①朝方、気分がすっきりとしていることが少ない。昨日見た淫夢の内容も忘れてしまい、カーテンを開けて眩しい朝日を受けるのがつらく、開きかけたカーテンを瞬時に閉じて、ベッドに戻って淫夢の続きを見たくなる。
②気分が沈み、憂鬱である。毎朝、出勤前にストッキングを穿くときに無気力感が湧きがちで、一足目の膝下まで穿いた辺りでぼうっとしてしまい、そのままニ、三十分は無為に時間を過ごしてしまいそうになる。
③身体がだるく、疲れやすい。ニ、三時間ほど無茶苦茶セックスをした翌日のような身体的疲労感が常にある。
 ④性欲が薄くなってきた、あるいは性欲の高まりを異常に感じるようになった。昼間にセックスして四回イッて、夜にオナニーして二回ニッて、などもやぶさかではない。
⑤日ごろしていることに、満足感が持てない。仕事は嫌いでたまらないというほどでもないが、大好きとは到底思わない、そんな仕事に対してあくせく働かねばならないほどのモチベーションが追いつかない。やりがいがないとは言わないが、そのやりがいのために労働の意欲が湧くほどではない。お金を貯めて、結婚や子育て資金にしたいとかそんな将来的な目標もない。働くのが衣食住の食い扶持を稼ぐためであるとするなら、塾講師じゃなくったってカフェやコンビニで働くフリーターでも、はたまた風俗店勤務でもいいんじゃないかと考えてしまう。
 わたしオリジナルの鬱チェックシートで、『満点!今すぐ会社をやめるべきです!』という結果を叩き出してしまったわたしは、そうだよなあわたし満点なんだよなあ満点の鬱なんだよなあ会社行っちゃいけないよなあと思いながら、朝の通勤ラッシュの電車に座っていた。わたしは塾講師で、塾講師というものは一般的な企業より出社時刻が遅いものなのだが、今朝はテストの採点業務があるせいで、通勤ラッシュとモロ被りしてしまったのだ。それでも運良く座れて、頭をうな垂れて眠っている人を演じながら、目を閉じて鬱のことを考えていた。人がぎゅうぎゅうになった梅雨ごろの電車は蒸れて暑かった。膝の上に載せていた手の指でストッキングを擦り、ああこれ冬用の分厚いストッキング、と舌打ちしたくなる。ストッキングを穿くということは人間女性の気力を奪おうとする悪魔の所業を受け入れるということであり、今日もお前は人間として働いていたいのか?という悪魔のチェックをすり抜けられるかという試練なのだ。丁寧に伸ばしていかないと、つま先とか足の途中で布が溜まったり、容易に引っ掛かって破れたりする。それになんといっても、化学繊維的なベールを足じゅうにかけていかねばならぬ不快感がよろしくない。今朝も、ベッドに腰掛けて片足の膝までストッキングを通したところで気力を使い果たしてそのまま時間がニ、三十分停止してしまい、透明人間に時間を止められていた人のようにニ、三十分後にわたしは焦ってベッドから飛び上がり、その時に膝から垂らしていたもう片足分のストッキングを踏みつけて、危うく転んで目の前の洋服棚で頭部を強打してそのまま意識を失い、会社に行けなくなるところだった。
「まもなく西宮北口ー、西宮北口ですー」
 わたしの会社のある駅にまもなく到着することを車掌のアナウンスが知らせ、まもなくホームに滑り込んでいった電車はゆっくり停車したあと、ぷしゅう、と扉を開けた。そこに向かって、かたまりになった人たちがよたよたと進んでいくのに続こうと席を立ち上がろうとしたとき、冬物とはいえ繊細なストッキングの布地に、前に立っていた女の日傘がくさりと刺さった。
「あっ、ごめんなさっ」
 言おうとしたものの、女は気付いている様子なく、ひとり言のようなわたしの謝罪は、そのまま女のヒールの足元に落ちた。わたしは可哀想なそのひとり言を目で追ったものの、自分のストッキングの膝上から足首の辺りまで思い切りの良い縦線が入って裂けているのに気付き、そのショックで浮かしかけたお尻をぼとんと席に落としてしまった。ぷしゅう、会社がある、降りねばならなかった扉が閉まる。降りれなかったことに、あああ、と思い、西宮北口でずいぶん人が降りて減ったことに、ああ、と思い、ストッキングが派手に破れてしまったことに、あああ、と思った。ぎゅう詰めだった車内にはいくらか余裕ができ、わたしは足を前後に微かにぶらぶら揺らし、破れた膝のところを撫でていると、次の夙川で降りてすぐに引き返さなくちゃという焦りよりも、はあ、もういいんじゃないかなという無力さのほうが湧いた。きっとこのストッキングはわたしの最後の砦で。仕事には行きたくないけど仕事だから行くという人間的な行為をやっていけていた精神は、小さな繊細な精神たちが上手いこと絡み合ってわたしの理性的部分を引っ張っていたからそうできていたのであって、このストッキングが引っ掛かりを感じてびびびと破れてしまったことで、わたしの小さな繊細な精神たちが破れて合理的判断を失った脳が白くなって無力さがとうとう全身に強く蔓延してしまったに違いなかった。
「まもなく夙川ー、夙川ですー」
 西宮北口と夙川は三分間隔ほどでかなり近い。引き返すべきなら今すぐここで立ち上がって反対側のホームに駆けていくべきところである、そのアナウンスが聞こえない振り、もしくはそのアナウンスがわたしにとって何の意味もなさない無意味なものである振りをしたくて、耳を閉じて目を閉じて、ストッキング星人のことを考える。ストッキング星人は生まれたての素肌がもともとストッキングに包まれている人間を作る研究を行っていて、その実験台としてしばしば地球の人間を捕らえて、宇宙船ストッキング号に拉致してしまうのだ。ちなみに、素肌がストッキングであるということはそのまま会社社会への適合・忠誠を表すので、そもそもストッキングが生えている人間女性を作ることで、朝に会社に行きたくなくなる人間女性を撲滅させようとする目的のためにその研究は行われている、からたぶん、ストッキング星人と全世界の政府なんかが協定を結んでいるという背景がそこにあるのだろう。もちろん全世界の政府の目的としては経済のためにだ。それがストッキング星人にとって何のうまみがあるのかは知らないが、おそらく東京ドーム何個かぶんの大量のストッキングを報酬として受け取っていたりするのだろう。そして、クーラーがかかっているために今すべて閉じられているこの車両の窓のうち、わたしの後ろの窓が突然にがたんと開き、スパイダーマンが手から瞬時にクモの糸をびゃっと出すみたいにストッキング星人が手から放ったストッキングの糸がわたしの頭にかかり、次の瞬間にはそれがもうわたしの身体中を肌色の糸で覆っているのだ。
「びえっ、びえっ」
 ストッキング星人は日本語を話せないらしい、下手糞な喘ぎ声のような声をあげて手から糸をすごい勢いで噴出しつつ、わたしの身体をまとう糸がどんどんエンドウ豆の鞘のように濃く強固なものになっていく。周りの乗客はざわざわと騒ぎ声を立て、車掌さんを呼んでこないとと走っていった者もいたが、周囲の人々はわたしから少し距離を取って、ざわざわと混乱するだけ。次第に濃いストッキングに覆われた視界がぼやける、ストッキング星人はエンドウ豆状に仕上げた肌色の鞘の上のところを掴んで、わたしを鞘ごと窓から抜き、磁力で引っ張られるように空を飛んで、空中高くに止まっていた宇宙船ストッキング号にわたしを連れ去った。でも、わたしは運が悪かった。ストッキング星人に拉致された女性はたいてい身体にメスを入れられ、天然ストッキング人間を作るための実験台にされてもとの人間性を失うことになるのだが、わたしに割り振られたのは実験台としての役目ではなく、ストッキング宇宙船内のストッキング工場でストッキングを作る作業員としての仕事だった。休めるのは、朝と夜の食事の時間と入浴の時間とトイレの時間と睡眠の時間のみ。そう書くと結構休めるみたいな気がするからもっと詳しく考えると、毎朝五時に起床して水で顔を洗い歯を磨いて朝食に糸こんにゃくと牛乳を摂り、朝五時半から夕方五時半まで働きづめ、その間トイレ休憩は五分ずつが三回。五時半から夕食の時間は十五分で糸こんにゃくとスープを摂ったあとはまた夜の十一時半まで仕事で、それから入浴というクソスケジュールで、もちろん休みの日などなく死ぬまで働き続ける強制収容所のようなストッキング工場なのだ。わたしは思うだろう、ストッキング星人に拉致されても、地上にいたときと同様に働きづめか、いや、違う、むしろ塾講師をしていたときよりも格段に酷くなっている!これなら地上で塾講師をしていたときの方が遥かにましだった!と。あかんな、ストッキング星人あきませんわ。わたしがストッキング星人に拉致されて地上の労働から解放されるという道をそうして諦めると、先程までわたしの後頭部の窓の外側の下の所に張り付いて窓を叩き割ってわたしを捕獲するタイミングを狙っていたストッキング星人は、わたしの破れたストッキングからにじみ出る、ほら、人工のストッキングは破れるからあきまへんやろ!というテレパシーを受信しづらい状況になったようで、電車の外をつつつと伝って、他の捕獲ターゲットを探すべく失せていった。