酔っ払って打ったやつ

もう、駅から大学までの道のりから見えていた紅葉は落ち、木々は厳粛に冬の準備を始めていた。日当たりはいいものの、十二月に入ってから、いくぶん寒さを感じるようになった。午前十時二十分。おれはその道のりを歩き、自然と目に入る山々の遠景を心に留めず、吹き付けてくる木枯らしがひやりと冷たいために、いつの間にか深海魚になった気分に没頭していた。よく知らないが、深海の水はすごく冷たくて、冬のような暗い寂しさをもたらし、ひんやりと体温を奪っていくようなイメージがある。頭の上部から提灯を生やしたチョウチンアンコウになった自分を想像し、この道のりの地面にあるのは舗装されたアスファルトじゃなくて、分厚い水面なのではないかと考えた。ちゃぷちゃぷと深くて冷たい海の、ずっと底の方を泳いでいく。ところどころ周りを泳いでいるのは名前を知らない珍妙な深海魚たちで、ぼげっぼげっ、と、人間語に訳せばワイワイみたいな鳴き声を発しながら、ちんたら泳いでいる。おれは一人で、海の上り坂を、提灯を揺らしてぐいぐいと進み、時折グワーンと大きくてぎざぎざした口を開けて、海底で揺れているワカメやモズクやタピオカを飲み込む。でも、おれは海底で長らく暮らしてきたけれど、かといってそこを気に入っているわけではなかった。分厚い海水のずっと上には白い太陽が照っているはずで、おれはその眩しさに憧れた。いつも怒っている小さな岩みたいな目で、ずっとずっと上の方の水面を見上げる。うすい水色の海水の表面に太陽が反射し、つやっと光って見える気がした。上の方に行ったらパンと弾けてポップコーンのように死ぬかもしれないと思いつつ、ゆらゆら、ゆらゆら、と様子を伺いながら水面近くに浮かび上がっていき、頭の上部から突き出た提灯で、触れるか触れないかぐらいのかすかさで、水面をなぞった。う、ひどく眩しい水上から赤いライトがおれを照らして侵入をこばんだ。校門の手前の赤信号で止まってやっと、おれがチョウチンアンコウになりきった人間であったことを思い出し、それから、向こう側のキャンパスがいつもより騒がしいことに気が付いた。

昼休みでもないのに、流行のJ-popの曲の放送がけたたましく流れていて、多くの人であふれているのが見えた。校門のとなりにデカデカと「第三十二回☆クローバー祭」との看板が立てかけられているのを見つけて、今日が学園祭であったことにようやく気付く。そういえば、駅から大学までの道もなんだか浮き足立った雰囲気であったけど、チョウチンアンコウになりきっていたので気付かなかった。この大学の学生のふりをし始めて早四年目なのに、学園祭などという日の当たるイベントを避けていたので、講義もないこんな日に大学に来てしまったなんて完全なる失念だったと頭を抱えたくなった。せっかく来たから図書館で受験勉強をするか、それとも踵を返してユーターンかと迷い、その答えが出る前に信号が青になったので、あ、え、どっち、と思いつつ他の歩行者に流されて信号を渡ってしまった。が、キャンパスに足を踏み入れるや否や、その惰性的な選択が全くの間違いであったことを実感して、自分が小学生なら今すぐ足をくじいて静謐な保健室に運ばれたい気持ちになった。校舎では展示やゲームイベントなどをしているのだろうが、外には食べ物を売る店が並び、平生よりひときわ明るげな雰囲気を放った学生の群れがどうぶつたちの愉快な祭典のようだった。チョウチンアンコウくんも思わず顔を顰める。
「おれが憧れる水面はこういう類の明るさではない、こんな中身のない無益な明るさは不健康なメロンソーダみたいなカラ明るさでおれはこんなものには苛々してしまう性分なんだよ」とチョウチンアンコウくんは貧乏揺すりのように提灯をふんふんと揺らした。そらからチョウチンアンコウくんは身体全体を大きく一度震わせて、
「ああ、でも、そんなものに苛々させられている自分にも苛々してしまうよ。来ると思っていなかったところで唐突に降って来る苛々っていやだよねえ。そんな急に来ちゃったらHPドン減りしちゃうよって感じだよねえ。しかも、大した苛々じゃなくて、ウロコにずっとモズクの毛束がついてて、小岩になすりつけても上手く取れないまま泳いでるみたいな中途半端な苛々だからこそ、そんなことで気を取られている自分にも苛々しちゃうっていうもんだよねえ」と、丸めたクッキー生地を伸ばすように、憤慨を広く伸ばして薄くしようと喋った。でも、羨ましいんだろう?と、どこかから超音波が聞こえてきた気がしたが、おれとチョウチンアンコウくんは揃いも揃ってそれを無視し、
「チョウチンアンコウくん、あちらの図書館に行くまでの道は屋台に阻まれてずいぶん通りづらそうだから、ローム館を通り抜けて、その裏からの迂回路を取りたいと思う」
「ほお、うん、そうしたまえ」と落ち着きのある人と魚のふりをして相談する、という深海魚ごっこを頭の中で続けていた。
 ローム館に入ると、入り口そばのステージで何かイベントをやっているのが視界の端に映ったが、無駄な明るさを発散する学生たちに触れるも見るももはやよろしいことではなく、ひとまず早く図書館に非難したかったので、軽く俯きながら早足で向こう側の扉に急ごうとした。が、近付いてきた男がおれの肩を叩き、
「お兄さん、たこ焼きはお好きですか?」と聞いた。はい?と聞き返すより前に、チョウチンアンコウくんがぎざぎざの大きな口を開き、
「ヘエ、タコ焼キ。ウン、好キデス」とぐにゃぐにゃした歪んだ声で返事した。深海魚らしいとも言えるいびつな声色で、おれが考えるより先におれの喉を奪ってぺらぺらと喋ったことに驚いた。が、その返事を聞くと、その男が満足そうに大きく頷いたあと、おれの右手をつかんで、天井に向けて高く掲げ、
「次の挑戦者はこの人だー!!」と叫んだことにも驚いた。マイクを通した声がローム館じゅうに響いて、キーンとした途端、ステージの上から下がるスクリーンにおれの顔がアップで映った。思わず一歩後ずさりして、「は、え、なんですか」と洩らす。すぐに学園祭の催し物に巻き込まれてしまったことを理解し、「いや、おれはそういうのはいいです」と抵抗したものの、「いや、お兄さんたこ焼き好きって言われてたじゃないですか」とステージ上に上げられてしまった。三人掛けの机を二つくっつけたところの端の席に座らされ、もう片方の端に座る男はおれの顔を見ると、野蛮な笑顔をにやーっと広げた。
「さて始まります、食いしん坊クラブ開催、フードファイツ!!たこ焼き五分間大食い選手権―!!!」と、先ほどおれを捕まえた男が太鼓を叩くように声を響かせ、隣の男の大口を横に開いて笑うスタイルの笑顔を見て、あー食いしん坊クラブね似合うね、と納得し、いや、おれがなんでその対戦相手にされるんだあと鼻と目がひくひくした。ごめんなさいと心底、尻尾を巻いて逃げ出したい気持ちだったが、正面を見てみると、大勢がステージの向こうの観客席に座ってにこにことしており、二階から立ち見をしている人までもがにこにことしており、逃げられないことを悟った。カーンと開始のゴングが鳴らされ、五つ入りのたこ焼きの皿を、机に叩きつけるように置かれた。
「焼き上がって皿に上げてから最低三分は計ってからのご提供ですので、火傷することはありません!ご安心ください!」と司会役らしいあの男が声を上げる。
自棄になって、皿に口をつけてすするようにして一気に押し込むと、とは言え熱いわ、と思った。口を開けてはっはっと空気を取り込みながら咀嚼している間に、机にぞくぞくとたこ焼きの皿が並べられ、また次の皿のたこ焼きを同じように口に注ぎいれた。ステージを見回すと、おれと対戦相手のテーブルを中央として、ステージの両端に今まさにたこ焼き器でたこ焼きを焼いている女の子たちが二人ずついて、意味不明に思えるこの空間が文化祭というものなのかと少しカルチャーショックを受けた。ステージの端でたこ焼きを焼いている女の子たちは皆とても短いミニスカートを穿いていて足が長く、どこかのキャンギャルみたいだった。このふざけたサークルの女子部員なのかな、このあと打ち上げに乱交パーティでもするのかなと思ったけど、おおむね頭も口もたこ焼きでいっぱいにならざるを得ない状況だった。口の中がぐにゅぐにゅしたたこ焼き粉でいっぱいになって、早く終わってくれよと思いながら、噛みくだいて飲み込んでいく。
「終了です!食いしん坊クラブ大将十三皿、挑戦者八皿―!!!大将の勝利です!!!」と、やがて、終了のゴングがカンカンカンと鳴った。司会者役の男がおれにマイクを向け、感想を求めた。おれは、突然参加することになってびっくりしました、などと口を開こうとしたが、また、チョウチンアンコウくんがおれの喉を乗っ取って、ぐにゃぐにゃ喋りだした。
「楽シカッタデス、負ケテシマイマシタガ、最後ノ 学園祭ダッタノデ 珍しシイコトニ 参加デキテ 良カッタデス」と、ぐにゃぐにゃした声が、頭痛を誘発させるように頭に響く。
「最後の学園祭ということは、お兄さん四回生なんですか!もうすぐご卒業なんですね!」
「マキタ ヤスユキ、文学部心理学科 四回生、モウスグ卒業デス」それはおれが四年前に入学していたらの話だよ、と思いながら、痛くなる頭を押さえる。頭のずいぶん底の方が痛むように感じた。でも、それは四年前からずっと痛んでいたんじゃないかと思った。
「うそ!おれも心理学科の四年ですよ!うちの学科、五十人もいないけどお見かけした記憶がないなあ!不思議ですねえ!」男は目を大きく丸く見開いて、その声はマイクを伝って、建物じゅうによく響いた。その途端、チョウチンアンコウくんが喉の拘束をぱっと解いて離れていったのが分かった。何か言わなければ、怪しまれる。たくさんの人の前でウソを聞かれてしまった。おれは焦って、
「あ、えっと、おれ、留年してて単位がちょこっと足りていない分しか講義出てないから、それで会ってないのかもしれないですね」と、それらしいことをぱっと口から出した。すると司会者は手をポンと打って納得した顔つきになり、「ああ、そういうことなんですね!お互いに卒業に向けて頑張りましょう。では、ありがとうございましたー!」と元気に声を放った。