酔っ払って打ったやつ

 おばあさまが生前されていたように、お姉さまは「お堂」と呼ばれる母屋の離れに一人でお住まいになり、そこで親類や村の方々に憑いた霊魂を除霊するお仕事を行っていました。身体や心の調子が悪くなるのは前世や今世で憑いた霊魂のせいで、大蛇さまにお仕えする者に御祓いをしてもらうことで、侵された身体や心が治癒、緩和されていくというのが伝えられた教えでした。そして、御祓いの時間も、朝から夕暮れ頃までが村民に充てられる時間、夜の一時間が家族に充てられる時間と割り当てが決まっておりました。
夜の黒い空を月がぼんやりと白く照らす夜、わたしはお姉さまがいらっしゃるお堂の木の薄い扉を叩きました。
「三千子です。御祓いをお願いしたく参りました。大蛇さま、美代子さまにお頼みできますでしょうか」
 平素と変わらぬ決まりきった言葉を口にしましたが、大蛇さまのあとに続く言葉がおばあさまでないのは初めてで、月がどくんどくんと小さな鼓動を脈打っているような気がいたしました。
「どうぞ、お入りになって下さいまし」
 木の扉と、その先の襖をそっと空け、お姉さまの姿をはっきりと捉える前に、畳に深く頭をつけて一礼しました。顔を上げ、それから病状を告げるというのが決まりきったやり方ですが、わたしは、あ、と小さく声を漏らしたあと、ニ、三拍何も言えませんでした。お堂を開け、一礼のあと顔を上げ、そこにいらっしゃるのはいかめしく重々しい顔をされたおばあさまのはずでした。そこに鎮座なさって、白いお着物をお召しになって薄い笑顔をまとわりつかせたお姉さまは肌が随分青白く見え、まるで完璧な真似事をしているようでした。今日のお頼みごとはどのようなことで、などとお姉さまが上手にお聞きになる前に前に言わなくては、とあわてて言葉を告げました。

「あの、寺の鐘がぼーんと鳴るように頭が痛むのです。ずっと痛むのです。御祓い頂くとしばらくは痛みが病むのですが、もうしばらくすればまた痛みだすのです」
「お聞きいたしました。それでは名前を三度お唱え下さい」
「竹田三千子、竹田三千子、竹田三千子」
教科書の音読のように自分の名前を三度唱えた途端、薄ら笑顔を浮かべた白い雪のようなお姉さまのお顔がお崩れになり、途端に眉間に激しく皺を寄せて、目に怒りの色が灯されました。今世のものか前世のものか分かりませんが、お姉さまがわたしの身体に宿っていた悪い霊魂を代わりに乗り移されたのです。蛇のような鋭い目をされていたおばあさまがなさっていたときには取り立てて感じませんでしたが、お面を付け外しされるようにお姉さまの表情が変わり、怒りや悲しみや憎悪に染まるのは怖いことのように思えました。
「お前、今更なにをのこのこと出てきおったんじゃ。わしゃ、お前のことは絶対に許さんからな。ずっとずっと許しとらんのじゃ」
 怒気を溢れさせる、田舎言葉の男らしい口ぶりの声がお姉さまから発され、内心びくりとしなかったと言えば嘘になるでしょう。おばあさまのお力は本当にお姉さまに受け渡されたのだな、と感じ、あの時おばあさまに名前を呼ばれ、手を握ったのがわたしだったなら、わたしがその役目とお力を受け継いでいたのだろうと思い、その時感じた胃の底がひやりと冷えていくような感じをわたしは受け流そうとしました。そして、おばあさまと何十回、何百回と交わして染み込んでやり方を思い出すようにして、お姉さまに尋ねました。
「前世の方ですか?今世の方ですか?」
「あ?」
「前世の方ですか?」
 お姉さまは癇癪を込めなさるように不快そうに顎をひねって頷き、ふんっと下卑た鼻息を鳴らしました。お姉さまの綺麗なお顔を歪められることがいささか不愉快、と思いながら、重ねてお尋ねします。
「わたしが前世で何かご迷惑をお掛けしましたか?」
「ご迷惑も何もお前が医者でヤブ医者で病気のわしの嫁に一本何十両もするたっかい薬をぼんぼん打っていったんじゃあ。わしは平凡な農家やけん、そうお金もないでの。でも、病気がよくなるためやったらと思うて必死にお金を作ってたっかい薬をようさん打ってもろうたんじゃあ。町のお医者さんの言うことやし、と思うての。でも、あんたに診てもらうようになってから三月もせんうちに嫁は死んでしもうたわあ。あんたは謝りもなんもせんでなあ、残念でしたね、なんか言うて。なにが残念じゃ」
「ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした。わたくしのせいで辛い思いをさせてしまって本当に申し訳なかったです」
 頭を下げてお詫びすると、頭上からまたその男が鼻をふんと鳴らす音が聞こえました。
「ほんまに思うとるんか?」
「はい。わたくしが至らなかったせいで非常に辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳なかったと思っております」
 頭を下げながらそのような言葉を口から出しましたが、おばあさまに御祓いをして頂いていたときからずっと台詞のように喉についてしまった言葉で、実のところわたしは何の申し訳なさも抱いておりませんでした。だって、前世のことなどを滔々と語られたところで記憶が蘇るわけがございません。しかし、馬耳東風なところがありながらも、頭を下げて謝りの言葉を並べれば、やがて許されるものでした。口先だけをぽちょりを墨汁につけた謝罪で、何百年前からの前世か前前前世からの恨みつらみを手放せるのか、というのは頭の上の方を流れていく考えで、それは空気中にぽうっと溶けていくような手ごたえのないものでした。幼いわたしには、明確な否定や疑いといった気持ちは生まれなかったのです。それは、生まれながら野生の獣に育てられた人間の子が、獣のように四本の足で這い、生肉を食らうことと似ているかもしれません。人間の子は自分が獣のように速く走れない、尖った牙を持っていないことに少しの違和感を覚えるかもしれませんが、かと言ってそれを否定する後天的な知性や判断力を持っていないはずなのです。
 男の霊魂をお姉さまは身体の片隅に宿したまま、その男に優しく神のようにお語りかけになりました。
「あなたさま。あなたさまの悲しかった思い、辛かった思いはしかとお聞きさせていただきました。あなたさまは奥さまのことを大切に思いやりになって、奥さまのためと思い必死にお金をお作りになったのに、病気が治らず奥さまが亡くなってしまう結果となり、心底お辛かったんですね。その、お辛く悲しかった思い、ご察し致します。医者であったこの者に代わって、わたくしからもお詫び申し上げます。本当に申し訳ありませんでした。でも、この者はその時の医者の生まれ変わりで、何度も生まれ変わって今の娘として生まれてきております」
「はっ、生まれ変わり?」
「そうでございます。あなたの奥さまが亡くなり、あなたさまが亡くなってからもう何百年もの時が経っております」
「なっ、何百年もじゃと」
 お姉さまがその男にお話掛けになってからは、わたしはもうその空間でじっと座っているだけの行儀の良い羽虫で、お姉さまとその男の二人芝居のようになっておりました。わたしは、外と繋がった襖のところ以外は、三隅の壁がつぶつぶの砂を固めて作ったようになるのを見つめていました。お姉さまのお顔は見ませんでした。あの壁を引っかいたら、沢山の砂がぽろぽろとこぼれ落ちてくるのでしょうかと、おばあさんに御祓いをして頂いていたときにも散々考えたことを今も考えたかったのです。
「はい。あれから、何百年もの時が経ち、当時生きていた人は皆死に、時代は変わったのです。あなたさまの辛さ悲しさはわたくしの心にも辛く痛み入るところでございます、が、ずっとこの医者を恨んでいなさってはあなた自身がお幸せになることができません。もう、何百年も前のことでございます。いつまでも恨みつらみの気持ちを抱えていなさっては、あなたさまの魂は永久に暗いところにいるだけになってしまうのです。いかがですか、この者はもう反省しております。あれから随分時間が経ちました。あなた自身の未来の魂のためにこの者をお許しになってはいかがですか」
「ふん」
「では、あなたさまの奥さまはいかがでしょう。あなたさまがずっと終わってしまったことを恨み続け、永遠に苦しみの中にいることを願ってらっしゃるでしょうか」
「うるさい小娘、黙れ」
「あなたの奥さまの魂は天国であなたをお待ちになっていますよ。この医者を恨んで、この者が何度生まれ変わっても頭に宿って呪いを掛け続けていた何百年もの間、ずっとあなたさまをお待ちになっているのですよ。この者を恨むのをもう止め、奥さまのところに行って差し上げたいと思われませんか」
 しんと冷たい夜の空気が一瞬止まりました。夏の夜は日中に比べていくぶん冷えるけれど、秋のように虫の声が聞こえなくて静寂なものでした。わたしは砂の壁から目を離すと、お姉さまか何百年もの前の農夫なのかそれらが入り混じった存在に目を向け、それらを引き剥がしたい衝動を弱く感じながら、彼らを見つめました。
「でも。わしは、あんたが言うことが本当ならもう何百年もこの医者を恨んどることになるから。どうやったら天国に行けるんか分からん」
 小農夫は怒気を外した途端、しゅるしゅると小さくなっていく物の怪のごとく気弱になり始めていました。小農夫の手をもう片方の手で握るお姉さまはやはり「神」の佇まいで、お姉さまはどうしてこれ程おばあさまの真似を自然になさるのだろう、もしくは昨夜死にゆくおばあさまの手を握られた時、説き方や振る舞いひとつ取っても、おばあさまがお姉さまに吸い込まれたのかと雑念が頭をもたげました。。白く、黄色い光を通しておばあさまはお姉さまの中に吸い込まれていった、そうならばおばあさまはお姉さまの中で生き、お姉さまの目や手や心を支配しているのでしょうか、など馬鹿げたたわけごとを。
「この者への恨みを手放し、魂を天国へ向かわせたいと本当に思われますか?」
「本当じゃ。嫁のところに行けるなら、本当にそう思う」
「では、恨みを失くして未来に向かって生きる、と三回唱えてください」
「なんじゃ?」
「恨みを失くして未来に向かって生きる、と三回」
「恨みを失くして未来に向かって生きる・・・恨みを失くして未来に向かって生きる・・・恨みを失くして未来に向かって生きる」
 三回唱えるやいなや、立ち上がったお姉さまは襖と戸と勢い良く開けられ、すううっと身体中から溜めて緊迫された息を大きく吐き出し、今しがたお姉さまの身体をお借りしていた魂を天界に送り出されました。
 襖と戸を外に向かって開けたまま、こちらに振り返りなさったお姉さまは月の白い光を浴びていらっしゃり、白いお着物をそれが一層まばゆく照らし、お顔には影ができていらっしゃいました。手を伸ばせばそこにいらっしゃって、足首を掴んでふざけて大いに揺らして転げさせようとする戯れもできたようなお姉さまが月の遠くにおられるお方に感じられ、わたしはそっと頭を床につけて、お礼を申し上げました。