に近づけてからパンと封を閉じた。空気に色が付いていたなら、封の口から出たカラフルな大気が西本くんの鼻を直撃していたのが見えただろう嫌がらせで、うっ甘っ、と彼がうめいた。レモン、ラズベリー、メロン、グレープ、黄色、ピンク、緑、紫、袋の中はカラフルルです胡散臭せえ嘘みたいにカラフルルです現実はこんな色じゃなくて薄いグレーとかベージュとか絶望の黒とかもう何にも考えたくなーい、のモヤがかった白だもの、こんなカラフルルたちは嘘です現実から逃げた安っぽい逃避行の色ですって、そのうちのピンクを摘んで口に入れる。一口噛むと固まった砂糖がガリッとしたあと、グニュグニュの歯応えを感じた。商品として売られているということは、世の中にはこれを美味しいと思ってパクパク食べる人がいるということなの?西本くーん、お口開いてー。目前のシートにはぐだっとお疲れになったサラリーマンのおじさま方がいます、そうだよねえ労働って疲れるよねわたしもすごく疲れましたよ、だから歯科検診しましょうね、ぱかんと小さく開かれた西本くんのお口にカラフルルなグミを一粒ずつ入れていきますえへへぇ。たぶん七、八粒入れた辺りで彼は口を閉じて、どれだけ入れるのもういいよって呆れたように嘲笑しました、それから詰め込まれたグミを噛んで、甘っ不味って言って飲み込みました、あーあ胃に落ちてったねって、じゃあわたしと一緒になったねって、君の口と胃も逃避行色に包まれたんだよって、彼が膝の上に投げ出していた左手を握った。恋人じゃないけど彼は驚かない、ちょうどわたしのやる気がなくなった今年の初め頃から彼はセフレになった。西本くんの家に行ってセックスする日もしない日も、駄目駄目さで彼を巻き添えに飲み込んでカスとカスとくっつけて混ぜて黒い練り消しができました、みたいにしたくなる。でもそれは別に西本くんが好きだからじゃない。もちろん嫌いではないけれど、彼を練り消しカスフレンドにしたいのは彼がここにいるからだ、自分の利き手のそばにポテチの袋が空いていたら手を突っ込んで一枚口に運びたくなるのが人情というものだ多分。残念ながら西本くんじゃないと駄目なんてことはわたしにはなくて、でも曖昧な大人にしかなれていないせいでなんだか色々穴が空いていて、そこに利き手でなにかを掴んで入れたくなる。
わたしに左手を捕らえられた彼が右手で持っているスマホを覗き込む、『おつかれー。俺は今から帰るわ』。西本くんが“佳奈”ちゃんにラインをぺっと送る、送信ボタン一つで佳奈ちゃんと西本くんの世界に言葉が反映され、共有されようとするのを覗く。佳奈ちゃんは西本くんの彼女で、そうですかそうですか今日も順調でと思うけれど、わたしは微動だにせずに彼の左手を握って電車に揺られている。佳奈ちゃん元気?とこれみよがしに聞いてみると、元気なんじゃない?といういい加減な返事が帰ってくるので、なんだよそのわざとらしい距離感の演出はと少々イラつくけれど、わたしは佳奈ちゃんになりたい訳ではないので別にいいんだよなあとすぐに思い直す、わたしは誰かになりたいわけじゃなくて何かをしたいわけじゃなくてお仕事辞めたいだけだ、今、最近バカの一つ覚えみたいにそう思うだけ。
辞めたい辞めたいお仕事辞めたいな、隣にだけ聞こえる音量で歌をうたうように口ずさむと、スマホをスーツの上着のポケットに仕舞った彼が空いた右手でわたしの手の甲にデコピンを食らわせた。なによ、と言って、自分の手を下に引いてほどいて、一つしか食べていなかったグミの残りを口に運んでいく。不味い甘い逃避行の味。182円はグミにしては少し高い値段だけども、でも182円では逃避行できないんだよなあって。だってどこにも行けない、どこでもドアも飛行機のチケットも不労所得にするマンションも買えない、リピートボタンしか押せない。でも今だけの逃避行で口と胃をいっぱいにしないといけない気がして、カラフルルたちを一粒ずつ摘んで口に入れていくパクパクパク、そのうち自分がパクパクする口が付いただけの円柱になったように思えてくる。そうだったらもう喋らなくてもいいし授業しなくていいし最高だぜ、みたいな。ふいに西本くんがその手を取ってグミの一つを自分の口に入れた、噛む、喉、胃、落ちる。西本くんも仕事やめたいの?尋ねると、彼はかぶりを振って、考えることがないわけじゃないけど大して辞めたいとは思わない、と言った。ああ、お前はそういうやつだよって睨みつけたくなる。だからお前は嫌な感じなんだよ僕は普通にやってまーすって顔しやがってと、彼の手首を掴むとグミの袋に突っ込んで粒を掴ませ、それをわたしの口の前に持っていった。人差し指と親指でグミを摘んだ彼の指ごとわたしの口に入れて、はむうと甘噛みした。目の前のサラリーマン達は場違いないちゃつきに気付きもしないで全身に疲れを漂わせて猫背でスマホをいじったり、ぐうぐう眠ったりしている。曖昧な大人と本物の大人の間でカタンコトン揺れているわたしはあなた方みたいにまだなれなくてカタンコトン逃避に揺れている。
一年目の頃、やる気満々だったわたしはいつの間にか死を迎えていて、一生懸命頑張ろうってモチベーションを時空の中に忘れてきてしまった。それは一年目より仕事量がめっきり増えたことにも、生徒である子供が好きじゃないという実感がマシマシていることにも起因しているんだろうけど、とりあえず最近のわたしは毎日仕事を辞めたい。
授業が終わって生徒を送り出して、西本くんと二人で川西教室を出てエレベーターに乗ったとき、今日の五年生の授業は上手くできなかったなあ、敬語の授業は慣れてないからどうも焦ってしまった、って薄める言い訳みたいに話したの、西本くんはふうんと息を吐き出したの、西本くんは上手くできなかったとかできなかったとかいつも言わなくて、今日も普通に終わりましたわって顔してんのむかつくよね、わたしが下手糞なのか不器用なのか努力が足りないのか全部か。夜夜、教室の入っているビルを出たら当たり前に外は暗かったよ、いつも当たり前に授業終わりの夜の空は暗いぜ。やりたくないけどやらなきゃいけない授業をやっているうちに、いつもその日は夜になって二十二時ぐらいになって、また一日が終わっていくんですよって繰り返しリピートリピートリピートボタンを押されているんですよ仕事を辞めるまで一生押し続けられるんだろうリピートボタンをね、お金を稼ぐだけでわたしにとって他の意味を見出せなくなったリピートボタン、噛み砕きたいはずのやりがいスイッチはいつの間にか飛んでいってたんだよ。今日の授業は上手くできなかったから、もやもやと自分の至らなさが広がっていて、でもそれをなんとかしてやるわっていう馬力的なやる気は迷子で、やる気があったかつてのわたしに迷子センターで呼び出しかけても戻ってこなくて、「やる気ないなら帰ったら?」って生徒には言うのに本当はわたしもやる気ないんすよ、っていう、でもわたしは明け透けな生徒らと違って大人だから、「やる気ないなら帰ったら?」って上司に言われない程度にはやる気がある振りできて、でもわたしは先輩たち上司たちみたいな大人になりきれていなくて曖昧な大人でいる。
ぴっ、とグミの袋の封を切ってそこに鼻を近づけてクンクン匂うと、甘ったるい匂いつき消しゴムみたいな科学的な香りがぷうんと匂って、うっ、と顔をしかめる。封の口を開けたまま、それを西本くんの鼻に近づけてからパンと封を閉じた。空気に色が付いていたなら、封の口から出たカラフルな大気が西本くんの鼻を直撃していたのが見えただろう嫌がらせで、うっ甘っ、と彼がうめいた。レモン、ラズベリー、メロン、グレープ、黄色、ピンク、緑、紫、袋の中はカラフルルです胡散臭せえ嘘みたいにカラフルルです現実はこんな色じゃなくて薄いグレーとかベージュとか絶望の黒とかもう何にも考えたくなーい、のモヤがかった白だもの、こんなカラフルルたちは嘘です現実から逃げた安っぽい逃避行の色ですって、そのうちのピンクを摘んで口に入れる。一口噛むと固まった砂糖がガリッとしたあと、グニュグニュの歯応えを感じた。商品として売られているということは、世の中にはこれを美味しいと思ってパクパク食べる人がいるということなの?西本くーん、お口開いてー。目前のシートにはぐだっとお疲れになったサラリーマンのおじさま方がいます、そうだよねえ労働って疲れるよねわたしもすごく疲れましたよ、だから歯科検診しましょうね、ぱかんと小さく開かれた西本くんのお口にカラフルルなグミを一粒ずつ入れていきますえへへぇ。たぶん七、八粒入れた辺りで彼は口を閉じて、どれだけ入れるのもういいよって呆れたように嘲笑しました、それから詰め込まれたグミを噛んで、甘っ不味って言って飲み込みました、あーあ胃に落ちてったねって、じゃあわたしと一緒になったねって、君の口と胃も逃避行色に包まれたんだよって、彼が膝の上に投げ出していた左手を握った。恋人じゃないけど彼は驚かない、ちょうどわたしのやる気がなくなった今年の初め頃から彼はセフレになった。西本くんの家に行ってセックスする日もしない日も、駄目駄目さで彼を巻き添えに飲み込んでカスとカスとくっつけて混ぜて黒い練り消しができました、みたいにしたくなる。でもそれは別に西本くんが好きだからじゃない。もちろん嫌いではないけれど、彼を練り消しカスフレンドにしたいのは彼がここにいるからだ、自分の利き手のそばにポテチの袋が空いていたら手を突っ込んで一枚口に運びたくなるのが人情というものだ多分。残念ながら西本くんじゃないと駄目なんてことはわたしにはなくて、でも曖昧な大人にしかなれていないせいでなんだか色々穴が空いていて、そこに利き手でなにかを掴んで入れたくなる。
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辞めたい辞めたいお仕事辞めたいな、隣にだけ聞こえる音量で歌をうたうように口ずさむと、スマホをスーツの上着のポケットに仕舞った彼が空いた右手でわたしの手の甲にデコピンを食らわせた。なによ、と言って、自分の手を下に引いてほどいて、一つしか食べていなかったグミの残りを口に運んでいく。不味い甘い逃避行の味。182円はグミにしては少し高い値段だけども、でも182円では逃避行できないんだよなあって。だってどこにも行けない、どこでもドアも飛行機のチケットも不労所得にするマンションも買えない、リピートボタンしか押せない。でも今だけの逃避行で口と胃をいっぱいにしないといけない気がして、カラフルルたちを一粒ずつ摘んで口に入れていくパクパクパク、そのうち自分がパクパクする口が付いただけの円柱になったように思えてくる。そうだったらもう喋らなくてもいいし授業しなくていいし最高だぜ、みたいな。ふいに西本くんがその手を取ってグミの一つを自分の口に入れた、噛む、喉、胃、落ちる。西本くんも仕事やめたいの?尋ねると、彼はかぶりを振って、考えることがないわけじゃないけど大して辞めたいとは思わない、と言った。ああ、お前はそういうやつだよって睨みつけたくなる。だからお前は嫌な感じなんだよ僕は普通にやってまーすって顔しやがってと、彼の手首を掴むとグミの袋に突っ込んで粒を掴ませ、それをわたしの口の前に持っていった。人差し指と親指でグミを摘んだ彼の指ごとわたしの口に入れて、はむうと甘噛みした。目の前のサラリーマン達は場違いないちゃつきに気付きもしないで全身に疲れを漂わせて猫背でスマホをいじったり、ぐうぐう眠ったりしている。曖昧な大人と本物の大人の間でカタンコトン揺れているわたしはあなた方みたいにまだなれなくてカタンコトン逃避に揺れている。
