酔っ払って打ったやつ

ずずずず、と音をたててソバをすする。ソバはすするものだ。でも、日本人の原点回帰を思い起こさせるその音は、おれのソバを起点として円状に広がっていく気体的空間のうち、ほんの近くでしか響くことができず、昼休みの学食のやかましい喧騒に吸い込まれて無きものとされる。すってもすっても瞬く間に音は打ち消されていって、丼の中のソバもきちんと減っていく。
 あ。おれの口にすすられていくソバの末端が、せめて自分がここにいた証を残そうと最後の抵抗をしたかったのか、ぴちゃんとツユをはね上げた。しかし、それはそのうち食堂のおばちゃんにフキンでふかれてしまうまでの寿命すら持たず、非情にも向かいの男のラーメンの丼に入った。結局、入水自殺か。一滴のツユは、薄い黄金色のラーメンの池で、黒っぽい波紋をわずかに作ったあと、一瞬でラーメンの池と同一化していった。向かいのラーメン男が隣の男との話に興じていたせいで気付かれなくてよかった。すいません、と謝るのがかえって気持ち悪いぐらいの微妙な感じだった。知られない、というのは無いのと同じことだ、と、頭ゆるゆるのJDが友だちとくっちゃべっていそうな浮気談義レベルの哲学が、頭の中にポンと開いた。
 ちら、と見ると、ラーメン男のツレの男がエビフライハンバーグ定食を食べていたので、大したことではないのだが、心の中で舌打ちをした。おれはエビ天ソバのメインのエビ天を楽しみに最後まで残しているというのに。エビフライはあくまでハンバーグのおまけでーすって顔してんじゃねえよと、大したことではないが、見知らぬ男の昼食に腹が立つ。違う。そう、くり返しているように本当に大したことではないのだ。でも、耳の入り口を羽毛でまさぐられて感じるような、身体的反射に近いぐらいの苛立ち。心のひどく浅いところで生まれる苛立ちだ。もしかしたら、おれは他人に少しずつ苛立つことを求めていて、それを食べて小腹を満たすことで、おおもとに埋まっている圧倒的飢餓感がないふりをしたいのかもしれない、もしくはただ単に暇なのか。おれは人の中にいるとき、常のように苛立ちというエサを食べようと、口をぱくぱくさせて周囲を見回しているのかもしれない。苛立ちたい。ゴミ山のように積みあがった自分への苛立ちがスライドショーで目の前に流れてくる前に、浅瀬でつかまえられる他人への苛立ちを画面につっこんで、自分へのそれが流れてくる順番を永久に遅らせていたいのかもしれない。

「え、お前、今日、合説に行くの?だからスーツなんか着ちゃってんの?聞くところによると、セールみたく学生でパンパンになった会場で、結局あんまり行かない企業の説明を聞いて回るとかいうイベントなんだろ。みんな黒いスーツで、黒アリになった気分になるみたいな」ほう、おれの一学年下になるはずだった三年坊か、と思う。耳に聞こえてきたエビフライハンバーグ男の発言は、ちょうどいい苛々を提供してくれそうだった。残りわずかなソバをすすることに精神を集中させている人のふりをしながら、耳をそばだたせた。
しかも、「なんだよー、お前そういうこと言うなよー。せっかくやる気スイッチ入ってんだからさー、人の停止ボタン押そうとするのやめろよなー」と不満をにじませるラーメン男に対して、「あのさあ、そもそも就活なんて無駄なんだよ。分かんねえかな、分かんねえか」と冷淡に一刀両断するではないか。おれはソバから視線を上げ、エビフライハンバーグ男の顔をじいと見た。人は、大言壮語しているときや、自分の世界に入り込んでいるときには、他人の視線に気付かないものだ。後輩にとうとうと浅ましい説教を説いているときの先輩面した人間や、公衆の面前で手を取って近距離で見つめ合うカップルなんかがまさにそうだ。
「なんでよ」
「シド・ヴィシャスが二十一歳で死んだから。だから、俺も二十二になるまでに死ぬんだよ。よって、就活は無駄!」と、エビフライハンバーグ男は小さく両手でバンザイをしてみせた。こいつは振り切れて頭がおかしいな、と敬服に近い嘲笑を覚える。しかし、男は、一拍あとで、「はー、冗談、冗談。なんつってな」と続けたので、おれは思わず、ちっ、と舌打ちしてしまった。なんだよ、いかれてるフリして、実は普通の常識人でしたとか一番つまらんオチじゃねえか、とイラついて、あ、そもそもの期待通りか、と苦笑した。エビフライハンバーグ男とラーメン男がおれの顔をちら、と一瞬だけ見てから、お互いに顔を見合わせて何とも言えない空気を醸したあと、俺の存在など何もなかったかのようにまた会話を続けた。
「あー。おれは合説は行きたくないけど、自己PRとかそろそろ考え始めねえといけないのかなー。就活本とか買った方がいいのかなー」と、エビフライハンバーグ男は、おれへの罪悪感など全く無いように手のひらを返した。
「いやいや、今日の合説いっしょに行こうぜ。意外となんか発見があるかもしんないって」と推すラーメン男に、「いやー、今日はだるいわー、そもそも思いっきり私服だしな。お前ひとりで黒アリしてこいや」と、やつらは笑い声を軽く立てた。おれはソバをすすり終わり、最後に残しておいたエビフライを箸でつかむと、すっかりツユをすってふやけているのが、箸伝いに伝わった。がり、と尻尾を噛むと、いくらか生臭い味が口の中に広がって、さらに苛々した。

講義が始まるまではまだ時間があったので、自販機でちっちゃな紙パックのミックスジュースを買って、科学棟のそばのベンチに座ってそれをズーと吸った。紙パックの飲み物をストローで飲むと、吸ってへこんだ容器がへこみの分の空気を取り込んで、もとの形に戻るときに、ズーと音を立てるのはなんなんだろう、とよく思う。ソバのずーずーは美しいけれど、紙パックジュースのズーズーは日本人の美徳じゃないよなあ、とも思ったりした。でもそれは、心の浅いところのさらに浅いところで思ったことなので、実際のところ、何も思わなかったに等しかった。どちらかというと、さっきのエビフライハンバーグ男がおれの心に苛々の余韻を残していて、目の前をぽつぽつ通り過ぎていく学生を視界に入れながら、さっきのことをもう一度考えた。やっぱりあれだ、学生なんて大抵がふざけきった日々を送っていて、大半は真面目に学問に取り組んでいないくせに、いざとなると一人残らずインターンだの合説だの筆記試験対策だのと言い出し、あらかじめ自分たちが社会に受け入れられるのにふさわしいきちんとした学生であったような顔をするのが腹が立つ。
ジュースをすっていると、ネコがおれのそばに寄ってきた、このキャンパスにはなぜかネコがたくさんいる。汚いかな、と思いながらおれはその頭を撫でようとかがんで手を伸ばした。毛を軽く撫でさすってから、そのネコが濁点をつけた不快そうなニャーの声を上げる。触るなってか、と苦笑し、手を引っ込めた。毛をプルプルさせて嫌そうにしたくせに、ネコはどこかにプイと行かずに、おれの靴元に丸くなっていて、なんだよ、と思った。ツナ缶か何かがあればよかったのにな、ない。普通に暮らしていてリュックにツナ缶なんかが入っているわけはない、普通に。足の下にゆるゆる丸まってうずくまったままネコは動かなくて、死んでんのかな、とか、スニーカーの先でキックボールみたくゴツンと蹴飛ばしてやろうかな、とか、有害な物質入りのネコ缶があったら殺せたかな、とか脳味噌の、端っこで思う。全部全部脳味噌の端っこか上っ面で考えていること。おれは、おれの脳の上か端より深いところに潜りたくない。ジーーー、と刑務所みたいなチャイムが鳴ったのが聞こえて、あっやべっと急いで立ち上がった。教室に行く前にネコを一撫でしたかったけど、どうせ嫌がられるだろうと思って、ネコを一瞥だけして、ゴミ箱につぶしたジュースの紙パックをポイと投げ捨てる。ネコが、ニャアアアーというあくびのようなネコ声をあげたのが背中の後ろから聞こえた。ただ、おれはネコ語が分からないのでなんと言っているかは分からなかった。