酔っ払って打ったやつ

 昨夜、初めてお姉さまが「神」となったところをお見かけしてから、わたしは日常の雑事や学問に気を埋もらせては、ふっとそれが途切れたときにお姉さまのことが浮かんでくるというように、なんだかそわそわと地に足がつかないような思いでした。土を踏んで歩いているのに、昨日いたお堂の辺りに足をぺったんと置いてきてしまったような気がしました。
 学校から帰って、家庭教師の藤吉じいやに勉強を見ていただくお時間が終わったわたしと、末の妹の美恵子は、今、庭に面した日当たりのよい子ども部屋で二人でいながらも、全然違うことを考えているのでしょう。美恵子は縁側に寝そべって絵を描いていましたが、白い紙に日光が反射して、ここからは何を描いているものかよく見えませんでした。わたしは詩集を開きながらもそれに集中することができず、やはり、お姉さまのことに心が持っていかれてしまうのでした。
以前、わたしと美恵子は小学校から、美代子お姉さまは高等女学校から帰られて家庭教師に勉強を見てもらったあとは、三人揃って、庭に面した日当たりのよい子ども部屋でだらだらと時間を過ごしたものでした。三人がかりで人形遊びをしたりと、きゃっきゃと騒いでいることもありましたが、大抵はわたしたちは同じ部屋におりながらもめいめいが好きなことをして時を過ごしておりました。美恵子は縁側でお日様の光を浴びながらお絵かきやあや取りをし、わたしは太陽と影の間で正岡子規の詩集を読み、美代子お姉さまは部屋の奥で体育座りをして日本の神々の本を読んでいなさったというふうに。
でも、今、お姉さまの姿はありません。前に突き出た軒のせいで奥までは日光が射しきらない部屋の奥を振り返ろうとも、お姉さまはいらっしゃらず、お姉さまが片付けるのを面倒がられて積み上げなさっていた本の塔すらもないのでした。わたしはふっと立ち上がり、お母さまが夕食の支度をしているであろう台所へと、廊下を渡っていきました。調理のためにせわしなく動いているお母さまの横顔に、気軽な思いつきであるかのような振りをしてお尋ねしました。
「お母さま」
「なあに三千子」
「ほんのたまに、お姉さまのお勤めが終わったときに、お堂に行ってお喋りするのは駄目でございますか」
「駄目ですよ」
「たまに、お姉さまと一緒にご飯を頂いたり、眠ったりするのは?」
「なおさら駄目です」
お母さまはこちらを見ず、汁を小さな皿にわずかに注ぎ、味見をする合間に答えました。とりつく島なく突っぱねるお母さまの様子に、今日ずっとこのようにして気軽なふうに尋ねてみようと考えていたことが失敗だったと明らかになり、ふつっと意地が湧きました。
「しょっちゅうなんて言っておりません。たまにでいいのです。月に一回、二月に一回でも」
「いけませんと言っているでしょう」
「どうしてですか」
「美代子さまをもうお姉さまと思ってはいけないと昨日もお話したでしょう。お姉さまと呼んではいけませんとも言いましたね」
「・・・じゃあ、お堂に朝食と夕食を持っていく係だけ」
「美代子さまの食事はばあやが特別に作って下さっているし、ばあやにお任せしておけばそんな係など要りません。分かりましたか?」
 お母さまと壁一枚で隔たった、台所の壁際に隠れてうなだれ、むすっとした顔のまま、呟くように「はい」と返事をしました。
 迷子、迷子、お姉さまは迷子、迷子、迷子、美代子さまは迷子。わたしにしか聞こえない声の小ささでそう歌いながら、廊下を渡り、元いた子ども部屋へと戻るしかありませんでした。窓が開けられていて外の空気がよく通っている廊下でだけは、もう少しだけ大きな声でデタラメな歌を口ずさみました。空は青く白く腹立たしく、母屋の子ども部屋からは遠くにある、離れのお堂近くの庭の様子は見えませんでした。でも、御祓いの順番待ちをした村民たちはきっと、お堂の外の庭に座り込んで順番待ちをし、頭なのか肩なのか胸なのか不調である身体の部分を押さえて、時々顔をしかめながら、日当たりの悪い影の中にいるはずで、わたしは少しだけ、土が積もった地面の上で地団駄を踏んで、彼らを蹴散らしてやりたいと、ちら、と想像しました。
「美恵子は美代子さまがいなくて寂しくないの」
「へえー、だって美代子さまはお勤めがあるから、前みたいに美恵子のお姉さまじゃなくなっても仕方ないことですとお母さまが言っておりましたものー」
 子ども部屋に戻って、依然、縁側で絵を描いていた美恵子に尋ねると、美恵子は得意げに紙をぱらぱらと揺らしながら答えました。ぱっと紙を奪うと、大蛇さまに頭を下げているお姉さまを描きたかったのでしょうが、大蛇様と、正座がつぶれて顔の付いた長方形の箱が並んだ絵になっていました。床に寝転がっている美恵子の指と指の間に紙を挟んで返すと、美恵子は無邪気に笑って尋ねました。
「ねえ、これ、何の絵かお分かりになりますかー?」
「分かりません、全然分かりません」
 そう言って、部屋を出て行こうとすると、後ろから、美恵子がえーと不満がる声が聞こえてきましたが、わたしは素知らぬ顔で、行くあてもなく家を出てお散歩に向かいました。
 わたしは村で有名な家の娘でしたし、村民の方に声を掛けられて
お喋りをしたい気持ちではなかったので、川沿いの向こうの人気の少ない森の方へ歩いていきました。時々、お姉さまや美恵子と山菜を積みにきていた森でしたが、クマやイノシシなど危ない動物はいない小さな森で、わたしはこの森の静けさが好きでした。もうすぐ夕暮れへと近付く時刻で、日は照っているものの、背の高い木々に阻まれて、ここにはまばらな光しか届きませんでしたが、それが今はかえって気持ちを落ち着かせてくれるようでした。着物を汚すと怒られるのですが、後で土をはらえばいいと思い、大木の根っこのそばに腰を下ろしました。目を閉じ、しんとした森の香りを吸い込もうとしましたが、その時、また頭痛が頭を覆い始めるのを感じました。また、悪い霊魂がわたしの前世かどこかでの悪行をこっぴどく吐き出すことを急かしているのか、と頭を押さえ、息をつきましたが、顔をそっと大木の皮膚にもたれかけると、ざらりと強い木の感触が伝わってきました。わたしは。
 結局、頭痛に襲われ、御祓いをして霊魂を放ってもらうことを求め、しかし、「神」でない姉を求めている。でも、母は美恵子は父はどうしてそう簡単に姉を捨てられるのだろう。お姉さまはこの間までわたしたちの姉として共に暮らしていたのだ。お姉さまは、ずっとおばあさまだったおばあさまとは違う。お姉さまも、寂しいはずだ。お姉さまはおばあさまみたいに慣れきっていないのだから、お姉さまも前のような家族とのひと時を持ちたいと思っているはずだ。なのに、なんで皆はそんなふうに姉を切り捨てる。どこかでわたしの名前を呼んでいる声がする。三千子ちゃんと呼ばれているような気がする。でも、それはお姉さまの声ではない。けど、ああ、もう、頭がぎしぎし痛む、お家に帰らなくっちゃ。
「三千子ちゃん?」
「へっ、葉山先生」
 目を開けると、そこにいらっしゃったのは葉山先生で、わたしは思わず間抜けな声を出しました。葉山先生は村で、そろばんとお習字を教えていらっしゃる。葉山先生の顔をお見かけするのは村で擦れ違う時だけで、お目にかかる時はいつも久しぶりでした。先生は勉強を教える腕は確かな人、ということでしたが、村で唯一と言っていいほど御祓いにいらしたことがないお方だったので、うちの親類からは変わり者だと、少々毛嫌いされているような方でした。
「どうしたんです、夕暮れ時に一人で森に来て。何か嫌なことでもあったんですか」
「ええ、いえ、なんとなく、です」
 葉山先生の瞳は細くて優しげで、それでいてわたしよりもっと遠くを見ているような目で、思わず遠慮に近い言葉がこぼれ出てから、もっと他の言葉を出せば良かっただろうか、などと考えてしまうのです。
「そうですか。僕はお客様がいらっしゃったものだから、夕飯に山菜を採りに来て、帰るところなのですよ」
 肩に掛けた布袋をひょいっと下ろして、その中をごそごそやり、一つ摘んで出した紫色の花を、わたしの顔の前で揺らしました。
「こんな花も見つかりました。可愛らしいでしょう。良ければ差し上げます」
「はい」
 本に挟むとしおりになって、ひなびた後も綺麗ですよと、両手をくっつけて開いたわたしの手のひらの上に、葉山先生はそのお花をそっと置きなさりました。では、と、去っていこうとする先生に軽い礼をし合いましたが、先生は歩を進めてしばらくなさってから、ふっと振り向かれました。
「一番上のお姉さまが神事をお勤めされることになったのでしょう?あなたも色々気苦労があるかと思いますが、外に出たくなったらいつでもうちの教室にいらっしゃい」
 わたしは声を返さず、曖昧な笑いをして首を傾げてから、微かに縦に振りました。先生は歩き出されて、「よいよい、色んな選択肢があるということです」と離れていく背中がおっしゃいました。


 村民たちの御祓いを終えてからの、夜の一時間が家族と親類の御祓いの時間と言えど、御祓いしてもらいたい親類たちは多くいるので、わたしの二度目の御祓いの順番が回ってきたのは、前から六日後のことでした。
 木の扉と襖を開け、平手を畳について礼をしてから頭を上げると、お姉さまの頬は少しこけており、いくらかお疲れになって痩せられたように見えました。ただ、わたしはそのようなことを口にはせず、自分の名前を三度唱えました。
「竹田三千子、竹田三千子、竹田三千子」
 今日出て来られた霊魂は前世かそれより前のもので、わたしが武将の奥方だったときからの恨みとのことでした。その男はわたしの夫である有力な武将に歯向かって怒りを買ったため、一家が火あぶりの刑に処され、せめて子どもはと懇願したにもかかわらず、妻であったわたしは助けてくれなかったという話でした。
 その御祓いが済み、頭を床につけてお礼を言った後、わたしはぱっと立ち上がり、お姉さまに耳打ちをいたしました。
「お姉さま。お姉さまは家族と離れたこちらのお暮らしで不自由な思いをなさっていませんか」
 お姉さまは一度素早くまばたきをなさると、さっと堂からお出になり、こちらに、とでもいうように堂の外から手招きをなさいました。わたしの背に合わせて少し顔をかがめてお話して下さるお姉さまは、堂の中の大蛇様に聞かれてはよろしくありませんからと、声を潜めてひそひそと話されました。
「心配を掛けて申し訳ありませんね、お心遣い嬉しく存じます。けれど、わたくしは何とかやっておりますゆえに」
「でも、お姉さま、痩せなさって。それにお疲れのご様子ではありませんか」
「不慣れなことでございますからね。でも、ご心配はいりませんよ。三千子さんこそ、慢性の頭痛以外は元気に過ごしていらっしゃるの?御祓いのときにしか会えないものですから、どうも元気な様子を見れないけれど」
「ええ、はい」
 お姉さまがいない生活が未だにしっくり来ていませんでしたし、そんなしばらくぶりに会う疎遠の親戚の方のような質問をされることにも一抹の寂しさを感じましたが、それらをいい加減にすりつぶして、はい、と答えました。そう、それなら良かったです、今夜はゆっくりとお休みになって。と、数日振りにお姉さまはかつてのお姉さまのような笑顔を浮かべられて、襖を閉じ、それから木の扉が閉じていきました。