母親から電話が来たのは、アパートの一人暮らしの家のドアを開けて、スニーカーを乱雑に脱ぎ捨てて家に上がった瞬間とほぼ同時だった。取り出したスマホの表示された「母」という文字を見て、見計られたようなちょうどのタイミングに、家に監視カメラでもつけられてんのかなーとぼうっと思った。スマホを鳴らしたまま、部屋に鞄を下ろしてカーペットにだらりと座り、しばらく「母」を眺めていた。あれよな、と思う。若者はそんなことないが、年配者は相手が出るのを期待して電話を鳴らしている時間が長い。かつては固定電話しかなかったから、自分の部屋などにいても、家で電話が鳴れば固定電話の場所まで走っていかないといけなかったから、しばらく鳴らし続けていれば相手が走ってやってくるという感覚があるのだろうか。っていうか、出たくなかった。しかし、特に月末に掛かってくる母親からの電話に出ないと、仕送りの日を遅らされるので、おれは息をついて仕方なく通話ボタンを押した。
「ちょっとお、ヤスユキ、元気してるのお。お母さんが掛けなかったら自分から全然掛けてこないんだから」と、取り立てて懐かしさも感じない母親の声が耳に響く。母親は携帯で電話するとき、なぜかやけに声が大きい。声を張り上げないと、相手に聞こえないと思っているのだろうか。
「ああ、うん、レポートで忙しくて」
「レポートレポートって大学の勉強って忙しいのねえ。ちゃんと元気にしてるの?ごはんは食べてる?インスタントばっかり食べてんじゃないの?」
「食べてる食べてる」
おれは母親と話すとき、何も感じない何も伝えようとしない、質問に端的に答えるだけの無に近い人間になった気がする。彼女が気にかけているのは、幼稚園や小学校のときの無邪気なおれがそのまま育ったイメージに対してだろうけれど、おれはいくぶん昔に、彼女が喜ぶおれではなくなってしまったのだ。
母親がそれからまた投げかけてきた質問にいい加減に答え、ひとりでにペラペラと喋る話を適当に聞き流したあと、
「で、就活はどうなの?最近は売り手シジョウだって聞くけど、上手いこといってないの?」という質問に、ぐんと下腹が重くなった。
「うん、まあ、頑張ってるよ」と出まかせを言うと、
「よろしく頼むわよ。お父さんも退職したし、留年とかされちゃ、学費出せないからね。もう十一月だから、気合い入れて、よろしく」と、おれを疑わない母親は明るい口調でしっかりと念押しした。電話を切って、おれは身体を支える力を失ってしまった人のように、カーペットの上になだれた。スマホをベッドの上にぽんと放り上げて、片手を天井に向かってなよなよと突き出し、
「あ―――」とうめいた。黒いものを見ないように閉じ込めていた箱は、いとも簡単に開いて、すぐさまおれを黒い暗いモヤで覆う。
母親はおれをもうすぐ大学卒業する四回生の息子だと信じているが、実際のおれは大学生ですらないのだ。なのに、通うはずだった大学に平日五日とも通うという気が狂っているような行為を四年近く続けている。出るのは、個人名を呼んで出席を取らない、大教室での授業。九時半ごろにだらだらと起き出して、十時四十分からの二限を受け、昼食をはさんで三限を受け、帰宅するのがおれのルーティンだ。気が狂っていそうかもしれないが、大学に籍があるということとテストを受けることとレポートを出すこと以外は、やつら大学生とほとんど同じことをしているのだ。でも、気が狂っているか。
そもそもなんでそんな羽目になったかというと、四年前の春に合格通知を受け取ったあと、入学金を納入する日を見過ごして、時すでにお寿司だったからだ。そして、大事な日付をうっかり見過ごしていたことを怒られるのを先延ばしにし、自分で学費を管理してお金の重みを知りたいだとかを親に言って、自分の口座に学費を入れてもらって自ら学費を納入するシステムにしてしまった。そのうちに、怒られて済む次元の話ですらなくなり、本来四年生の十一月であった今まで引き延ばしてしまったというおそろしき顛末なのだ。
「あ―――。あ―――。あ―――」天井へと何度もうめき声をあげていると、天井にそれがぶつかって加速し、額あたりに重いものを跳ね返してきて、おれをひしゃげさせて潰す気がした。おれは人間のクズだ。コーヒーを一杯こぼした汚い漫画だ。物を出したあとの段ボールのゴミだ。音が聞こえなくなってゴミになったイヤホンだ。ポテトチップスのカスだ。道端に落ちてるガムくずよりはちょっと良いぐらいだ。カブトムシより悪い。コガネムシと同じぐらいだ。
「ははは」と笑って、ガッとベッドカバーの薄い布と、布団をめくって、とても急いでベッドの中に入った。何かに戻るように、忘れるように、消えられるように、頭までずっぽり布団をかぶせて、目をつぶる。全部なかったことになったらどんなに良いかと思う。精子と卵子のところに戻って、他の精子と卵子に先を譲ってあげればすごく良かったのにと思う。それが叶わないなら、せめて、四年前の合格通知を受け取った日に戻りたい。それも叶わない。自分以上に、自業自得という言葉が似合う人を知らなかったので、おかしくなって、「自業自得だよ、因果応報だよ、くくくく」と胎児のように丸まったベッドの中で一人で笑った。
それでも朝はやって来る。午前九時半、そういえばセットしていたスマホのアラームがピピピと鳴っておれを起こし、ふわーあと、あくびをしたとき、自分が思ったより絶望していないことに気づいた。自分を殺すように絶望するのが面倒くさくなって、起きてしまったからもうしょうがないなという気分になって、圧倒的悲観をゆるゆると手放している自分が、狭いアパートの安物のベッドの薄い布団の中にいた。人間は、絶望の深みにずぶずぶと堕ちていく夜があれど、眠りと朝がそれを緩和することで生きてるんじゃないかと思い、でも、おれは死んだほうがずっといいんだけどなあと失笑した。おれは絶望に怠惰だ。絶望が面倒になるなんて、なんとも人間的なことである気がする。カーテンを開けると、白くまぶしい太陽光が目ににじみ、眠りも太陽も、夜中に死に憧れた人間の足をつかんでくるんだよなあ、と思う。
小さなフライパンを出して、卵を二つ使って目玉焼きを作って食べた。無精卵とか細かい話はいいにして、おれは命を食べている、と思った。自分のクソみたいな命をつなぐために、何か尊いものを食べていると思ったけど、全てのものが尊いか、もしくは世の中に尊いものなんて一つもないのかなと考えた。その目玉焼きを醤油をかけて食べたけど、一つ食べ終わった時点で飽きてきて、もぞもぞした単調な命の味がして、最後には卵半分ぶんぐらい残ったものを箸でがっとつかんで、口に突っ込んだ。もそもそと、口の中の水分を奪っていく、少しだけ甘い味がうざいぐらい口を満たした。
ゆっくり洗い物などをして、じりじりと時間を浪費して遅くなったせいで、駅から大学への道を歩いている人はいつもよりまばらだった。この道からは、キャンパスのもっと向こう側に位置する山の木々が紅く色づく様子がよく見えた。紅く、またはところどころ黄色く染まったきりか、まだ緑がそのままでいるところもある。きれいだと条件反射のように見とれながら、自分のことをやけにふんわりと明るく考えていた。もう一回大学受けよっかなあ、と思った、ひどく今さらだけど。でも、太陽光に白く照らされながら歩いていくと、自分の卑しさ浅ましさは溶けずとも、それでも世界に受容されて、やり直せるような考えが開けて、浮かんできてしまった。許される、おれは許されるんじゃないかなあと思った。ずっと嘘をついて偽装大学生をしていたことだけじゃない、おれにまつわる全ての穢れが。消えなくても、許されるのではないかという考えが頭をもたげた。おれの口座に入れてもらった学費はほぼ手付かずのまま残っているし、バイトをしたり、奨学金を借りたりすれば、十分なんとかなるはずだ。トートバッグからスマホを取り出し、来年度の入試日程を検索した。おれの入るはずだった文学部の入試は二月四日と六日に開かれるそうだ。自分がそうなるはずだった文学部の学生たちと混じって講義を受けることが耐え難くて、いつも科学棟の大講義室で聴講しているけれど、おれは本来、文系なのだ。二月六日はおれの誕生日だった。誕生日に四年越しの運命を決める受験をするなんて、すごく縁起がいい気がした。誕生日に四年ぶりの合格を手にし、とてもいい年の取り方をする。この日に受験して、やり直しをしたらいいような気がむくむくと湧いた。きちんと受験の申し込みの日にちを確認してからページを閉じる。今日は三限が終わったら、本屋に行って参考書を買おうと思った。もうすぐ坂道を渡り終わってキャンパスにつく。その手前の赤信号で止まり、校門の銀板の上に刻まれた大学名が、太陽光を浴びてぎらっと光るのが見えた。校門を通って今日も科学棟へ歩みを進める、もう二限が始まっているから、今日も途中入室だ。ずっとセックスレスだった妻が若い男と不倫したことで、逆に夫との久しぶりのセックスが燃え上がって夢中になった、みたいに、いつの間にかすっかり倦怠期が来ていたのだろう大学がおれの心をぐいんと動かした。科学棟に向かうまでのローム館の上に、《クローバー祭まであと25日!!》と書かれた紙が張られていて、その端っこが風に吹かれて、ふわんふわんと揺れているのが目に入った。おれは四年ぶりぐらいに、風に吹かれて飛ばされない、地に足が触れかけた人間になった、気がした。
「ちょっとお、ヤスユキ、元気してるのお。お母さんが掛けなかったら自分から全然掛けてこないんだから」と、取り立てて懐かしさも感じない母親の声が耳に響く。母親は携帯で電話するとき、なぜかやけに声が大きい。声を張り上げないと、相手に聞こえないと思っているのだろうか。
「ああ、うん、レポートで忙しくて」
「レポートレポートって大学の勉強って忙しいのねえ。ちゃんと元気にしてるの?ごはんは食べてる?インスタントばっかり食べてんじゃないの?」
「食べてる食べてる」
おれは母親と話すとき、何も感じない何も伝えようとしない、質問に端的に答えるだけの無に近い人間になった気がする。彼女が気にかけているのは、幼稚園や小学校のときの無邪気なおれがそのまま育ったイメージに対してだろうけれど、おれはいくぶん昔に、彼女が喜ぶおれではなくなってしまったのだ。
母親がそれからまた投げかけてきた質問にいい加減に答え、ひとりでにペラペラと喋る話を適当に聞き流したあと、
「で、就活はどうなの?最近は売り手シジョウだって聞くけど、上手いこといってないの?」という質問に、ぐんと下腹が重くなった。
「うん、まあ、頑張ってるよ」と出まかせを言うと、
「よろしく頼むわよ。お父さんも退職したし、留年とかされちゃ、学費出せないからね。もう十一月だから、気合い入れて、よろしく」と、おれを疑わない母親は明るい口調でしっかりと念押しした。電話を切って、おれは身体を支える力を失ってしまった人のように、カーペットの上になだれた。スマホをベッドの上にぽんと放り上げて、片手を天井に向かってなよなよと突き出し、
「あ―――」とうめいた。黒いものを見ないように閉じ込めていた箱は、いとも簡単に開いて、すぐさまおれを黒い暗いモヤで覆う。
母親はおれをもうすぐ大学卒業する四回生の息子だと信じているが、実際のおれは大学生ですらないのだ。なのに、通うはずだった大学に平日五日とも通うという気が狂っているような行為を四年近く続けている。出るのは、個人名を呼んで出席を取らない、大教室での授業。九時半ごろにだらだらと起き出して、十時四十分からの二限を受け、昼食をはさんで三限を受け、帰宅するのがおれのルーティンだ。気が狂っていそうかもしれないが、大学に籍があるということとテストを受けることとレポートを出すこと以外は、やつら大学生とほとんど同じことをしているのだ。でも、気が狂っているか。
そもそもなんでそんな羽目になったかというと、四年前の春に合格通知を受け取ったあと、入学金を納入する日を見過ごして、時すでにお寿司だったからだ。そして、大事な日付をうっかり見過ごしていたことを怒られるのを先延ばしにし、自分で学費を管理してお金の重みを知りたいだとかを親に言って、自分の口座に学費を入れてもらって自ら学費を納入するシステムにしてしまった。そのうちに、怒られて済む次元の話ですらなくなり、本来四年生の十一月であった今まで引き延ばしてしまったというおそろしき顛末なのだ。
「あ―――。あ―――。あ―――」天井へと何度もうめき声をあげていると、天井にそれがぶつかって加速し、額あたりに重いものを跳ね返してきて、おれをひしゃげさせて潰す気がした。おれは人間のクズだ。コーヒーを一杯こぼした汚い漫画だ。物を出したあとの段ボールのゴミだ。音が聞こえなくなってゴミになったイヤホンだ。ポテトチップスのカスだ。道端に落ちてるガムくずよりはちょっと良いぐらいだ。カブトムシより悪い。コガネムシと同じぐらいだ。
「ははは」と笑って、ガッとベッドカバーの薄い布と、布団をめくって、とても急いでベッドの中に入った。何かに戻るように、忘れるように、消えられるように、頭までずっぽり布団をかぶせて、目をつぶる。全部なかったことになったらどんなに良いかと思う。精子と卵子のところに戻って、他の精子と卵子に先を譲ってあげればすごく良かったのにと思う。それが叶わないなら、せめて、四年前の合格通知を受け取った日に戻りたい。それも叶わない。自分以上に、自業自得という言葉が似合う人を知らなかったので、おかしくなって、「自業自得だよ、因果応報だよ、くくくく」と胎児のように丸まったベッドの中で一人で笑った。
それでも朝はやって来る。午前九時半、そういえばセットしていたスマホのアラームがピピピと鳴っておれを起こし、ふわーあと、あくびをしたとき、自分が思ったより絶望していないことに気づいた。自分を殺すように絶望するのが面倒くさくなって、起きてしまったからもうしょうがないなという気分になって、圧倒的悲観をゆるゆると手放している自分が、狭いアパートの安物のベッドの薄い布団の中にいた。人間は、絶望の深みにずぶずぶと堕ちていく夜があれど、眠りと朝がそれを緩和することで生きてるんじゃないかと思い、でも、おれは死んだほうがずっといいんだけどなあと失笑した。おれは絶望に怠惰だ。絶望が面倒になるなんて、なんとも人間的なことである気がする。カーテンを開けると、白くまぶしい太陽光が目ににじみ、眠りも太陽も、夜中に死に憧れた人間の足をつかんでくるんだよなあ、と思う。
小さなフライパンを出して、卵を二つ使って目玉焼きを作って食べた。無精卵とか細かい話はいいにして、おれは命を食べている、と思った。自分のクソみたいな命をつなぐために、何か尊いものを食べていると思ったけど、全てのものが尊いか、もしくは世の中に尊いものなんて一つもないのかなと考えた。その目玉焼きを醤油をかけて食べたけど、一つ食べ終わった時点で飽きてきて、もぞもぞした単調な命の味がして、最後には卵半分ぶんぐらい残ったものを箸でがっとつかんで、口に突っ込んだ。もそもそと、口の中の水分を奪っていく、少しだけ甘い味がうざいぐらい口を満たした。
ゆっくり洗い物などをして、じりじりと時間を浪費して遅くなったせいで、駅から大学への道を歩いている人はいつもよりまばらだった。この道からは、キャンパスのもっと向こう側に位置する山の木々が紅く色づく様子がよく見えた。紅く、またはところどころ黄色く染まったきりか、まだ緑がそのままでいるところもある。きれいだと条件反射のように見とれながら、自分のことをやけにふんわりと明るく考えていた。もう一回大学受けよっかなあ、と思った、ひどく今さらだけど。でも、太陽光に白く照らされながら歩いていくと、自分の卑しさ浅ましさは溶けずとも、それでも世界に受容されて、やり直せるような考えが開けて、浮かんできてしまった。許される、おれは許されるんじゃないかなあと思った。ずっと嘘をついて偽装大学生をしていたことだけじゃない、おれにまつわる全ての穢れが。消えなくても、許されるのではないかという考えが頭をもたげた。おれの口座に入れてもらった学費はほぼ手付かずのまま残っているし、バイトをしたり、奨学金を借りたりすれば、十分なんとかなるはずだ。トートバッグからスマホを取り出し、来年度の入試日程を検索した。おれの入るはずだった文学部の入試は二月四日と六日に開かれるそうだ。自分がそうなるはずだった文学部の学生たちと混じって講義を受けることが耐え難くて、いつも科学棟の大講義室で聴講しているけれど、おれは本来、文系なのだ。二月六日はおれの誕生日だった。誕生日に四年越しの運命を決める受験をするなんて、すごく縁起がいい気がした。誕生日に四年ぶりの合格を手にし、とてもいい年の取り方をする。この日に受験して、やり直しをしたらいいような気がむくむくと湧いた。きちんと受験の申し込みの日にちを確認してからページを閉じる。今日は三限が終わったら、本屋に行って参考書を買おうと思った。もうすぐ坂道を渡り終わってキャンパスにつく。その手前の赤信号で止まり、校門の銀板の上に刻まれた大学名が、太陽光を浴びてぎらっと光るのが見えた。校門を通って今日も科学棟へ歩みを進める、もう二限が始まっているから、今日も途中入室だ。ずっとセックスレスだった妻が若い男と不倫したことで、逆に夫との久しぶりのセックスが燃え上がって夢中になった、みたいに、いつの間にかすっかり倦怠期が来ていたのだろう大学がおれの心をぐいんと動かした。科学棟に向かうまでのローム館の上に、《クローバー祭まであと25日!!》と書かれた紙が張られていて、その端っこが風に吹かれて、ふわんふわんと揺れているのが目に入った。おれは四年ぶりぐらいに、風に吹かれて飛ばされない、地に足が触れかけた人間になった、気がした。
