酔っ払って打ったやつ

しかめっ面して黒いゴムバンドのデジタルウオッチを眺め、「福原、一分五十秒遅刻だぞ。あと一分十秒したら置いて行くところだったんだからな」と東田くんが言った。東田くんは登校班の班長で、小学校では最高学年の六年生だ。丸っこく盛り上がったほっぺたにご飯粒をつけながら、「さーせん、さーせん」と謝る福原くんを尻目に、東田くんは手馴れただるそうな様子でぼくたちを二列に並ばせ、紐で留められた黄色い班旗を開いた。班長は登校班の一番前に立って歩き、班旗をひらひらさせながら他の人たちを引率して学校までの道のりを行かなくてはならない。東田くんはめんどくさがりで、こないだまで班旗を家に置きっぱなしでまともに持ってきた試しがなかったんだけど、先週の班会議でそのことを近所の他の班の女の子に告発されてからは、渋々めんどくさそうに黄色い旗を振っている。「俺はシャカイには従うタイプだからね、無駄に抗ってもいいことなんかないんだよ」と東田くんは言っていた。
「あれ、今日はいの上さんは休みなの?」班の集合場所の薬屋さん、一階の電気屋さんがつぶれたままで二階はたぶん人が住んでいる建物、薄茶色のマンション、を通り過ぎたころ、ぼくがふっと思い出して発した声に福原くんのまるまるした頬が、「井上さんは!こないだの!金曜日に!転校するって言ってた、なんで?おぼえてないの?」とぼくを見る。「・・・こないだの金よう日、ぼく、カゼでお休みしてた」「ああ!そっか!聞いてないんだ!井上さん転校するんだよ最後!だったのにね!」福原くんが言葉を発するたびに頬の肉は上下にもっちもちするけど米粒が取れる気配はない。東田くんが振り向いてぼくらを一瞥する、「井上はお母さんがバツがついたからおばあちゃんの家に帰って別の学校に行くって、うちのばあちゃんが言ってた」と一言でまた前に居直る。「東田くん、バツがつくってなに?しっぱいするってこと?」めんどくさそうに振り向く東田くんの口の横端は少し持ち上がっていて、「まあ、あながち間違いではないな」と空気をふるわせた。
「いの上さんのお母さん、なにかしっぱいしたの?しごととか?」
「バツイチって知らないのお前」
「おれ知ってる!けっこんにしっぱいしたってことだ!」と福原くんが言ったとき、頬のかぴかぴになりかけた白米がふっと飛んで取れた。地面に落ちて消えていく。ちっ、とわずかな舌打ちをして、東田くんは「離婚したからどっかの田舎のばあちゃん家にお母さんと一緒に行くんだってさ、どっかは忘れた。まあいいでしょ井上のことなんてどうでも」と言って、ぼくには眼鏡を耳に引っ掛けた頭の後ろが見えた。
「・・・けっこんにしっぱいしたら、けっこんをやめてリコンするの?」と小さな声で、とぼくの隣を歩く福原くんに聞いたけれど、福原くんは大きな声で「そうだよ!けんかして仲よしにもどれなくなったから、いっしょに住むのをやめて、できるだけ全部なしにするんだよ!」と言ったので、目の前の宙を眺めたまま「福原。だまれ、うるさい」ち東田くんに怒られていた。
 その日、学校が終わってからもずっとぼくは不思議だった。「ただいま」と言いながら鍵を閉じられていないドアを開けると、けんちゃんの「おかえりー」という声が向こうから返ってきて、重い手提げ袋を持ちながらぽてぽてとリビングに入っていくと、けんちゃんはいつも通りテレビゲームをしていた。ぼくを見つけると、ちゃんとぼくに顔を向けて、「今日は学校で楽しいことあったかー?嫌なことなかったかー?」と聞く。遠足とか特別なことがあった日以外はどう答えたらいいのか分からなくて、ぼくはたいていいつも首を横に振って、「ううん、ふつう」と言う。けんちゃんはぼくの荷物に目を留めて、「なんだカバン膨れてるけど何か持って帰ってきたのか?」と聞くけんちゃんの口調はいつも優しい。「うん、あのね、工作をねしたんだけど、それをみんな教室の後ろにおいてかざってたんだけど、てんじのきかんが過ぎたから、持って帰ってきたんだ」先生は、作るものはなんでも自分の好きな物にしていいと言った。粘土をこねこねして、何か一つ皆の好きな作品を作ってみて、それに絵の具で色づけしてみようねと言ったから、ぼくはぼくとママとけんちゃんが手をつないで、ぼくが風船を持っている粘土の人形を作ったんだ。前の席の女の子に、それは三人だから一つの作品じゃないよとケチをつけられたけど、ぼくの家族は三人で一つだからこれでいいと思ったんだ。
「おれとママと秀樹くんを作ってくれたの?上手だね!」とけんちゃんはにっこりした。あっよかったんだやっぱりこれで三人で一つの作品で、と思う。「おれの服、グレーになってるね、はは、その通りだ」とけんちゃんが笑う。「いつも着てるけんちゃんの服を思い出して絵のぐをぬったよ」と言うと、けんちゃんはほんの一瞬だけ目を細くして、それからまたさっきの顔に戻ってぼくの頭をくしゃくしゃ撫でて、「これは飾っとこうな、うん、いいね」と棚の上に置いた。そして宿題の計算ドリルと漢字ドリルをちゃぶ台でやり始めるぼくの隣で、けんちゃんはまたゲームの中に入っていった。87+93=? 56+21=?ぼくが二桁の足し算の答えを出すより早く、けんちゃんがゲームの中で人を銃で撃っていく音が聞こえる。けんちゃんが操作している人が握っている黒い絵の銃が、けんちゃんがボタンを押すたびに揺れて玉を出し、それが向かいの人のお腹に当たって赤くじわっとなって倒れていく。ぼくが、計算の答えをドリルに書くより早く、けんちゃんは人を殺す。ぼくが勉強をしていたらママはいつも、「ちゃんと解けてるの?分からないところはないの?あったらすぐ聞きなさいよ」と言うけれど、けんちゃんが勉強のことについて言ったことはないに等しかったと思う。「分からないところはない?」とけんちゃんはきっと聞いてくれないけれど、ぼくは今日二桁の計算よりもっと分からないことがある。けんかして仲よしに戻れなくなったら一緒に住むのをやめてリコンすると福原くんが言っていたけれど、けんちゃんとママはなんでリコンしないんだろう。だって、けんちゃんとママは、もうずっとずっと長いこと仲よしじゃないはずだ。